(写真)北京市内で多く見かける槐(エンジュ)の木
特派員生活も、丸4年の任期を迎え、帰国の時が来た。最後の1か月で最も印象に残ったのは、獄中でノーベル賞を受賞した民主活動家・劉暁波(りゅうぎょうは)氏の死去だ。
天安門事件にも参加した劉氏は、2008年に共産党の一党独裁を否定し、民主化や言論の自由などを主張した「08憲章」を発表した。しかし、そのせいで当局に拘束され、懲役11年の実刑判決を受ける。その後、獄中にいながら、同年10月にノーベル平和賞を受賞したが、中国当局は受賞を認めず、授賞式では空の椅子だけが壇上におかれていた。
受賞後も劉氏は獄中で闘病生活を送っていたが、2017年6月末に、重い肝臓がんの治療のために保釈されたことが判明した。そして、保釈が判明してからわずか半月後の7月13日夜に、劉氏は帰らぬ人となった。劉氏が入院していた瀋陽市内の病院周辺は厳戒態勢が敷かれ、治安当局が、集まってきたメディアや支持者を排除した。ノーベル賞受賞者の死去にもかかわらず、新華社通信や中国中央テレビ(CCTV)は、国内向けには無視を決め込んだ。海外のマスコミ向けに、劉暁波氏の兄は記者会見を開いたが、共産党の対応を「完璧だ」と褒めたたえただけで、質問に答えることはなかった。
さらに、死去から2日後、火葬された劉暁波氏の遺骨は、近くの海にあわただしく散骨された。当局は妻のコメントを引用し、「遺族の意向」だと強調したが、妻には一切接触できないため、本当に彼女の意思なのかどうかは、確認することができない。一方、地上に埋葬してしまうと、その墓地が劉暁波氏をしのぶ「聖地」となるため、急いで海に撒いたのだという説も、強くささやかれている。
驚いたのは、一連の動きはほとんど報道されていないにもかかわらず、劉氏の死去がネット上でたちまち拡散されたことだ。ウェイボと呼ばれる中国版ツイッターや、ウェイシンと呼ばれる中国版のラインは、劉氏を追悼するコメントであふれかえった。対する規制当局は、運営会社に命じて、それらの追悼文を、次々と削除していく。最終的には、単なるろうそくの絵文字さえ、投稿できなくなってしまった。ある意味、死者に鞭打つような、非常に残酷な仕打ちである。
「本当に政府のやり方は我慢できない。新聞の仕事もつまらなくなった」
劉暁波氏の一件の後、元記者の友人と会った時の言葉である。彼は、2年ほど前に記者の仕事を辞めた。人権派弁護士などとも親しく、かつては独自目線の調査報道をしていたが、書ける話題がどんどん少なくなっていったのだという。同じように記者を辞めていった人物を、私は数人知っている。書けないだけではなく、敏感な人たちと付き合うこと自体に、様々な「リスク」が伴うのだという。また、新聞やテレビの報道が規制されていることは、中国の庶民には周知の事実で、みな「知りたいことは何も載っていない」と冷めた目線を送っている。
私が赴任した2013年当時は違った。今よりも表現できる内容の幅はずっと広かったし、就任したばかりの習近平国家主席が、表現の自由などを徐々に認めてくれるのではないかと、期待する声もあった。しかし、期待はすぐに絶望へと変わる。習近平体制は逆に締め付けを強化し、人権派弁護士を次々に摘発した。インターネットを取り締まる法律も策定し、「メディアは党の宣伝機関だ」と、改めて強調したのである。
現体制が恐れているのは、「アラブの春」の時のように、政府に対する批判が一挙に高まり、制御不能な状況に陥ることだろう。ノーベル賞を受賞したとはいえ、一介の病人に過ぎない劉暁波氏を、必要以上に強く恐れるのも、彼の主張が多くの人を魅了し、現体制への不満を持った人たちの心を強くゆさぶることを、共産党自身が認めていることの証拠だともいえる。
このような言論統制が続けば、ノーベル賞を取った劉暁波氏の存在は、日に日に忘れ去られていくだろう。まさに「消されたノーベル賞」だ。天安門事件でさえ、今の若い人には教えられておらず、何も知らない人が増えてきている。
優秀な共産党に任せておけば、庶民は何も考えなくても、将来安泰なのかもしれない。中国には中国独特の民主制のスタイルがあるのかもしれない。それでも、あったものをなかったことにするのは、中国国民の知る権利を踏みにじるものだし、国民を非常に馬鹿にしているように感じる。事実をきちんと伝えた上で、判断を仰ぐのが正しい態度ではないだろうか。
日本に帰国し、時の政権を自由に批判できるこの国は、まだまだ風通しが良いと感じる。新聞やテレビに対する信頼感も、中国に比べればずっと高い。これからも記者として、できるだけ正しい情報を、できるだけ客観的に伝えていきたい。そして、それを見た日本や中国の人たちが、いろいろなことを考えてくれれば、記者としての本望である。
(今回で連載は終了させていただきます。本当にありがとうございました)
今年4月、北朝鮮に行くチャンスが訪れた。故金日成主席の誕生日「太陽節」に合わせ、海外メディアを招待するというのだ。これまで北京で、北朝鮮の動静を取材してきた身として、実際に現地に行ってみたいという思いは、常に持ち続けてきた。もちろん、相次ぐミサイル発射に加え、更なる核実験の可能性がある中で、安全が確保できるのか、懸念はあった。国交がないので、いざという時に守ってくれる日本の大使館はない。ただ、行って初めてわかることもあるだろうし、何より非常に貴重な機会である。総合的に判断し、今回は取材ツアーに参加することを決めた。
「謎の国」北朝鮮の「謎の首都」平壌までは、北京から高麗空港に乗り、たった2時間で到着する。待ち構えているのは、厳しい荷物検査だ。持ち込む本は、1つ1つ細かくチェックされ(日本語がどこまでわかっているのかは不明だが…)電波を発するWifiルーターはすべて没収された。四苦八苦して手続きを終え、ゲート抜けると、そこには2人の男性ガイドが迎えに来ていた。北朝鮮で外国人は自由に行動できず、必ずガイド同伴の移動となる。彼らは日本語も堪能で、意思疎通には困らないが、独特のルールもある。
まず、「北朝鮮」という言い方はNGだ。先方の公式見解では、南=「韓国」という国は存在しない。朝鮮に北も南もないのである。なので、基本的には「共和国」または、「朝鮮」と呼ぶ。また、新聞を読むときは、金正恩委員長の写真を折り曲げてはいけないといったルールもある。ただ、最低限のルールさえ守れば、「安倍総理をどう思うか?」といった政治的な話も、比較的自由にできた印象はある。
取材は全て、先方が設定した場所を回る「ツアー方式」だ。金正恩委員長が指示して作った医療施設や、娯楽施設が主な取材先で、庶民の暮らしが良くなっているといった成果をアピールする場所が多い。ほとんどの日程は告知されているが、直前までわからない日程もある。それは、金正恩委員長が参加する日程だ。
例えば、金正恩委員長がテープカットに参加した「黎明通り」の取材に関しては、前日の深夜11時を回ってから、「明日は午前4時集合」と、突然通告された。事前に教えないのは、安全上の理由だろう。また、集合時間が非常に早いのも、安全検査に時間がかかるからである。金正恩委員長が、身の安全を非常に気にかけていることがうかがわれる。
ツアー中、金正恩委員長を見たのは、「黎明通り」のテープカットと、太陽節の軍事パレードの際の2回。どちらも非常に遠くから見たので、表情は分からなかったが、恰幅が良かったのが印象的だった。スピーチはしなかったので、肉声を聞くことはできなかった。
また、地方での取材もあった。東部の港町、咸興(ハムン)で、現地に暮らす残留日本人の取材が設定されたのだ。1910年から終戦まで、日本は朝鮮半島を統治したが、戦後の混乱で、現地に取り残された残留日本人の問題は、これまであまり取り上げられてこなかった。自宅で取材に応じた彼女は、北朝鮮政府への感謝をとうとうと述べた。涙ながらに日本の童謡を歌う場面もあった。もちろん、パフォーマンスの要素もあるのだろうが、70年以上の彼女の苦労を思うと、複雑な思いがよぎった。彼女とメディア全員で夕食を取った後、別れ際に握手をした際の、強い手の力が印象的だった。
さらに、買い物をする機会もあった。北朝鮮のスーパーに連れて行かれたのだが、そこでは一切撮影が禁止された。別の記者は値段をメモしていただけで注意され、メモした紙を没収された。同じ紙を何度も再生しているからだろうか、真っ黒な紙でできたノートもあった。記念に買って帰ろうとしたが、ガイドにレジで没収された。全体として、品ぞろえは悪くないのだが、野菜や魚など、生鮮食料品はあまり豊富ではなかった。国際社会の制裁を受けている中で、生活に影響が出ている様子は、伝えられたくないのだろう。
取材を通じて、限られた範囲とはいえ、北朝鮮の人たちの考え方を知ることができたのは、良い経験だった。彼らはアメリカを敵視し、その同盟国である日本や韓国も敵視している。意外だったのは、「血の盟友」として朝鮮半島を戦った中国に対しても、好意的な意見を聞かなかったことだ。アメリカに追随して国連制裁に参加していることが、気に入らならしい。北京にも北朝鮮の人はいるが、やはり自分の国だと、本音を話してくれる率が高いように思う。
行くか行くまいか迷った取材ツアーだったが、振り返ると「行って良かった」と思う。もちろん、北朝鮮側には宣伝目的があるし、ホテル代や食事代を通じて、外貨を稼ぐ目的もある。それでも、実際に現地で、ガイドたちと同じ釜の飯を食べることで、通じ合える瞬間はあるものだ。また、そうした個人同士の交流の積み重ねで、国と国との関係も、変わっていくのだろうと思う。
「金正男氏がマレーシアで殺害された」
韓国メディアが報じたのは、バレンタインデー、2月14日の夜だった。最初は半信半疑だったが、その後マレーシア政府も北朝鮮国籍の男性の死亡を発表。そこからは、怒涛の取材合戦が始まった。マレーシアは華僑が多く、中国語メディアから得られる情報も多いため、各局とも北京や上海の支局から、マレーシアに大量にスタッフを投入したのだ。
事件は謎が謎を呼ぶ展開だった。犯行現場は、衆人環視の国際空港ターミナル。実行犯とみられるのは、北朝鮮と何の関係もなさそうな、ベトナム人とインドネシア人の若い女性。犯行時間は、わずか数秒程度。センセーショナルな防犯カメラの映像は、繰り返しテレビで放送された。殺害動機もまた不可解で、女性らは「いたずらビデオの撮影」と供述しているが、にわかには信じがたい。そして、最後まで最大の謎となったのは、事件の背景に北朝鮮が、どの程度関与したかということだ。
当初、マレーシア政府は強硬に対応した。事件に関わったとされる北朝鮮男性リ・ジョンチョル氏を拘束したほか、数人の北朝鮮男性の顔写真と氏名を公表し、指名手配したのだ。また、遺体の引き渡しを求める北朝鮮に対し、あくまで遺族側への引き渡しを主張し、要求を突っぱねた。さらには、捜査を進めるマレーシア警察を批判した北朝鮮の駐マレーシア大使を「好ましからざる人物」として、国外追放した。
一方、北朝鮮も反撃に転じる。「事件が公正に解決されるまで」北朝鮮国内にいるマレーシア人の出国を禁止する措置を発表したのだ。いわゆる「人質」を取った形である。また、マレーシアを追放された北朝鮮男性リ・ジョンチョル氏は、経由地の北京の北朝鮮大使館前で、深夜にも関わらず、長々とマレーシア警察の捜査の不正を報道陣に訴えた。私は取材を担当したが、リ・ジョンチョル氏が祖国を愛する歌を、朗々と歌うなど、妙に芝居がかっていたのが印象的だった。
その間、北朝鮮政府は一貫して、死亡した男性は、「金正男」氏ではなく、パスポート名の「キム・チョル」氏であると主張した。最高指導者の金正恩氏に母親の違う兄がいることは、これまでも北朝鮮国内では報道されていない。また、北朝鮮と関係が深い中国の公式メディアも、「金正男」氏殺害といった表現を避け、「ある朝鮮人男性」の殺害という報じ方をした。中国はこれまで、マカオで金正男氏とその家族を保護してきたとされているが、そのことにも一切触れようとはしなかった。
金正男氏はかつて、ロイヤルファミリーの一員として、金正日総書記の後継者候補にも挙げられていた。しかし、弟の金正恩氏が跡継ぎに決まって以降は、政治の世界から身を引き、主にビジネス活動をしていたという。朝鮮半島情勢に詳しい日本の関係者は、金正男氏には政治的な影響力も野心もなかったと分析している。それなのになぜ、彼は殺されなければなかったのか?そして、その身元すら公表されず「ある朝鮮人男性」として、一生を終えるというのは、あまりにも不憫ではないだろうか?
そう思っていた矢先に、またも衝撃的なビデオが公開された。金正男氏の息子とされる、キム・ハンソル氏のビデオメッセージである。彼自身も命の危険がある中で、「私は金一族の一員だ」とはっきりと述べたメッセージからは、父親が生きた証を残したいという意志のようなものが感じられた。また、メッセージから数日後には、DNA鑑定で、遺体の身元が金正男氏だと正式に判明した。DNAの資料をマレーシア警察に提供したのがハンソル氏かどうかは不明だが、少なくとも親族の協力によって、「ある朝鮮人男性」は、本来の「金正男」という名前を取り戻したといえる。
それから先も、マレーシアと北朝鮮のこう着状態は続いた。そもそもマレーシア政府は北朝鮮と友好的で、事件が起こる前まではビザなし渡航を認めていた。私はスマトラ島のサラワク州を取材したが、以前は工事現場や炭鉱などに、北朝鮮の労働者がたくさんいたということだ。しかし島の一般の人たちは、北朝鮮と韓国の違いも分かっていないようだった。また、マレーシアにとっては、自国民の解放こそが第一で、事件の真相究明は二の次という判断にもなったのだろう。両国は秘密裏に協議を重ね、最終的には「人質交換」が成立する。事件に関係したとみられる北朝鮮の男性たちは、何食わぬ顔で平壌に戻り、真相は藪の中となった。ある意味、北朝鮮の作戦勝ちといえる。
ちなみに、政府どうしは関係が深い中国と北朝鮮だが、中国人一般の北朝鮮に対する感情は、必ずしもあまりよくないように感じる。かつては、朝鮮戦争をともに戦った「血の盟友」だったが、今や「何をするかわからない危険な隣人」と眉をひそめる人も多い。このような隣人とどう付き合っていくか、マレーシアのみならず、世界中の国々に突きつけられた課題だろう。
年が明け、あっという間に1か月が経った。思えば、中国に赴任してから4回目、留学時代も含めると、5回目の年越しである。住んだ人ならわかるだろうが、中国で年を越すと、少し得をした気分になる。それは、新暦と旧暦、2回の正月を祝うことができるからだ。
新暦の正月=元日は、クリスマスから一気に連続するイメージだ。旧暦がメインの中国だが、グローバル化の影響か、最近は新暦の正月を祝うムードも強まっている。習近平国家主席も、新暦の年越しに合わせて、談話を発表する。
それから1~2か月で、次は旧暦の正月だ。こちらは「春節」といって、爆竹を鳴らして盛大にお祝いをする。政府や会社も一週間以上お休みとなり、13億人の人が、帰省や旅行で大移動する。駅や空港は人であふれかえるが、北京のビジネス街は嘘のように静かになる。
そして新暦の正月から旧暦の正月までの間は、お祭りムードが続く。「新暦の新年会」だ、「旧暦の忘年会」だと、飲み会の頻度も多い。それはそれで大変結構なのだが、ここ数年は困ったことが起きていた。それは、行き帰りの「足」である。
北京市内では、年々タクシーをつかまえることが難しくなっているのだ。北京のタクシーの初乗り料金は13元(約200円)と安く、利用者は以前から多かった。加えて、配車アプリの普及で、すでに予約されている車両も多く、空車でも乗車拒否されることが多い。そんな時は本当に心がへこむ。氷点下の寒空の下、タクシーを求めてさまよい歩き、酔いがさめてしまうこともしょっちゅうだ。しかし去年から、オレンジ色の「救世主」が登場した。それが、鮮やかなオレンジ色のタイヤやフレームが特徴の「モバイク」と呼ばれる、「共有」レンタサイクルだ。
この「モバイク」、レンタル料金は30分で0.5元~1元(8円~16円)という破格の安さ。位置情報システムが内蔵されているため、スマートフォンで簡単に探すことが出来る。貸し借りの方法も非常に簡単で、事前登録さえしておけば、自転車についているQRコードをスキャンするだけで、カギがあき、乗ることが出来る。返す時も特定の場所に戻す必要はなく、カギを閉めるだけで、自動的に料金が引き落とされる。何より「乗り捨て」できる気軽さがあるため、飲み会などの際に、非常に重宝させてもらっている。
以前自動運転の車を取り上げた際(「特派員のひとりごと」第20回参照)に、一気に物事を立ち上げる「中国的速度」について書いた。この「モバイク」に関しても、同様のものを感じる。自由に乗り降りできるのは非常に便利だが、盗まれるリスクはないのか?カゴやタイヤなどの部品だけ持っていかれないか?そもそも法整備前に、勝手にサービスを立ち上げてよいものなのか?…
私なら、サービスを思い付いても、様々なデメリットを考えてしまい、それらの問題点がすべて解決されない限り、事業化に二の足を踏むだろう。しかし「モバイク」の動きは早かった。去年上海から始まったサービスは、すでに15都市に広がっている。台数も、かなりのペースで投入が行われている。まずは「やってみる」。そして問題点が見つかったら、その都度対応していく。中国人の適応能力の強さと速さが、「モバイク」にも表れているようだ。
盗難や違法利用などの問題はもちろんある。モバイクは、それらを非常にユニークな方法で解決しようとしている。ユーザーたちに、違法利用を通報させるのだ。通報したユーザーは「信用度」が上がり、通報されたユーザーは「信用度」が下がる。休みの日に多くの違法車両を発見し、ほかの人が使いやすい状態に戻す「モバイクハンター」と呼ばれる熱狂的ファンもいる。ユーザーは自らの信用度を上げるという「利己主義」的な行動をとりながら、実はサービス自体の質を向上させるという「利他主義」的な効果が生まれている。
モバイクの事業に興味を持った私は、北京の事務所を訪ねてみた。ITベンチャーが集まる地域にあるオフィスには、20代から30代の若者たちが、思い思いの服装で働いていた。英語が非常に堪能な、若い女性の広報は、今後の目標について、非常に明確に答えてくれた。
「どうやったら車への依存を減らして、空気をきれいにできるかを考えています。良い製品と良いサービスを提供しつづけ、社会に良い影響を与えたいです。」
「モバイク」は「インターネットを利用した成長」という国策にも乗り、急成長している。しかし、台数が増えれば増えるほど、コストがかさむことは自明の理だ。さらに、市の中心部などでは、モバイクが停止できないエリアも徐々に増え始めている。金融やIT業界では、今のモバイクのビジネスモデルで、持続的に発展していけるかどうか、半信半疑の人も多い。
1年後も「モバイク」は飲み会帰りの救世主であり続けるのか?そして、社会を変えるという壮大な実験は成功するのだろうか?これからも見守っていきたい。
11月12日早朝、北京市内の宅配便の配送基地に、大型トラックが横付けされた。荷台には、形も大きさもばらばらな荷物の山。2人のおばさんがその荷物を次々とベルトコンベヤーに載せ、大量の男性配達員が人海戦術で、さらに細かい行き先ごとに仕分けする。
中国流の仕分けは少し乱暴だ。割れ物でなければ、投げてやりとりすることも日常茶飯事。配達所内では、荷物が容赦なく宙を飛び交っている。たまにキャッチミスをすることもあるが、それもご愛嬌。途中で、箱や袋が壊れることもよくあるのだろう。各配達員の持ち場には、テープが備え付けられており、みな慣れた手つきで補修を行っていた。
仕分けが終わると、配達員は担当する荷物を電動バイクの荷台に詰め込む。荷物が普段より多いのだろう。収まりきらない分を荷台の上に乗せ、ひもで固定する者も多い。朝ごはん代わりの菓子を食べながら作業していた配達員は、勘弁してよといった口調で、こうつぶやいた。
「去年の3割増しかな。すごい量を配ることになるね。」
悲鳴を上げるほど荷物が多いのには、理由がある。実は、11月11日は、中国で「ネットショッピング」が最高に盛り上がる日で、その翌日以降、商品が続々と家庭に届けられるからだ。そもそも7年前、「独身の日」と呼ばれていた11月11日に、アリババなどのインターネットショップがセールを始めたのがきっかけで、規模は毎年拡大してきた。人気商品はすぐ売り切れてしまうため、日付が変わる深夜0時に「購入」ボタンを押そうと、夜更かしをする若者も後を絶たない。今年は一日で、1207万元(約1兆8000億円)を売り上げた大イベントとなっている。
ではそんな大イベントを支える配達員は、どのような人なのか。私たちは、羅さんという26歳の男性を取材した。羅さんは貴州省出身の少数民族で、最初は中国南部の広東省の工場で、出稼ぎ工員として働いていた。しかし工場の景気が悪くなり、4年前に、北京に来たのだという。
「同郷の友達に紹介されて配達員を始めたんだ。朝から夜まで働いて、毎日充実しているよ」
配達にも同行したが、住所表示が発達していない中国では、路地裏のマンションを見つけるのも一苦労だ。たどり着いた配達先にいない受取人も多く、その場合は再配達となる。また、オフィスあての荷物は、セキュリティの都合上、直接届けることはできず、ビル前の路上に臨時の「受け取り所」を開き、取りに来てもらう。「受け取り所」といっても、ただ荷物を地面にじかに置いたもので、見た目はカオス状態なのだが、そこは渡す方も、受け取る方も手慣れたもの。阿吽の呼吸で荷物がさばけていく。炊飯器やらドライヤーやら、明らかに「私用」の荷物を会社あてに届けるOLが多いのも、中国スタイルと言えるだろう。
工場の仕事より、配達の仕事のほうが、自由でやりがいがあるという羅さん。ただし、月給は6000元(約9万円)と、家族3人が北京で暮らすには十分ではない。羅さんは普段は1日に3000件の荷物を運ぶが、「独身の日」の直後は、倍の6000件以上に荷物が増えるのだという。
「もちろん、ボーナスは期待しているよ」
休む間なく午前中の配達を終えた羅さんは、近くの小さな食堂で、毎日お昼を食べる。同じ貴州のおかみさんが開いた食堂で、無料で食事をふるまってくれるからだ。この日のメニューは、豚肉と大根をじっくり煮込んだスープで、貴州特有の辛い味付けが施されていた。
「ふるさとの味を食べると元気が出るね。将来はレストランを開くのが夢なんだ。」
私たちにも食事を勧めながら、羅さんは夢を語ってくれた。
配達員が活躍する分野は、商品の配送だけではない。昼時のビジネス街には、おそろいのユニフォームの配達員が大量に現れる。彼らは、「出前サイト」の配達員だ。日本では蕎麦屋に出前を頼む場合、持ってくるのは蕎麦屋の従業員だが、中国では「出前サイト」の配達員が、蕎麦屋に行って買ってきてくれる。ついでに別の店でコーヒーを買ってきてもらうこともできる。それでも、送料はほとんどかからない。羅さんのように、地方出身で、低賃金の労働者が、たくさんいるからだ。昔なら「農民工」として働いていた彼らこそが、ネットとリアルをつなぐ、縁の下の力持ちといえるだろう。
ネット上でソフトウェアを走らせるだけでは、モノは何も動かない。リアルの世界でモノを動かし、ネットを「便利で役立つ」ものにする仕組みが、何より大切だ。仕組みが出来て初めて、「安くて便利だから使う」→「配達員が必要になる」→「雇用が生まれる」という好循環が生まれる。もちろん、仕組みを作るのは政府ではなく、民間の人々だ。安い労働力を生かして仕組みを作る側も、その仕組みに積極的にコミットする労働者の側も、欲望に非常に忠実で、かつ非常にしたたかだ。政府ではなく、この民間のしたたかさこそが、中国最大の強みなのかもしれない。
青空のかなたから、耳をつんざく轟音を立て、2台の黒い戦闘機が現れた。次の瞬間、2台は左右に分かれ、猛スピードで大きく旋回する。一旦視界から消えた機体が、すぐに再び頭上に現れ、今後は機首を真上に向ける。そこからは一直線、垂直に急上昇だ。白い軌跡を真っ青な空に残しながら、ぐんぐん、ぐんぐん上昇を続け、はるか上空で視界から消えた。その間、わずか2分ほど。これでもかと機動力を見せつけた最新鋭戦闘機は、余韻だけを残し、再び現れることはなかった。
これは11月1日に、広東省珠海市で開幕した、航空ショーの一コマだ。頭上を通り過ぎていった機体は、中国が国産で開発を進める最新鋭ステルス戦闘機「殲20(せん・にじゅう)」で、この日が、公の場での初登場となる。地上では、秘密のベールの向こうから姿を現した最新兵器に、多くの航空ファンが熱狂的な視線を浴びせ、人民解放軍の制服組トップ、範長龍氏が満足そうにその姿を眺めていた。
ショーではほかにも、中国が配備を進める無人機「翼竜」や、最新の大型輸送機「運20(うん・にじゅう)」などが披露された。空軍のスポークスマンは「中国空軍の力量を見せつけ、強い軍としての自信を伝えるものだ」と豪語した。まさに、人民解放軍にとっての晴れ舞台といっていいだろう。
しかし、光あるところには、常に影がある。航空ショーから先立つこと3週間。10月11日の深夜、軍の創立記念日の名前を冠した「八一大楼」の前には、多くの迷彩服を着た男女が集まっていた。そして、彼らを周辺から隔離するように、「八一大楼」前の道路数百メートルを、大量の警察官と警察車両が取り囲んだ。北京市の中心部にそびえる巨大な「八一大楼」は、人民解放軍の幹部が外国から来た要人らと会見を行う、軍の迎賓館ともいえる建物だ。もちろん、軍事禁区として、一般人の立ち入りは禁止されている。その場所にこれだけの人が集まり、これだけの警察官が動員されるというのは、尋常な事態ではない。赤と青のパトカーの警告灯が、普段は物静かな深夜の大通りを、せわしなく照らしていた。
「退役した軍人が、待遇改善を求めて、デモをしているようだ」
周辺の人に聞くと、迷彩服の男女は昼ごろから集まり始めたという。さらに驚いたことに、彼らは全国各地から、時を同じくして、一斉に集まって来たらしいのだ。時計の針は深夜12時を回っていたが、退役軍人たちの動きは秩序立っており、大声を上げたり、警察らともめたりする様子はなかった。彼らはどこから来て、何を求めているのか?少し離れた場所で迷彩服の男女何人かに話しかけてみたが、口止めされているのか、皆こちらを一瞥するだけで、答えてくれる人はいなかった。通常、自分たちの主張を押し通すために集まってくるデモ隊は、マスコミの前で自分たちの主張を声高に叫ぶものだが、彼らにはそんな素振りは全くなかった。プラカードや横断幕などもなく、ただ黙って集まっているだけ。その自制心の強さが、軍人らしいと言えばそうなのだが、どこか奇妙な感じはぬぐえなかった。
そして翌朝、再び「八一大楼」の前に来て、目を疑った。夜の出来事が嘘のように、迷彩服の男女がすっかり姿を消していたのだ。中国メディアはデモについて、一切報道していないので、何も知らない人は、ここで何が起こっていたか、想像もつかないだろう。情報を総合すると、彼らの出身地の省の幹部らがそれぞれ北京入りし、待遇改善を約束するという条件で、必死で説得したようだ。その後国防省は取材に対し、退役軍人の一部が生活に困窮し、デモを行ったことを認めた。その上で、「軍改革を進めることで、彼らの生活問題を改善できると信じる」とコメントした。いつもは木で鼻をくくったようなコメントしかしない国防省が、デモを素直に認めたのも、意外なことだった。それだけ、今回の動きに対する、危機感が強いのだろう。
人民解放軍は中国という国の軍隊である前に、中国共産党という党の軍隊だ。日中戦争と国共内戦を勝ち抜き、武力で政権を樹立した中国共産党にとって、人民解放軍こそが、己の権力の源泉といえる。しかし、権力を持った軍は各種の利権と結びつき、ビジネスに手を染め、本来の姿を見失っていった。そこに危機感を持ち、メスを入れたのが、習近平主席だ。7つあった軍区を5つの戦区に再編したほか、連合参謀部などを新設し、陸軍中心の仕組みを改めた。30万人の兵力削減も宣言した。習主席は軍改革で「戦う軍隊を作る」としたが、逆に言うと、これまでの軍には「戦う」ことより「金儲け」ばかりを考える軍人が、少なからずいたということだろう。
巨額の費用を投じ、最新鋭の兵器を開発する一方で、多くの退役軍人が生活に困窮しているという歪み。軍改革がその歪みを解決できるのか、さらなる歪みを生んでしまうのか。今後の中国を占う上での、大きなファクターといえるだろう。
9月2日に到着した杭州の街からは、普段の賑わいが全く消えていた。マクドナルドも、ケンタッキーも、地元の食堂も、ほとんどの店が閉店している。主要道路の交差点には、警察の車両が停まり、銃を持った警官が辺りを見回している。不審者の侵入を防ぐためだろうか、マンホールまでがシールで封鎖されていた。この地で開催される重要会議、G20(=主要20か国・地域)サミットを控え、厳戒態勢が敷かれていたのだ。
「G20の期間中に旅行に行って杭州市民の身分証を見せると、全国どこの観光地でも入場料が無料らしいよ」
真偽のほどは不明だが、現地のドライバーが教えてくれた情報だ。大気汚染を防ぐために杭州市周辺の工場は全て閉鎖され、一般のオフィスもすべて休日となった。突然の連休が与えられた市民には、旅行に行くことが「奨励」されているのだという。
もちろん、我々マスコミも、自由に移動することはできない。ホテルに入る際には「安全検査」、移動のバスに乗る際には「安全検査」、どこへ行っても、「安全検査」…「取材じゃなくて、安全検査にきたみたいだ」というのは、各国のマスコミ共通のグチである。
「やりすぎ」なくらい気合が入っていた理由は、やはり習近平国家主席が込めた強い思いにあるだろう。
「現在の状況下で、G20は国際経済協力の場としての役割をより大きく発揮すべきだ」
習主席は会議で何度も強調した。そもそもG20サミットは、2008年にアメリカで起きたリーマン・ショックをきっかけに創設された。未曾有の大危機に対して、先進国が手も足も出ない中、4兆元の公共投資で世界経済を支えた中国は、「救世主」としてもてはやされた。自らを「世界最大の発展途上国」と位置付ける中国は、これまでの先進7か国=G7中心の世界秩序を、作りかえることを目論んでいる。そのためにも、中国が存在感を示せるG20という場所を、G7に代わるものに、仕立てあげたい思惑があるのだろう。
また、開催地の杭州も、習主席には思い入れの深い場所だ。習主席は40代後半から50代前半の、まさに脂の乗り切った6年間を浙江省のトップとしてこの町ですごし、中央政界で駆け上がっていくための重要なステップとした。開幕式では「この街の山も草木も、風土も人情も、知り尽くしている」と彼自身が述べている。「自らの地盤に、大イベントを誘致したい」という思いは、古今東西、どこの政治家でも同じなのだろう。
そんな習主席の思いをみな、わかりすぎるほどわかっているから、「どうしても失敗できない」という思いばかりが強くなる。経済分野を担当するある日中関係筋は、「中国のどの官庁に行っても、G20が終わるまではほかの仕事はできないと、けんもほろろに突き返される。仕事にならないよ」とぼやいていた。
「失敗は許されない」から、どうしても記者の管理もきつくなる。特にいうことを聞かない外国記者ならなおさらだ。今回G20に先立ってB20というビジネス界のトップを招いたフォーラムがあったのだが、そこでひと悶着があった。取材を許された記者たちが、さらに2つに選別され、外国記者らは、習主席の演説会場に入れないことが判明したのだ。その演説が目当てなのに、入れないという虚脱感…記者たちは、何時間も映画館のような場所に押し込められ、何もすることがなかった。イライラして担当者に怒りをぶつける外国記者もいたが、もちろん何も解決しない。事前の告知をより徹底すれば、このようなすれ違いは起きないのだろうが、その辺の段取りはまだ苦手なのだろう。
会議自体は、習主席が恐れていた「南シナ海」の問題が大きく取り上げられることもなく、無難に幕を下ろした。首脳宣言は相変わらず総花的だが、G20という会議の性質上、それは仕方がないのかもしれない。むしろ首脳たちが直接会って、様々な話題について意見交換をすることが大切なのだろう。中国のマスコミは翌日から「大成功」を、大々的に宣伝している。
ただ、私自身にとっては、残念なことがいくつかあった。一番残念だったのは、G20に合わせて実施された日中首脳会談だ。安倍総理と習主席が握手する場面の背景に、両国の国旗がなかったのだ。日本に対して仲の良いところを見せると、弱腰と見られることを恐れての、国内向けの対応なのだろうが、世界を相手にしているG20の舞台でそんなことをやるのは、あまりにも器が小さいのではないだろうか?
また、テレビ朝日の中継の途中に、音声が乱れるという場面もあった。中国当局による妨害があったかどうかはわからないが、都合の良いところだけ見せるのではなく、ありのままの姿を見せるだけの度量の大きさを、中国当局には求めたいと思う。
「面倒くさい国ですね」
安倍総理の同行で、東京から取材に来ていた記者がつぶやいた言葉が印象的だ。たしかに今は、「面倒くさい国」だが、少しずつでも風通しが良い国になってくれることを、願ってやまない。
照りつける日差しの中、屋台の椅子に座って、私とバングラデシュ人のコーディネーターは、取材相手を待っていた。約束の時間からすでに1時間。砂糖をたっぷり入れたミルクティーを、何杯飲んだだろう。あきらめかけたころ、ようやく彼が現れた。
「食事で遅くなりました。行きましょう」
北京駐在の私にとって、南アジアのバングラデシュは守備範囲外だ。しかし7月1日、日本人7人を含む22人が亡くなるレストラン襲撃事件が起きた。事件取材の応援のため、急きょバングラデシュの首都・ダッカに行くことになったのだ。インタビューに応じてくれたのは、レストランの男性従業員。もともと現場近くに住んでいたが、安全面も考え、今はダッカ郊外の妻の実家に身を寄せている。彼の証言は、非常に生々しいものだった。
「当日は日本人やイタリア人のグループ客の予約が入っていました。パニックが始まったのは午後7時半ごろです。突然、『アッラー・アクバル(アラーは偉大なり)』という声と、銃声が聞こえてきました」
ただならぬ気配を感じた彼は、とっさに厨房横の冷蔵室に隠れた。そして驚いたことに、冷蔵室にはすでに、日本人の男性が逃げ込んでいたという。
「我々2人はまず、携帯電話の電源を切りました。そのあとは軽い運動などをしながら、ひたすら神に祈りました」
銃声や悲鳴が聞こえる中で、息をひそめて隠れる気持ちは、想像を絶するものだろう。一時間余りで銃声はやんだが、犯人たちはレストランに立てこもり続けた。そしてしばらくしてついに、犯人たちは冷蔵室に人がいることに気づいた。2人の抵抗もむなしく、冷蔵室のドアは開けられてしまった。
「冷蔵室から出た時に見たのは、たくさんの死体です。私は犯人に『殺さないでください』と頼みました。犯人は『あっちに従業員たちがいる』と玄関の方を指さしました。信じられない気持ちでそちらに向かいましたが、その時後ろから銃声が聞こえました。一緒に隠れていた日本人が殺されたのだと思いましたが、何もできませんでした」
同じ状況なら、私も自分が生き残ることしか考えられないだろう。誰も彼を責めることはできない。2人の運命は、その時点で無情にも別れてしまった。
さらに夜が更けたころ、犯人たちは意外な行動をとる。店のコックに、料理を作らせたのだ。当時は断食月=ラマダンで、イスラム教徒は昼間に食事ができないため、深夜に食事をとる。犯人もその習慣にならったのだろう。彼らは「コラル」という魚とエビを食べ、人質に向かいこう話したという。
「あなたたちは助かったら、一生懸命コーランを覚えなさい。俺たちはこれから死体になる。何も怖くはない。素晴らしいジャンナ(イスラム教における天国)に行ける。ジャンナで会おう。」
当局の突入作戦が始まったのは、その直後だ。犯人たちの狙いは、初めから、日本も含めた欧米の「異教徒」たちだったとみられる。従業員の彼が助かったのは、同じベンガル人だったからかもしれない。ただ、生き残った彼は、そんな理屈を許してはいけないと強調した。
「どんな宗教も人を殺してはいけない。彼らはイスラムの名を語ってはいるが、イスラムではない」
「イスラム国」によるテロが多発しているが、我々はイスラム教の人=テロリストといった偏見を持たないように気を付けなければならない。中国でも、回族やウイグル族といった人たちがイスラム教を信仰しているが、もちろん、彼らはテロリストではない。そして想像だが、今回被害にあわれた方々は、その種の偏見から、最も遠い人たちだったのではないだろうか。バングラデシュのために尽力していた彼らは、イスラム教についての理解も深かったと思われる。
バングラデシュへは初めての訪問だったが、最も強く印象に残ったのが、強烈なスコールだ。バケツをひっくり返したような土砂降りが、毎日定期的にやってくる。そのたび撮影は中断され、道路は水浸しになる。暑さとあいまって、体力が奪われるのを実感する。
そして、次に印象に残っているのが、ダッカの町を彩る、カラフルなリキシャ(人力車)の大群だ。見ている分には楽しいが、はまったら最後、車は全く進まない。そして車が止まるたびに、物乞いの人たちが群がって、窓ガラスをたたき始める。かわいそうだが、一人にお金をあげるときりがなくなるので、無視せざるを得ない。そんな過酷な状況を少しでも改善しようとしていたのが、亡くなった方々のプロジェクトだ。なぜ彼らが殺されなければならなかったのか、考えれば考えるほど、無念の思いだけが募る。
取材を通じて、多くのバングラデシュの人たちが、日本の援助に感謝の気持ちを伝えてくれた。事件は確かに悲惨だが、我々がなすべきことは、援助をやめることではなく、安全を確保し、必要な援助を今後も続けることだろう。バングラデシュには、援助を必要とする人たちが、まだ山のようにいる。
運転席に誰も乗っていない車が、ゆっくりと動きだした。徐々に前進しながら、白線に沿って、小刻みにハンドルを切る。前方に人の姿をとらえると、滑らかに停車する。助手席のガイド役の男性が、後部座席の私に振り返り、誇らしげに話しかけた。
「乗り心地はどうですか?これが北京汽車の自動運転車です」
北京と上海で、毎年交互に開催される中国のモーターショー。今年は北京開催の年だが、「贅沢禁止」のお達しもあり、露出度の高い女性モデルたちは、すっかり姿を消した。そのかわり、注目を集めていたのが、未来の車ともいえる「自動運転技術」を搭載した車たちだ。
特に地元の国有企業・北京汽車は、モーターショー会場にモデルコースを作って、希望者に試乗をさせる力の入れようだった。冒頭のやり取りは、その時の試乗の様子である。
自動運転技術では、国有企業の長安汽車も、注目を集めた。長安汽車は、本拠地の重慶から北京までの2000キロを、自動運転技術を使って走破するというキャンペーンに打って出たのだ。実際にどのくらいを「自動運転」で走ったかはわからない。ともかく彼らは5日間かけて北京にたどり着いたと主張し、その模様は国営メディアで大きく取り上げられた。
メイド・イン・ジャパンのプライド、日本の匠の技…。1976年生まれの私は、幼いころから「日本ブランドは世界一」という誇りを持って育ってきた。特に日本車は、「安くて性能が高い」日本ブランドの象徴的存在だった。幼少期には、あまりに売れすぎた日本車がアメリカで叩き壊される場面をテレビで見て、悲しくなったものだ。
だから心のどこかでは、中国メーカーにはまだまだ負けないだろうと、高をくくっていた部分もあった。しかし、うかうかしてはいられないというのが、今回のモーターショーを通じて得た実感だ。
もちろん、車体やエンジンの質では、日本メーカーは中国メーカーの数段上をいっているだろう。しかし未来の車は、単純な移動手段ではない。電気自動車なら電気制御やバッテリーの技術が必要だし、自動運転を実現するためには、GPSやレーダーの技術も不可欠だ。また、多くの車からインターネット経由でデータを集め、渋滞予防や事故防止に役立てる「ビッグデータ」処理の技術も欠かせない。言い換えれば、車は単なる移動手段から、電気技術やIT技術など、様々な技術を融合した巨大な情報端末への過渡期を迎えているのだ。
その「パラダイムシフト」の真っ最中に、中国は果敢に攻めている。
深センに本社を持つ自動車メーカー「BYD」は、去年のエコカーの販売台数が世界一になったとアピールした。そもそも電池メーカーだった「BYD」は、2003年に自動車に参入したばかりだ。その躍進を支えているのが、「秦」というセダンタイプのエコカー。価格は20万元(約360万円)と安くはないが、政府による多額の補助金が人気を後押しした。「BYD」はほかにも「唐」「宋」「元」といった王朝シリーズの車を出しており、偉大なる復興を目指す中華民族の心をくすぐっている。
10年ちょっと前まで、電池を作っていた会社が、巨大な市場と、政府の力を利用して、一気に世界一の座に踊り出る。中国に赴任して間もなく3年になるが、私はこのスピード感=「中国的速度」こそが、日本と中国との違いではないかと思うようになった。
「中国的速度」の例は、IT業界でも見られる。数年前までは考えられなかったことだが、今では誰もがスマートフォンのアプリでタクシーを呼び、そのままアプリで支払いを済ませる。同じくスマートフォンを数回クリックすれば、三度の食事からぜいたく品まで、何でも取り寄せ可能だ。宅配業者は道端で無造作に荷物を扱っており、「丁寧さ」では日本の足元にも及ばないが、それでも何だかんだいって荷物は届く。そして何より、圧倒的に「速い」。
プロセスではなく、結果を重視する国民性もあるだろう。民主主義ではなく、一党独裁の国家だからこそできる芸当なのかもしれない。他国のITサービスを締め出し、無理やり中国企業のサービスを使わせるといった“ズル”もしている。ただこの官民一体となった「中国的速度」のダイナミックさこそが、中国社会に活力を与えていることは、まぎれもない事実だろう。
「中国メーカーは本当に動きが速い。いつまでも我々が優れていられるかはわからない」
再び北京モーターショー。日系自動車メーカーの幹部が焦りを隠せないのとは対照的に、中国メーカーの鼻息は荒かった。
「伝統的な車では中国は日本に劣っているが、自動運転で形勢は変わる。間違いなく中国は、世界一になるだろう」
私見だが、日本もそろそろ太平の眠りから覚め、「中国的速度」を超えるスピードで、進化を目指す必要があるのではないだろうか?島国に閉じこもっていても、衰退していくだけだ。日本の自動車メーカーのニュースが「燃費不正」の話題だけでは、あまりに寂しい。
砂煙をあげながら、舗装されていない細い山道を、10分以上は走っただろうか。我々を乗せた車は、ようやく山の上の村にたどり着いた。視界が一気に広がり、段々畑に雪がうっすら積もっている様子がはっきり見える。暖房用に石炭を燃やしているからだろう、あちこちの民家から、白い煙がもくもくと上がっている。「窑洞(ヤオトン)」と呼ばれる、山肌をくりぬいて部屋として使っている家も、たくさん見える。「茶色の世界」いや、もっと正確に言うと、「土気色(つちけいろ)の世界」車を降りた第一印象は、さしずめそんなところだろうか。
ここは山西省呂梁(ろりょう)市。市の面積の半分以上を炭鉱が占めるという「石炭の町」だ。中国の重要なエネルギー源として、高度経済成長を支えてきた石炭だが、経済の減速とともに、業界には異変が起こっているという。我々はその異変を探るべく、春節明けの2月中旬に、この「石炭の町」を訪れた。
車を止めた場所から、さらに徒歩で数分登ったところが、今回取材する張さんの家になる。張さんは、今年で56歳。妻と息子夫婦、2人の孫の6人で暮らしている。以前は農業で生計を立てていたが、土地は痩せており、収穫も安定しないため、4年前から炭鉱でも働き始めた。当時は景気が良く、家族を養うのに十分な、毎月5000元(約9万円)程度の収入を得られていたが、去年の後半から状況が一変した。半年近く、給料が未払いの状況が続いているというのだ。
「石炭の値段が暴落したからだよ。以前は一トン当たり500元程度だったものが、今じゃ100数十元だ。会社もこれじゃやっていけないだろう」
あきらめ口調で話す張さんに、奥さんが横から口を挟んだ。
「私たちの生活は石炭に頼り切っていたのに、このままじゃ別の町に出稼ぎに行かなきゃならなくなるね」
張さんが働いている炭鉱は破産したわけではない。張さんも解雇されたわけではなく、自宅待機の状態が続いている。大量の失業者が出ることを恐れる地方政府は、本来破たんしてもおかしくない企業を、補助金などで何とか支えてきた。いわゆる「ゾンビ企業」だ。
多くの従業員たちは、この「ゾンビ」が再び生き返ることを期待し、給料未払いにもじっと耐えている。別の炭鉱では、50歳を超える従業員の解雇が始まったという情報もあるが、張さんはまだ、再び炭鉱で働ける日が来ると信じている。
「問題は石炭が出荷できなくて、在庫がたまることなんだ。石炭が出荷さえできれば、状況は改善されて、仕事が戻ってくる」
しかし、張さんの言葉とは裏腹に、状況はすぐには改善しないだろうというのが、取材した実感だ。町のあちこちでは、敷地の外からでも見えるくらい、石炭の在庫の山が巨大な姿を見せている。市の中心部には建設が途中で止まったマンションが多く林立し、商業ビルのテナントは「貸し出し中」の張り紙ばかり。タクシー運転手のボヤキが、今も耳に残っている。
「以前はたくさん出稼ぎ労働者がいて、週末は遊びに出ていたんだ。それが今は、すっかりどこかに行ってしまった」
……
「石炭の町」の取材から1か月、北京の人民大会堂には、民族衣装も鮮やかな「代表」たちが、数千人以上勢ぞろいしてした。年に1度の政治ショー、全人代(全国人民代表大会)だ。開会式では、李克強首相が経済運営方針を読み上げるのが恒例行事となっているが、今年は、ちょっとした異変があった。
「過剰供給となっている石炭や鉄鋼業界の構造改革を実現する!…『ゾンビ企業』を退治し、その過程で発生する失業者対策として1000億元(約1兆8000億円)を支出する!…困難と挑戦を恐れない。克服できない困難はない!…」
力強い文面とは裏腹に、李首相の顔色がさえない。テレビカメラで確認したところ、大量の汗をかいている様子も見受けられた。さらに異例なことに、演説を終えた後、座って聞いていた習近平国家主席は、李首相にねぎらいの拍手1つしなかった。そして2人は握手もせずに、そのまま大会堂を後にしたのだ。
全人代の期間中には、ほかにも異変があった。黒竜江省の省長が、会議で「炭鉱での給与不払いは存在しない」と発言し、怒った地元の炭鉱労働者が、地元で抗議行動を起こす騒ぎとなったのだ。私も取材したことがあるが、この省長は、頭の回転も速く、出世頭と目されていた。「失言」が、彼自身の過失によるものなのか、何者かによって「仕組まれた」ものなのかはよくわからない。この後、省長は発言を撤回し、給料不払い問題にきちんと取り組むことを誓約し、表面上騒ぎは収まった。この騒ぎからも明らかなのは、「ゾンビ企業」の整理に伴う大量の失業者は、中国社会が抱える大きな不安定要因になりえるということだ。
「石炭の町」の取材中も、盗難事件などが増えているという証言があった。李首相の言うように、中国経済は「ソフトランディング」できるのか。それとも全人代で感じた様々な異変が、何かの大きな前触れとなっているのか。注意深く見ていく必要があるだろう。