特派員のひとりごと 最終回「消されたノーベル賞」

2017年9月1日 / 特派員のひとりごと

(写真)北京市内で多く見かける槐(エンジュ)の木

 特派員生活も、丸4年の任期を迎え、帰国の時が来た。最後の1か月で最も印象に残ったのは、獄中でノーベル賞を受賞した民主活動家・劉暁波(りゅうぎょうは)氏の死去だ。

天安門事件にも参加した劉氏は、2008年に共産党の一党独裁を否定し、民主化や言論の自由などを主張した「08憲章」を発表した。しかし、そのせいで当局に拘束され、懲役11年の実刑判決を受ける。その後、獄中にいながら、同年10月にノーベル平和賞を受賞したが、中国当局は受賞を認めず、授賞式では空の椅子だけが壇上におかれていた。

受賞後も劉氏は獄中で闘病生活を送っていたが、2017年6月末に、重い肝臓がんの治療のために保釈されたことが判明した。そして、保釈が判明してからわずか半月後の7月13日夜に、劉氏は帰らぬ人となった。劉氏が入院していた瀋陽市内の病院周辺は厳戒態勢が敷かれ、治安当局が、集まってきたメディアや支持者を排除した。ノーベル賞受賞者の死去にもかかわらず、新華社通信や中国中央テレビ(CCTV)は、国内向けには無視を決め込んだ。海外のマスコミ向けに、劉暁波氏の兄は記者会見を開いたが、共産党の対応を「完璧だ」と褒めたたえただけで、質問に答えることはなかった。

さらに、死去から2日後、火葬された劉暁波氏の遺骨は、近くの海にあわただしく散骨された。当局は妻のコメントを引用し、「遺族の意向」だと強調したが、妻には一切接触できないため、本当に彼女の意思なのかどうかは、確認することができない。一方、地上に埋葬してしまうと、その墓地が劉暁波氏をしのぶ「聖地」となるため、急いで海に撒いたのだという説も、強くささやかれている。

驚いたのは、一連の動きはほとんど報道されていないにもかかわらず、劉氏の死去がネット上でたちまち拡散されたことだ。ウェイボと呼ばれる中国版ツイッターや、ウェイシンと呼ばれる中国版のラインは、劉氏を追悼するコメントであふれかえった。対する規制当局は、運営会社に命じて、それらの追悼文を、次々と削除していく。最終的には、単なるろうそくの絵文字さえ、投稿できなくなってしまった。ある意味、死者に鞭打つような、非常に残酷な仕打ちである。

「本当に政府のやり方は我慢できない。新聞の仕事もつまらなくなった」

劉暁波氏の一件の後、元記者の友人と会った時の言葉である。彼は、2年ほど前に記者の仕事を辞めた。人権派弁護士などとも親しく、かつては独自目線の調査報道をしていたが、書ける話題がどんどん少なくなっていったのだという。同じように記者を辞めていった人物を、私は数人知っている。書けないだけではなく、敏感な人たちと付き合うこと自体に、様々な「リスク」が伴うのだという。また、新聞やテレビの報道が規制されていることは、中国の庶民には周知の事実で、みな「知りたいことは何も載っていない」と冷めた目線を送っている。

私が赴任した2013年当時は違った。今よりも表現できる内容の幅はずっと広かったし、就任したばかりの習近平国家主席が、表現の自由などを徐々に認めてくれるのではないかと、期待する声もあった。しかし、期待はすぐに絶望へと変わる。習近平体制は逆に締め付けを強化し、人権派弁護士を次々に摘発した。インターネットを取り締まる法律も策定し、「メディアは党の宣伝機関だ」と、改めて強調したのである。

現体制が恐れているのは、「アラブの春」の時のように、政府に対する批判が一挙に高まり、制御不能な状況に陥ることだろう。ノーベル賞を受賞したとはいえ、一介の病人に過ぎない劉暁波氏を、必要以上に強く恐れるのも、彼の主張が多くの人を魅了し、現体制への不満を持った人たちの心を強くゆさぶることを、共産党自身が認めていることの証拠だともいえる。

このような言論統制が続けば、ノーベル賞を取った劉暁波氏の存在は、日に日に忘れ去られていくだろう。まさに「消されたノーベル賞」だ。天安門事件でさえ、今の若い人には教えられておらず、何も知らない人が増えてきている。

優秀な共産党に任せておけば、庶民は何も考えなくても、将来安泰なのかもしれない。中国には中国独特の民主制のスタイルがあるのかもしれない。それでも、あったものをなかったことにするのは、中国国民の知る権利を踏みにじるものだし、国民を非常に馬鹿にしているように感じる。事実をきちんと伝えた上で、判断を仰ぐのが正しい態度ではないだろうか。

日本に帰国し、時の政権を自由に批判できるこの国は、まだまだ風通しが良いと感じる。新聞やテレビに対する信頼感も、中国に比べればずっと高い。これからも記者として、できるだけ正しい情報を、できるだけ客観的に伝えていきたい。そして、それを見た日本や中国の人たちが、いろいろなことを考えてくれれば、記者としての本望である。

(今回で連載は終了させていただきます。本当にありがとうございました)


Noriaki Tomisaka

投稿者について

Noriaki Tomisaka: 1976年8月27日福井県生まれ(辰年、乙女座、B型) 1994年 京都大学法学部入学 1999年 テレビ朝日入社 朝のワイドショー(「スーパーモーニング」)夕方ニュース(「スーパーJチャンネル」)などのAD・ディレクターを担当 2007年〜 経済部にて記者職を担当 農林水産省、東京証券取引所、財務省などを取材 2011年9月〜 北京・中国伝媒大学にて留学生活を開始(〜2012年夏まで)