第1回:エリート大学の中の「日本」

2016年9月10日 / カイシャの中国人



(写真)お倉入りしてしまった石碑。うっすらと落書きのあとが……


 僕は清華大学の訪問学者をしている。といっても本職は経営コンサルタントなのだが、今は出向元の会社と清華大学が学内に設立した研究センターに勤務し、中国の産業や社会の政策を研究している。清華大学は中国の最高学府であるとはいえ、中身は政府機関のようだ。元来中国の大学は研究機関というよりは教育機関として位置づけられてきたので、「真理の追究、人類への貢献」というよりは「国家発展のための技術開発、政策研究」という色合いが濃く出ている。わかりやすく言えば国家のエリート養成所なのだ。
僕はここにきてもう4年半になる。その間、この国家を背負ったエリート大学でいろんな中国人(先生やスタッフ)を垣間見てきた。
 先日もある“事件”が起こった。我が研究センターは僕の所属する日本本社が建物の改修費用の一部を寄付したため、今いるビルの命名権をもらっている。命名権と言ってもまあ、「どこどこの会社が寄付しました、何月何日」といった類の石碑をビルの入口に置いてもらう程度のものだ。その石碑がようやくできて先日、玄関のところに設置した。

 ところが設置したその週末、その石碑に汚い落書きをされてしまった。「中国万歳!日本××~(いわゆる日本をののしる言葉)」と書かれてしまったのだ。僕はたまたま週明けの月曜日は大学に来なかった。月曜日の晩にスタッフから電話が来た。「松野さんの会社を記した石碑にひどい落書きをされました。今それを消しているところです。設置場所を“目立たない場所”に移した方がいいと思います」

お倉入りしてしまった石碑。うっすらと落書きのあとが……

 翌日火曜日、大学に行った。行く途中運転手に聞いてみた。僕の運転手はうちの研究センターの総務を兼ねていてオフィス関係のこともいろいろやってくれる。いつもなら車に乗るとすぐいろんな大学の出来事やうわさを教えてくれる運転手が、その日はなぜか寡黙だった。「うちのセンターの石碑に落書きされたんだって?」「え?ああ、そうそう。でもあの石碑デザインが悪いよ、作りなおした方がいい」「今、どこにあるの。見たい」「あ、もう倉庫に持っていってしまった」……なんか歯切れが悪い。僕に何か隠していることでもあるのかな。
 大学に着いた。「石碑、見せてよ」と僕が言うと、彼はしぶしぶ保安に言って倉庫の鍵をもらい僕を案内した。小さな物置のようなところにその記念の石碑は無造作に置かれていた。落書きはかすかに跡が見えるが、丁寧に消されていた。「何て落書きされたの?」「……」なんか小声で言われたけど、よくわからなかった。言いたくないようだった。そしてまた言った。「このデザイン良くないよ」

 オフィスのスタッフと協議した。「何で倉庫にしまったの?落書きを消せたんだからそのまま置いておけばいいじゃないの。ただの悪質ないたずらでしょ?」しかしスタッフは神妙な顔で言った。大学では以前にも日本企業の寄付で改修された建物に飾ったプレートにクレームがついたことがあるらしい。何とそのクレーマーはれっきとした清華大学教授で、ネットでその写真を公開しかつ学長に講義のメールを出したそうだ。だから今回の我々の石碑もネットなどで騒ぎにならないように、とりあえず倉庫にしまうことにしたそうだ。

 これを「事なかれ主義」ということもできよう。清華大学は社会問題化するのを極度に恐れる体質がある。私のいるオフィスの例がそうだ。このオフィスは改装前は寮として使われており、オフィスに改造するまでは一般人がたくさん“住んでいた”。なぜ大学の寮に一般人が住んでいたかはここでは紙面の関係で触れない。そしてそうした人を立ち退かせるために大学は保証金を払ったのだが、何とその金額に納得しない人がまだ居座っているのだ。つまり我がオフィスの一部分には、まだ未改装で立ち退きを拒否した人のスペースが残っているのだ。よく新聞などに出ているように、中国では強制立ち退きは日常茶飯事なはずだ。でも大学はそれをしないらしい。事を荒立てたくないのだ。

「事なかれ主義」以外にもうひとつ気がついた。たぶん僕にひどく気を使っているのだ。つまり僕の会社は寄付をしたのだから大学にとってはお客さんだ。今回の石碑落書きはそのお客さんに大変恥をかかせた、いや、というより中国人の醜い面を見せてしまった。松野さんはとても不愉快だろう、だからできるだけ僕を刺激せずに静かに今回のことを処理したい。

 中国人は個人としてつき合えば、純粋であけっぴろげだ。でも自分たちの恥となることについてはできるだけ隠したいという行動をとる。清華大学のれっきとしたエリートでも中国人はこんなことをするのか、と馬鹿にされたくない気持ちもあるのだろう。読者は意外に思うかもしれないが清華大学への寄付金合計で一番多いのは日本企業なのだ。だから日本企業は大事にしたい。僕のように中国に来てくれる日本人に不愉快な思いをさせたくはない。じゃあ堂々とこういうことはしないようにと大学に公示すればいいと思うのだけれど、そういうことはやれない。日本企業と蜜月であると思われるのは、それはそれで困るのだ。

 ひとりひとりの中国人は自分の経験と価値観をもとに日本人とつき合ってくれる。もちろん日本を快く思わない人もいるし、好きになってくれる人もいる。でも職場のような団体の中の一員になると、みんな日本に対して構えてしまう。

 日本人も同じ面があるかもしれない。職場で一緒に働いているのに、なぜか中国という“国家”と相対しているような気になってしまう。だから僕らは中国という“団体”とつき合うのではなくて“中国人”とつき合うべきなのだ。その心得がないとこの複雑で二面性を持つ中国を理解することはできない、僕はしみじみそう思う。



第2回:公私混同

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)普通の就業規則には、そこまで書いてない……


中国語で「公私混同」は「公私不分」と言うらしい。そしてこの反対語は「公私分明」と言い、これは“公私を分ける”という意味になるようだ。ところでこの中国語の「公私分明」に対応する日本語が思い当たらない。つまり、日本人は公私を分ける行為というのはある意味当たり前だから、特にそういうワードは作らなかったということになるのか。
 中国人とビジネスをしていて痛切に感じることは、「公私」の概念が僕たちとかなり異なるということだ。中国は社会主義の国だから、当初は会社といってもすべて国有だったので、衣食住全部の面倒を会社に見てもらっていた。だから「公私」の区別なんて特に考えなくてよかったのに、いつのまにか市場経済下で「私有財産」が一部認められるようになった。一番戸惑ったのは、外資企業で働くようになった中国人たちではないだろうか 

 「会社のものは、個人が勝手に利用したり持ち帰ってはならない」、「会社の業務時間内の私用は、上司の許可が必要」、「業務上の秘密を他社や友人などに口外してはならない」等々、当初外資企業で働いた中国人たちは驚いたことだろう。実は僕が上海で会社を設立したときに面食らったのは中国人のこの「公私混同」概念だった。会社の電話やパソコンを私用で使うぐらいはまだ許せるが、業務での出張なのに平気で日程を延ばして友人に会ってきたり、顧客の名前などを友人にべらべらしゃべったりするのには閉口した。極めつけは、退社する社員が会社支給の携帯電話の返還を渋ったことだ。「だって、この携帯には友人の電話番号がたくさんあって、これがないと次の会社で仕事ができません!」
 こんなこともあった。僕の中国人の友人が上海の虹橋空港から電話で「空港でタクシーの行列が長いから貴方の社用車を迎えに来させて!」と言ってきた。「え、それは大変だとは思うけど……うちの社用車だから君には回せないよ」と言うと、「貴方は老板、私たちは友達でしょ?」。この友人は以前にも「私の作った資料、貴方の秘書が空いていたら翻訳してもらえないかしら?」と頼んできたこともある。ああそうか、彼女にとっては僕の車(社用車)でも秘書でも、全部僕の意のままになる私有物に等しいという概念なのか。

 情報ソースは失念したが、以前、会社という概念についてのおもしろい調査結果があった。質問は「会社は誰のものか?」というものだ。答えた人は米日中のビジネスマンだ。米国のビジネスマンは「会社は株主のものです」と答え、日本のビジネスマンは「従業員のものです」と答える。ところが中国人の老板は圧倒的に「自分のもの」と答える。さすがに中国人も会社は“国家のもの”とまでは答えなかったようだが、要するに組織や団体は権力を持つ人間に属するものだという概念だ。

 これでわかった。要するに中国人には「公共空間」という概念が乏しいのだ。日本人は自分の家の前の道でも毎日きれいに掃除するが、中国では例えばビルの公共空間であるトイレや非常階段は放置されるのでとても汚い。「自分のものでも国や権力者のものでもないもの」について、ルールを決めて共同で管理するという社会的経験が乏しいのだと思う。

 いろんな例をあげてみたが、実は「ここは会社なのだから、公私混同するな」というだけでは中国人とうまくやっていけない。会社の業務規則とかコンプライアンスとかいうのを持ちだして厳格に守らせようとしても、もともとその理由が彼らの腹に落ちていないのだからちょっとしたことでもギスギスしてしまうだろう。では、僕たちはどう折り合いをつけていけばいいのだろうか。

 もし日系企業であれば、最初から業務規則やコンプライアンス規定を押しつけずに中国人社員も入れた共同作業で会社のルール作りをしてみたらどうだろう。会社は老板のもので、規則も老板がつくると思っている中国人でも、自らルール作りに参画するとなると否応がなしに公共空間という概念を意識することになる。もちろん公私混同を全面的に認めるようなルールになってはならないが、「私用携帯電話料金の上限設定」とか「取得リベート金額の届出制」ぐらいまではひょっとしたら踏み込めるかもしれない。

 でも肝心なことはだぶんその成果ではない。日本人と中国人が一緒にルールを作るという行為自体が、日中の文化ギャップを埋める試みとして貴重なのではないかと思う。ところで、業務規則までこのような日中協同プロセスで作った会社はあるのだろうか。もし良い事例をご存じの読者がいらっしゃれば、ぜひご教示願いたい。



第3回:結果主義

2016年9月11日 / カイシャの中国人

 結果主義。平たく言えば「結果がすべて。途中のプロセスや動機はどうでもいい」という考えのことだ。これは僕が会社の中国人を見て、そういう思考プロセスもあるんだ!と妙に納得してしまったことのひとつだ。いくつか例をあげてみよう。
 中国のある日系企業では昨今の不動産事情に鑑み、自宅を持っていない社員に家賃補助を出していた。いわゆる外地から来た社員は家が買えない場合があり、また会社のある都心に近いマンションだと家賃も高いので、通勤の便を考えて少しでも社員の生活を補ってあげようという主旨だ。日本だと会社が家主と直接契約(法人契約)してくれる場合もあるが、中国だと大家との契約が複雑だったり社員が転職すること多いので、この日系企業は毎月、給与とは別に家賃補助として現金を支給していた。

 ところがこの会社のある社員は、会社の近くのマンションに住んではいるのだが、家賃を払って捨て金になるぐらいならとマンションを購入してしまい、もらった家賃補助のお金を住宅ローンの返済に充てていたのだ。あるときこれが会社の知るところとなり、僕の友人(その会社の総経理)はその社員に言い渡した。「家賃補助として支給しているものを自分の資産になるローン返済に充てているのは規則違反だ。家賃補助を打ち切る」と。

 日本の会社の論理から言えば、家を借りていないのだから本来の補助金支給の主旨と異なるし、また住宅控除の税法等でも問題があるから当然の処置だと思われる。ところがこの社員は会社の措置に不満を訴えた。「確かに家賃補助という主旨とは違う使い方だが、実際に会社の近くのマンションに住んで通勤しているし、会社から現金でもらったものは給与と同じですから使途は個人の自由でしょう。だいいち私は会社には一円の損害も与えていないじゃないですか!」

 僕の友人は、この社員は高級管理職だったこともあって会社をやめてもらったと言った。でもこの話を聞いて僕は思った。確かに“結果的には”会社に損害も与えず、何の影響も与えていない。税法上の問題を除けば、彼の言い分もわからないではないと。

 もうひとつ例をあげよう。僕の親しい友人に中国の大手法律事務所のパートナーがいる。彼はあるとき僕にこんな話をしてくれた。「弁護士事務所に訴訟の依頼がきて、我々弁護士も全力で取り組んだが結果的に訴訟には敗れたケースがあったとします。しかしこのようなとき、日系企業と中国企業の場合ではクライアントの評価は180度違います」

 つまりはこうだ。日系企業は裁判の“プロセス”を重視するので、弁護士が法律と格闘し全力を出してくれれば、結果が敗退であっても「お世話になりました」と高く評価してくれる。ところが中国企業は違う。“結果的に”敗退したのだからかなりのクレームになるのだそうだ。「中国企業にとっては途中のプロセスはどうでもいいのです。要するに弁護士事務所に依頼するのは訴訟に勝つためだからです」

 だから中国の法律事務所で最も多くのクライアントが取れるのは「訴訟に勝てる弁護士」なのだ。「あんまり言いたくないが」とこの友人は言ってくれた。「腕のいい弁護士の要件は、法律の知識や解釈の力ではないのです。要するに人脈です。つまり裁判官や政府関係者と強い人脈を持っている弁護士が優秀な弁護士だとみなされます」。ここでも「結果主義」が如実に表れているではないか。

 そう言えば、中国の法律では1,000元以下のものを盗んでも窃盗罪にならない、つまり不問に処すということらしい。中国の刑法はかなりの部分、日本の法律を参考にして作られたと聞いたが、この部分だけはちゃんと中国式になっている。つまり窃盗そのものは悪い行為だ、けれども1000元以下だと“結果的に”損害を与えたとは言えないのでセーフなのだ。日本だと1円でも盗めば当然窃盗罪だ。中国式解釈はどこまでも現実的なのだ。

 しかしこうしていろいろ思い巡らすうちに、何だか日本の会社の規則が窮屈だと感じてきた。例えば日本では多くの会社で社員が退社後の時間であっても別の職に就くこと(兼業)を認めていない。本職の業務機密に関係する可能性があるとか、所得税の問題がややこしくなるとかが原因なのだろうか。じゃあ無償ボランティアだと問題にされないのは何故なんだろう。よくよく考えてみるとなぜ兼業がいけないのか僕もわからなくなってきた。“結果的に”会社に損害を与えなければいいはずで、そもそもオフタイムは給料に入っていないので自由じゃないかと思う。日本の会社は社員が法律を犯すリスクを最小化したいがために、社員の全生活プロセスにまで立ち入って干渉しているんじゃないだろうか。

 会社の中国人が時折感じさせてくれる「結果主義」の論理には問題もあるが、実はなかなか論破できないのではないだろうか。例えば領収書の水増しとか、発注業務にキックバックのお金を忍び込ませたりすることなどは、会社に実質の損害を与えるのでやってはいけないことだ、ぐらいはさすがにみんな理解している。常識的な中国人社員は当然職業倫理を持ち合わせているし、上述の家賃補助の目的外流用も決していいことだとは思っていないだろう。でも日本企業がなぜそこまで“プロセス”や“規則の主旨”にこだわるのか、彼らはやはり理解できないのではないだろうか。

 「結果主義」と「プロセス重視」。考えれば考えるほどこれはとても奥深い分析だと気がついた。『目的のためには手段を選ばず』という考えは、日本では軽蔑されるが、中国は必ずしもそうではない。そう言えば中国という国家の外交だって……。もう「カイシャの中国人」の範疇を越えてしまった。今回はこの辺でやめておくことにする。



第4回:罰金制度

2016年9月11日 / カイシャの中国人





中国の会社には、日本の会社ではあまりみかけない「罰金制度」というものがある。例えば会社に遅刻したら10元の罰金、販売用の商品を破損したら仕入れ値段の50%の罰金、といった類のものだ。中国企業における労務管理は、このような個人への懲罰制度があることが特徴だが、これとは逆に社員への報償制度の方もいろいろある。でも罰金制度は、日本企業にとってはあまりやりたくない労務管理手法ではないだろうか。
 日本の会社の報酬制度が個人の会社への貢献を総合的に評価して決まる仕組みになっている。例えば遅刻が多い社員にはマイナス査定がなされ、多くの売上げを達成した社員には高い評価点がつく。しかし遅刻した社員に対し口頭注意はするが、回数で定量化して給与を減らすような制度はあまりない。あくまで評価は総合的なのだ。もちろん営業現場などでは歩合性という評価基準がある。でもこれは会社の収益への貢献の「分配制度」であって、罰金制度のような会社への損害に対する補償金とは意味が違う。それに日本企業は、毎日毎日社員の行動を記録したり、現金が動いたりすることは不正の温床になったり、社員同士の関係がギスギスするのでやりたくないのだと思う。

 そう言えば、中国の「一人っ子政策」はこれに違反すると多額の罰金を払うことになっている。中国では国家の重要な社会制度でも、お金さえあればくぐり抜けられるということだ。だから、中国には「金で解決する社会」が見え隠れする。僕も上海の会社で社員の客先訪問の遅刻や出張申請の水増しに悩んでいたとき、財務課長に「罰金制度を採用しましょう」と提案されたことがある。でも僕はそうしなかった。客先訪問に遅刻するということは営業行為に大きなマイナスをもたらすし、必要日数以上に出張することは自分の仕事の生産性を下げるはずだから、結果的に個人の総合評価の査定に響くことがみんなわかるはずだと思ったからだ。

 しかし今改めて本稿を書いていて、中国企業の罰金制度には単なる個人の懲罰だけではない別の意味があるのではないかと思い始めた。例えば罰金制度は、「個人と会社の責任関係を明確化させる」制度なのだと考えたらどうだろう。10分の遅刻が罰金10元であるなら、遅刻した個人の会社への推定被害10元分を負担させるという意味になる。金額が大きければそれだけ会社への損害が大きいという意味になる。会社の器物を破損した場合などは、損害額が明確だからもっとわかりやすいだろう。

 日本企業だったら、業務中に誤って例えば1,000元の壺を割ってしまっても、罰金という形で責任を個人に帰することはあまりしないだろう。日本の会社は社員に滅私奉公を求め、個人は会社に従属する感じだ。社員の過ちは組織の過ちだとみなされる。しかし中国は違う。だから職場の中国人は常に個人の生活、個人の損得も意識する。僕は第2回:「公私混同」の稿でもこれに類することを書いた。

 でも中国の罰金制度には大きな弊害もある。以前、こんなことがあった。日本からの出張者と中国のレストランで食事をしているとき、若い女性の店員が誤ってテーブルから食器を落として割ってしまった。ちょっと凝った感じの高そうな食器だった。その日本からの出張者は、店員が謝ろうとしないことにひどく腹を立てた。思えば彼自身も店員の給仕を少し妨害した風でもあったのだが、日本だとともかくお客様には先に謝るのが筋だ。

 「まったく、なんで中国人は謝らないんだ!」しかし僕は彼に説明した。「仕方がない、ここで謝ることでもし原因がその店員にあると明確にされてしまったら、彼女は罰金を払わされるんだよ。薄給の彼女にとってそれは耐えられないことなんだ」。つまり、中国の罰金制度は個人と会社との責任関係を明確化してしまうがゆえに、このような場面では顧客に迷惑をかけたとか、ビジネスマナー云々の問題がすべて吹き飛んでしまうのだ。

 一方、罰金制度には良い面もある。ともかくお金で解決してしまうので、個人の損得はあっても感情にしこりが残らない。遅刻して罰金を払っても個人が「ああ、10元損した!」とちょっと反省し、くやしい思いをするだけだ。日本の会社だと何となく責任をあいまいなまま物事を処理し、またそのことが後々の個人評価にまで影響するから、かえって後々まででいやな思いを引きずってしまうのではないだろうか。

 罰金制度は数ある中国企業の労務管理手法のひとつに過ぎない。しかし職場の中国人を理解し、中国人をマネジメントする上でこの制度は何かヒントを与えてくれそうだ。いいアイデアを思いついた。「個人の会社の給与は先に多めの金額で決めておく。そして職務上のミスなどがあるとどんどん減額されていく」という労務管理はどうだろう。こうすれば遅刻も器物破損もぐっと減るかもしれない。でも減点主義のマネジメントだと社員が前向きにならないので、良いことをすれば給与が増額される報償制度を組み合わせればよい。

 常日頃中国人の拝金主義を批判していながら、日本企業がこんなマネジメントを始めたらさぞかし世間の注目を浴びるだろう。このように給与をすべて日々の行動で定量的に決めていく労務管理は会社が活気づくので結構いいアイデアだとは思うが、その会社ではおそらくみんなが延べ棒を数え合って、「毎日が賭博場」になってしまうだろう。



第5回:腹に入る

2016年9月11日 / カイシャの中国人





 中国の食文化の豊かさについては、世界中の人が論評しているので解説は不要だろう。中国は大きく、地方によって気候、習慣や言葉も違うので、食べるものや料理の仕方が違うのも当然だ。ちなみに中国の4大料理とは、広東、四川、江蘇、山東の各料理を指すらしいが、それから派生したと思われる湖南、北京、上海、雲南など特徴ある料理が数多くある。中国の食文化はとても多様だ。
 さて今回の話は中華料理のことではない。中国人と食事の関係についてである。日本でも昔から「腹が減っては戦ができぬ」とか「その話は俺の腹に入らない」といった言い方をする。”腹に入る“とは、理解する、納得すると言った意味だが、要するに人間、ちゃんと食べないと他のことがみんな疎かになってしまうという意味なのだろう。僕は常日頃から、世界で中国人ほどこの言葉がふさわしい国民はないと思っている。

 国が貧しかったころの中国人は食事が何よりの楽しみだったことは理解できるが、豊かになった現在でも、中国人にとって食事は生活の中でとても重要な部分を占めている。中華料理は円卓でわいわい言いながら食べるのが習慣だし、そのせいか食事中の中国人はとてもやかましい(中国人が食事中で唯一静かなのは、蟹を食べるときらしい。肉を一生懸命穿るのでしゃべっている暇がないから)。

 我々日本人は黙々と箸を動かして静かに食べるのが習慣だ。小さいころから親に「食べ物を口の中に入れたまましゃべるのは行儀が悪い」と教えられてきた。でも中国人はそんなことはお構いなしだ。中国に初めてきた人は、うら若き女性がレストランのような公共の場所でも平気で食べ物をテーブルの上に吐くことや、中国人が食事をした後のテーブルの汚さを目の当たりにしてみんな唖然とする。中国人にとって食事は、ストレス発散の場でありコミュニケーションの機会でもある。大げさに言えば、中国人の食事は“魂を開放する場”なのである。

 前置きが長くなった。我々日本人は、会社は仕事をする場所で食事は個人の生活だからこのふたつはあまり関係ないと思っている。しかし僕はあるとき、職場の中国人が仕事と食事を同じ生活の中で同期させているということを知った。僕が上海の老板だったときこんなことがあった。その日は重要な仕事があって、あるプロジェクトのメンバーはみんな最後の追込みに入っていた。時間は午後6時。僕は言った。「よしあと1時間でこのプロジェクトの報告書が仕上がりそうだ。みんなもう一息だ。7時を目標にがんばろう。終わったらみんなで食事をしようじゃないか!」

 ところが、これを聞いてある社員がポツリとつぶやいた。「もう6時じゃないですか。まず飯を食いましょう。食事を終えてから仕事の最後の仕上げをしましょうよ」。「あと1時間ぐらいで終わるんだから、先に仕事終えたらどうだ?その方がすっきりだろう?」「え~、7時まで食事もしないで仕事するなんて耐えられません」。なんと、メンバーみんながこの社員の言葉にうなずいたのだった。

 中国人にとっては、食事が仕事の犠牲になるなんて耐えられないのだ。結局、メンバー達はまず先に1時間ぐらいかけて夕食を取り、その後会社に戻って夜8時半頃にようやくプロジェクトの報告書は出来上がった。僕なんかは食事をしてから仕事をしたことで、とても眠くてかえって生産性が悪かったような気がしたけど、社員はみんな喜々としていた感じだった。

 中国では「吃饭了吗?」という会話が「こんにちは、元気か?」といった挨拶替わりに使われる。お昼とか夕方の中国人からのメールにはこの言葉が添えられていることが多い。僕の運転手は常日頃、日本の会社は残業が多いことを聞いて同情してくれるが、あるとき僕が、「日本にいるときは夜十時まで食事をしないで残業し、家に帰って十二時頃晩御飯を食べていた」と言うと、腰を抜かさんばかりに驚いた。でも「日本の仕事は忙しく、徹夜になったこともある」といっても、運転手は時にはそういうこともあるだろう、という反応だ。睡眠は忙しかったら削ることもいた仕方ないが、食事を粗末にする生活は断じて許せないということなんだろう。

 蛇足になるが、日本の会社では何かの行事の打上げとかで宴席を設けても、若い社員などは何かしら理屈をつけて参加しないことが多い。夜のプライベートな時間まで上司の小言を聞きたくはないということだ。でも僕の経験では、中国の会社だと宴会の出席率はとても高い。最初の頃は、外食は贅沢でめったに食べられないものが出るからみんな出席するのかなと思っていたけど、豊かになった今でも相変わらず宴会にはみんな参加する。

 やっぱり食事は中国人にとって一種のパラダイスなのだ。“腹に入る”ことは職場であれ何であれ生活の根本なのだ。たまに出張で日本の会社に帰ると、若い社員が自分の席でこそこそとコンビニのおにぎりを頬張りながらパソコンに向かっているのを見て思わず同情してしまう。僕らも、食事という儀式を仕事と関係なく楽しむことも心掛けてみる必要がありそうだ。



第6回:不動産狂想曲

2016年9月11日 / カイシャの中国人





中国人は、自分の家を買わなければならなくなったことで人間性が変わったと思う。住む家を自分で調達しなければならなくなったというプレッシャーもあるにはあるが、何より、投資の素人でも金持ちになる夢ができたのだ。他に株式投資という夢もあるが、こちらの方は株式市場の健全化が遅れ、すでに株価がピークを過ぎて下がってしまった。だから今では住宅投資が唯一の庶民の夢となった。まさに国を挙げての「不動産狂想曲」だ。
 中国人の“不動産病”は、実は日常の会社経営にも少なからず影響を与えている。かつて僕がいた上海の会社では、社員は毎朝のように新聞で不動産情報をチェックしていたし、めでたく家を購入した社員は、家の内装工事の時にはみんな休暇を取る。現場をチェックしに行くためだ。内装業者に任せていると、とんでもない手抜きをされるからだ。(中国では住宅はスケルトンのまま販売されるのが主流で、内装は自分で業者に委託して行わなければならない。)要するに社員は家を買おうと思ったとたん、仕事に身が入らなくなるのだ。当時はローンの支払いには会社の身分保証が必要だったので、僕もわけのわからないハンコをずいぶん押した記憶がある。

 ところで、中国人と話をしていてとても不思議に感じることがある。不動産は本来投資行為であり、リスクを冒して投資をしたものだけがリターンを得ることができるし、また当然損失を出すこともあり得る。ところが社員の間には往々にして、「○○不動産をあの時買わなかったから損をした!」なんて言う会話が飛び交う。つまり”儲け損ねた“ことを”損をした“と表現するのだ。まだ家に投資もせず何のリスクも取っていないのに、自分は損をしたと怒っているのを見ると、ただただあきれてしまう。

「不動産は、全部値上がりする」。…ああ、僕らもいつか来た道だ。そう言えば最近、確か上海だったと思うが、ある不動産が値下がりした時、すでに購入した人が不動産販売会社に押しかけて抗議をしたというニュースがあった。「こんな家を俺に勧めやがって!値段が下がって儲け損ねたじゃないか、責任を取れ!」。こういう人たちには、経済についての常識を教えてあげなければならない。

 話を会社の中国人に戻そう。僕はこの不動産狂想曲は、普通の中国人の金銭に対するバランス感覚をも壊してしまったのではないかと思っている。30元もする野菜を見ると高すぎると手を出さない人が、30万元のマンションの頭金を安いと思ってしまう感覚。つまり野菜など日用品は物の価値を認識できるのに、不動産になるとその絶対価値がわからなくなってしまっている。300万元のマンションに住んで毎日10元の食事をとる。外食の時は高い酒や料理を注文するがそれは公費か会社持ち。これでは金銭バランスがおかしくなるのは当然だろう。

 実はこのバランス感覚崩壊は日常の中国人のビジネス行動も歪めてしまっている。例えばある製品やサービスの値段の見積りを作成する場合を想定しよう。ビジネスの常識では、「コスト+適正利益=便益価値」と考えて適正な値段をはじき出す。もちろん市場価値や競合条件も考慮して値段は決められるが、それは適正利益を拡大縮小することで調整する。

 しかし中国人はとかく相手の懐を見て値段を決めようとしてしまう。仮にお客様をうまく丸め込んで高めの値段で商売が成立したとしよう。ところが製品の生産段階になると、今度はコストを削減しようと安い材料を使い始める。せっかく高値で買ってくれる顧客に対して明らかに安物とわかる製品を提供してしまうのだ。自分の食費を切り詰めることと、ビジネスでのコスト削減を感じ感覚でやってしまう。

 これを聞いて中国人は「何が悪いの?安い材料を使えばもっと利益が出るんじゃないの」と思うのだろう。今世界で大儲けしているアップル社は、確かに製造コストを安くしようとしているが、決して安物を作らせているわけではない。中国人は商品の値段を交渉するための数字に過ぎないだと思い込んでいるのではないか。僕はそうなってしまった原因が今の不動産市場にもあると思っている。今の不動産は単に売買して儲けるための道具になってしまっているから、実は「物としての価値」が評価されていない。中国人はよく僕に対しても言う。「なぜそんなに長く中国にいるのに、家を買わないの?」。日本人が中国の不動産を買わない理由は、日本人なら誰でもお分かりだろう。

 最後にもうひとつ、中国人が家を買いたがる理由が他にもあるらしい。300万元するマンションを買うより、月1万元で同様の部屋を借りた方がどう考えても得なはずだ。日本のように賃貸物件の品質がよくないということを割り引いても、今の中国では住むためだけに家を購入するのはお金がかかり過ぎる。ある中国人の友人は言った。「自分のものにしたいのです。いわゆる所有欲というものですよ」。

これには歴史的な理由があるのだろう。でも現実に中国では不動産は自分のものにはならない。国家に長期間借りているだけだ。期限が切れたら政府はどういう対応をしてくるのか心配はないのだろうか。普段は政府の言うことをあまり信用しない中国人なのに、これはとても不思議だ。



第7回:トップダウン社会

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)中国には国家がトップダウンでつくる計画がとても 多い


 中国の会社組織の特徴として「トップダウン」という言葉がよく使われる。もっとも欧米の会社組織もトップダウンが主流だから、中国の意思決定は欧米式に近いことになる。しかし欧米企業との違いは、欧米企業が経営トップから構成される意思決定機関やシステムが明確になっているのに対して、中国の会社は特定の個人が任意に意思決定するという俗人的な仕組みになっているところだ。
 だから中国人社員は、会社の物事を決めるのは上層部であり、自分はそれに従うものだと決めてかかっているように見える。それが給料の差であるという理解なのだろう。もちろん中国人は自分の意見を上司にもはっきりと言うから、素直に上の言うことに従うというわけでもないのだが、いずれにしろ戦略や方針を決めるのは自分の役割ではないと思っている。

 僕の本職は経営コンサルタントだ。上海のコンサル会社の総経理だった時代、ある中国系の企業を訪問し、その会社の事業戦略策定のコンサルティングを提案したことがある。提案の一項目に「今後十年の中国の経済・社会予測」というのがあった。でもその会社の社長は言った。「我が国には政府が作成した五ヵ年計画というものがあります。今後五ヵ年の中国経済や社会はそこに書かれています。なぜ我々民間企業がそういうものを新たに考えなければならないのですか?」

 国家の経済・社会の将来像はお上が作成する、ということはかろうじて理解できる。しかしビジネス界にいる企業のトップまでが、近未来の事業環境を国家計画に準じてしか考えられないというのには正直驚いた。中国の業界団体には自分たち独自の視点で展望された長期事業計画というものはないのだろうか。しかしビジネスというものは、人に先んじて環境変化を読み取り、近未来の事業環境を独自に予測しておくことが成功の重要なカギになる。中国人にとっては、国家や自分たちのリーダーたちの権力争いを予測することはとても重要だが、経済や社会の未来像は自分たちの範囲外なのだという考えが身にしみている。

 中国では、例えば国家の五ヵ年計画で「緑色経済」が強調されれば、どの地方に行ってもみんな判で押したように同じ言葉を使って近未来を語る。そもそも緑色経済とは何なのか、自分の住んでいる地方、自分の業界がなぜ緑色経済を重視しなければならないのかということを突き詰めて考えている人にはあまりお会いしたことがない。政府の役人や企業のリーダー間の競争とは、新たな社会や業界を創造することではなく、“与えられた”目標の中でいかに高いパフォーマンスを発揮するかの勝負になっているといったら言い過ぎだろうか。

 そう言えば、職場の中国人に何かの行事を任せると、その段取りの悪さに閉口した経験を持っている人は多いのではないだろうか。プレゼン用のプロジェクターとか、事前にちゃんと映るかどうかチェックしたりしないから、大事な本番で映らなかったりする。そしてその時の言い訳は、「この間はちゃんと映ったのに」だ。中国では機器の故障が多いことはみんな分かっていると思うのだが、それでもこのあり様だ。職場の中国人は、本番で何が起こるかを事前に予測して準備する、といった“計画性を持った行動”については超苦手な人たちなのだ。

 僕たちは子供の頃、8月の終わりに慌てて夏休みの宿題をしていると、親からもっと計画性を持って行動するようにと躾けられた記憶があるだろう。中国って計画経済の国で何でも計画的に進める国じゃなかったっけ? なのに職場の中国人が計画を立てるのが苦手なのはなぜだろう。社会の変化が激しすぎて前提がコロコロ変わるから、真剣に計画を立てるという経験が根本的に不足しているということなのだろうか。

昔、中国のある社長に、「うちは年度予算なんて立てません。三か月先のこともわからないのに年間予算なんて意味ないでしょ?」と言われたことがある。彼の言いたいことは理解できるけど、会社のトップが計画性を持たないと下の者はただ振り回されるだけになってしまう。計画性のないトップからのトップダウン。そこまでリーダーを信頼しているのか、あるいは戦略や計画作りは自分とは関係ない世界だと割り切っているのか。我々日本人には、少なくとも僕には、こういう「トップダウン社会」はとてもついていけそうにない。



第8回:現地化

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)意思決定に中国人が加わることが現地化だ


どの会社も外国で事業をするときは、その国の事業環境や法律、文化に合わせる必要があり、そのため経営の意思決定の大部分を現地国籍の社員に委ねる。これがいわゆる「現地化」と呼ばれているものだ。中国における日系企業もこの「現地化」の必要性が叫ばれて久しい。もうトップが既に中国人になっている企業もあるし、代々日本人がトップを務めている企業もある。「現地化」という言葉に厳密な定義はないし、日系企業にとってもトップが現地人(中国人)になることだけが目的ではないことは言うまでもない。
 僕は2002年に上海で現地法人を立ち上げたとき、社員にこう言い放った記憶がある。「初代は日本本社から派遣された私が社長を務めるが、次代以降は貴方たちのような中国人に会社を経営してもらえるようにしたい」。その時、心なしか聞いていた社員の顔が紅潮したように感じた。別にリップサービスで言ったつもりもないし、当時は本当にそうすべきだと思っていた。しかし実際、当社が中国人トップを実現できたのは2008年になってからだ。トップ以外の日本人派遣社員はかえって増えたという事実もあるが、いわゆる「現地化」は6年たって一応実現したということになる。

 でも僕は中国での「現地化」については、日本人にも中国人にもいろんな誤解があるように思える。これも上海時代の話だ。当時、僕の会社の顧客の主力は日系企業と中国地方政府だった。しかし中国経済の拡大を考えた時、国有や民営の中国企業を顧客にしていくことが戦略上重要であることはわかっていた。

 ある日、中国人社員が僕のところに中国企業をターゲットとする事業計画案を持ち込んできた。そこに書かれている戦略は間違ってはいなかった。この社員が自分を責任者に任命してくださいと言ったことも、企画者として当然だろう。しかし次の要求だけは呑むわけにはいかなかった。「中国企業のことは日本の本社にはわかりません。責任者の私は、日本の本社とは独立に意思決定できる体制にしてください」。

 「現地化」が進まない日系企業を揶揄して、日本人は中国人を信用していないと言う中国人の識者は意外に多い。しかしこれには誤解がある。日本企業は中国人を信用していないのではなく、“特定個人による意思決定”を信用していないのだ。中国の企業はトップが意思決定する。だから中国人で自信のある人は、自分が意思決定する権限を求めてくる。しかし我々は中国人の意思決定を問題にしているのではなく、個人による意思決定を問題にしているのである。

 確かに日本企業の本社の経営陣は大抵、長くその企業に勤めてきた日本人社員で構成されており、よそ者、ましてや外国人である中国人を重要な会社の意思決定プロセスに組み込む勇気はない。この本社主義とでもいうべき日本企業の視野の狭さには、実は僕も辟易している。でも集団で意思決定をする日本企業の仕組みは、決定には時間がかかるが大きな間違いを犯さない、いわば安全弁になるという利点もある。トップが間違ったら即終わりという意思決定体制は、日系企業では実現し得ないと思う。

 もうひとつ。中国人社員が意思決定権を要求する理由は、中国社会では権限がある種のステイタスや利権につながることが多いからだ。例えば日本では会社同士の交渉の場では例え自分に意思決定権があるものでも「この案件は持ち帰って社内で検討します」という言い方をするし、それも認められる。しかし中国でこのような言葉を出すと、その交渉者の力量が低く見られがちになる。

 日本人はあまりやらないが、中国では権限のあるものはそれを使って例えばバーター交渉をしたりする。以前私の上海の会社の社員は、これは私の権限でOKするから、貴社の製品(オフィス用品)を1年間タダで使わせてください、なんて交渉もしたのだ。業務上の利点を得る目的だから賄賂とは言えないものの、このように個人の意思決定権はいろんな利権とつながってしまうのだ。

 繰り返しになるが、中国での正しい「現地化」とは、会社の意思決定に中国人幹部がきちんと加わることであって、特定の優秀な中国人に意思決定を任せるということではない。しかしこんな社員の言葉も思い出した。「日本人と一緒にものごとを決めるのは、本当に疲れます。こんなものトップが決めればいいと思うことでも、我々一般社員に意見を求めてきますからね」。自分の役割を割り切って考える中国人と組織全体の合意にこだわる日本人。こんなに文化が違うのだから、日本企業の「現地化」も荊の道だ。



第9回:報連相(ホウレンソウ)

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)日本では、報連相を扱った本がたくさん出ている


 日本人は「報連相」はビジネスの基本動作だと思っている。でも僕の知る限り、中国人社員たちは、何でもかんでも報告するというのは無責任だと思っているようだ。「私なりに報連相の意味はわかります。でもこれがどうしてビジネスの基本なのでしょうか?私は必要なときにはちゃんと報連相します。当たり前のことじゃないですか」。おいおい、そこが問題なんだよ。自分が“必要なときに” 報連相されるのでは本当に困るのだ。

 その日は翌日に大きなレポート提出の納期を控え、オフィスはごった返していた。僕はある社員に声をかけた。「お前のパートは大丈夫か?僕はそのデータ分析をもとに、最後の結論のロジックをまとめなくてはならないのだから早めに頼むよ!」。「あ、そのことですか。データがまだ集まっていないので、明日までには間に合いません」。「え? どうしてそれを早く言わないんだ」。「今はこの仕事をしているから、終わったら後で老板に言いに行こうと思っていました」。

 報連相とは、組織やチームで仕事をするときの一種の行動ルールで、あらかじめ何が起こりそうかをみんなが想定できるように情報共有をするためのものだ。つまり報連相は組織構成員の事前報告義務だと言ってよい。問題が起こってから報告したり相談したりする事後報告は、報連相とは言わない。でも中国人社員はいつも言う。「何も問題が起こっていないのに、何でそんな心配する必要があるのですか?」

 中国人社員はだいたいそんな行動原理だから上海時代の僕は、仕事の進捗についてはとりあえず何でもうるさく聞くことにしていた。さすがに老板が聞くとみんな返事をするから、それで仕事のリスクを判断することにした。重要な仕事では、誰かの仕事が遅れるとか何かが起こったときにどう対処するか、それを考えておくのは管理職の務めだと思う。でもあまり疑心暗鬼になり過ぎてもいけない。最初からバックアップを用意するとその社員は出来上がらなくてもいいと思うだろう。社員を信頼する度胸も老板には必要だ。その微妙なバランス感覚が中国人を管理するポイントになる。

 でも、日本人の報連相も過ぎると問題だとも思う。つまり何でも相談モードに持ち込む社員がいることだ。「この仕事、このやり方で進めたいのですが、こんなやり方でよい結果が得られるでしょうか?」。今度は逆にそんなこと自分で考えろと言いたくなる。中国人社員のことを揶揄したが、日本の会社の“打合せ地獄”や“何でも会議”も困ったものだ。僕は中国での仕事が8年を越えたが、もう日本のこんな仕事のやり方に二度と戻ることはできないかもしれない。

 ところで、携帯電話とかスマホなるものが普及した現代は、報連相を行う環境は以前とは比べ物にならないほど発達している。昔は公衆電話に並ばなければならなかった会社への連絡も、歩きながらワンタッチでできる。でも不思議だ。こんなに便利な道具が出現しても、中国人社員の報連相が増えたという話は聞かない。それどころか連絡をしても返事をよこさない社員は以前とまったく同じだそうだ。一日中ずっとスマホ携帯を触っている社員も、上司への報告などはまた別のことなのだ。つまり報連相は、中国人社員にとって特に必要ない行動原理だとみなされていることになる。

 中国人のリスク管理について、ここで大上段に構えて論じるつもりはない。でも次に現実に起こりそうなことを予測して予め先に手を打つという行動は、会社の中国人はお得意ではないようだ。そう言えば皆さんも経験あると思うけど、北京では車で道路を走っている時、いきなり通行止めを食らうことがある。何があったのか警官に聞いても答えない。しつこく聞くと「俺は知らん、ただ通行止めにしろと言われたからそうしているだけだ」。

 中国の公務員は威張っていて庶民に事情説明などしないことはみんな知っているが、当の公務員自身も自分の”業務“の理由を知りたいとは思わないようだ。前回の「トップダウン社会」の稿でも触れたが、中国社会のリスク管理の脆さを垣間見たような気がする。



第10回:台湾人と香港人

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)芸能界は例外。台湾人や香港人のスターは今でも憧れの的だ。


中国大陸には、台湾人や香港人と呼ばれる、外人とは言えないがさりとて大陸の人々とは異なった政治制度や文化環境の中で育った人たちがたくさんいる。彼らの普通語は当然、訛っていたりぎこちなかったりするのだが、我々日本人には大陸の中国人と見分けがつきにくい。彼らには言葉の壁がないため、大陸でビジネスをするときに政府やローカル企業と丁々発止のやりとりができるし、中国人の文化や習慣も民族的に理解できるのでとても羨ましく感じる。

 ところがこの台湾人、香港人がいざ同じ会社で大陸の人と一緒に働くとなると、これはなかなか微妙なのだ。いわゆる近親憎悪とでも言うのだろうか、似ているのにちょっと違うことが双方にとって大きなストレスとなるようだ。総じて言えば台湾人や香港人は、自分たちが大陸の人より先進的な地域で育ち、自由な教育も受けてきたからそれなりの優越感を持っている。だから時として大陸の人々を見下すような言動をすることもある。それが大陸の人々にはとても癪にさわるのだろう。逆に今では、むしろ台湾人や香港人に対して「俺たちが食わしてやっている」と言わんばかりの態度を見せる大陸の中国人も現れているが。

 僕は2002年に上海で会社を設立したときは、大陸に大きなコンサルティング会社は少なく、経営コンサルタントという仕事も認知されていなかった。だから採用面接をしていても、この職種が何をするものなのかを理解ができない人が多かった。そこで僕は日本の本社と相談し、既に会社や事務所を設立して業績もあげていた当社の台湾と香港の拠点社員に大陸に来てもらい、会社の事業立上げを助けてもらうことにした。彼らは中国語ができるので、日本から日本人社員を連れてくるより戦力になると思ったからである。事実、彼らはその経験を活かして大いに戦力になってくれた。

 しかし異なる習慣や文化を持つ人を集めた会社では、いろんなことが起こる。仕事上では第一線に立ってばりばり働いてくれた彼らも、やがて台湾人、香港人という微妙な立場に苦しむことになる。あるとき、僕と台湾人と上海人の社員の3人で中国国内に出張した。もちろんこの台湾人は性格のよい子で、一緒に行った上海人とも普段はとても仲良く仕事をしている。しかし食事のときのちょっとしたやりとりを聞いて、僕はびっくりしてしまった。その時の詳しい内容はもう記憶が薄れているが、確か台湾人社員が大陸の何かの政策を批判した時、上海人社員が急に大きな声で言い返したのだ。「そんなこと言うなら、貴方たち台湾人はみんなさっさと島に帰ればいいじゃない!」。

 結局、大陸での会社の立上げのために来てくれた台湾人と香港人は、約1年の勤務で元の勤務地に戻った。何度も言うが、彼らは本当にみんなの先頭に立って会社に貢献してくれた。僕は彼らにもう少し上海の会社にいて欲しかったが、どちらの社員も帰任にあたっては同じことを言った。「やはり大陸の会社は、大陸の中国人が中心になっていくべきです」。順調に見えた会社生活だったが、彼らには人に言えない苦労があったのだろうと察した。

 ある上海人の社員が笑いながら僕にこういったことがある。「松野さん、上海にいる外人の中で上海人が最も嫌いなのはどこの人だ思いますか?」。彼は笑い話として言ったのだろうが、その結果はおのずと推定できた。彼曰く、「台湾人、韓国人の順です」。おや日本人は入っていないのかな?「上海人は日本人を好きな人も嫌いな人もどちらも多いので、イーブンです」。

 初めて大陸に来た時、僕は台湾や香港で仕事をした経験がある日本人から、中国でビジネスをするなら台湾人や香港人と組むのが近道だとよく言われた。我々日本人とは文化や習慣に対する理解度が違うからというのがその理由だ。しかし僕は当時、直感的にこの考えには同意できなかった。中国人には先進国に対する一種の憧れのようなものがあり、会社で一緒に働く欧米人には少し気後れするところがある(日本人も同じだが)。しかしそれは文化や習慣がまったく違う欧米人だからだ。少なくとも職場で台湾人や香港人と一緒に働く時、彼らに憧れは持たないだろう。むしろ彼らに指図されるのは不愉快と思うはずだ。

 現在は中国の国策上、台湾や香港との間には有利な貿易協定があるので、彼らと組んで大陸でビジネスをすることはある種、理にかなっている。僕が大陸でのビジネスにおいて台湾人や香港人と組むのが得策とは思えないと書いたのは、あくまで職場の人間関係上での話だ。もっとも、今では両者の力関係が大きく変わりつつある。大陸人もビジネス経験が豊富になり心の余裕もできたので、むしろ台湾人や香港人は使い易くて可愛がられる存在に変わっているらしい。GDPも追い越してしまったので、我々日本人もそろそろ可愛がってもらいたいものだ。