第11回:コンプライアンス

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)日本本社のコンプライアンス遵守体制は、こんなに重層的だ


 「コンプライアンス」。中国でビジネスをする日本企業にとっては、これを聞くといつもドキッとするし、絶対避けて通れない言葉だといったら大げさだろうか。この言葉の日本語訳は「法令遵守」ということになっているが、実はあまり使われていない。“法令”と言う言葉がピンと来ないのだ。中国語では、「遵守法律」とか「合規性」、「規範性」といった言葉が使われているようだ。アメリカでも何らかの「法令」や「規範」に従うという意味で用いられる。アメリカと中国は意外とコンプライアンスの概念が似ていると思う。
 日本企業にお勤めの方は分かると思うが、日本でのコンプライアンスという意味はかなり広く深遠だ。「ビジネスにおける基本倫理観」とでも表現したらいいのだろうか。つまり法令のような何か拠り所となるものに頼らずに、絶対的な価値観、倫理観で行動することを要求されている。これが正しい解釈かどうかは別にして日本企業ではそうなのだ。僕の会社は特別なポジションにあったから、インサイダー防止規程を特別に定めていたが、普通の中国の日系企業はそこまで文章化はされていないだろう。

 しかし日系企業は、どこもコンプライアンスにはうるさい。例えば、納入業者から贈り物をもらったり接待を受けること、業務上の物品購買でもらった優待券で自分の私物を買うこと、他の物品購入で入手した領収書を別の購買申請で使うこと、時間外に会社のパソコンを使ってネットショッピングをする等々、どの日系企業でもみんな見られることだろう。でも日本企業の論理で言えば、これらはみんなコンプライアンス違反なのだ。

これは職場の中国人には理解不能だと思う。なぜなら依って立つ社規社則にはそんなことはどこにも書いてないからだ。規則に書いてないものまで何で要求されるのか。要するに上述の例は、会社のカネを横領したり会社に損害を与えているわけではないのに、なぜコンプライアンス違反になるのか、というわけだ。もっとも中国企業の社規社則では、社員の“してはいけない”行動や罰則などの細かい日常の規則をいちいち書いておかなければならないから、コンプライアンスの領域までは手が回らないというのが本音だろう。

 僕の会社は、日本では金融関係でもあるので、コンプライアンスを守ることにかけてはとても厳しい規程がある。僕は上海での会社設立時に各種規程を作ったが、そのなかに「インサイダー防止規程」というのがあった。これは企業の機密情報に触れる機会の多い当社社員にとっては絶対的に守らなければならない規程だ。だがこれを設立間もない上海で社員に説明したとき、みんなはぽかんとして聞いていた。「何で我々は株を買うのに会社に届けなければいけないのですか?だいたい株というものは、まだ知られていない情報を友だちに教えてもらって買うものでしょ?」僕は空いた口が塞がらなかった。

 コンプライアンスに関連した話では、僕には過去にショックを受けた経験もある。上海のとある超一流大学の教授のもとに共同研究の相談に行ったときのことだ。我々が研究テーマと進め方を説明し、委託研究費の相談に入ろうとしたときのことだ。その教授は何と、今進めている他の日本企業との共同研究契約書を引出しからいくつも取り出して僕らに見せたのだ。「ええっと、O社からは××分野のテーマで、1200万円で委託されています。K社とは△△方面の研究開発を...」。僕らは丁重にお礼を言いつつ席を立った。これでは我々との共同研究も他社に全部筒抜けになってしまうと思った。

 要するにこの教授にとっては、ご自身の研究遂行能力や体制を説明するのに、実際の契約書を見せることが最も近道だと思ったのだ。しかも研究の中身を開示しているわけではないので、機密保持条項にも違反はしないと思われたのだろう。しかし日本企業の論理で言えば、自分たちと共同研究をしているという事実がコンプライアンス事項になる。中国では大学と企業の共同研究、いわゆる産学協同は当たり前であるし、得られた成果は双方が権利を持つとはいえ、実際は双方が自分たちのために自由に活用するという考え方だ。

 つまるところ、日本企業のコンプライアンスは、社員に「公正・適切な企業活動」をすることを求め、さらに「積極的に法令や規程以上の企業倫理・社会貢献を遵守する」ことまでも求める。実際には「法令遵守」という日本語訳の定義を超えているのだ。中国人社員には本当に気が遠くなる話だろう。だから日本本社の要求レベルを中国現地の企業で求めるのにはかなり無理がある。これに対して日本本社の担当者は、一見理解を示すような発言をする場合がある。それは中国人が“コンプライアンス意識が低いから”仕方がない、といった類の妥協だ。でも僕は、これは表面的な認識でしかないと思う。

 コンプライアンスのことを書き始めるといくらでも問題事例が思い浮かんでくる。それぐらい中国の日系企業では重い課題のひとつなのだ。しかし実は中国人の意識が低いからと言うより、職業倫理に対する考え方が根本的に違うことがその悩みの原点なのだと思う。会社の中国人に、日本人が持つ潔癖なまでの職業倫理感を押しつけても理解されるはずがない。おっと、会社のパソコンを使ってBillion Beatsの記事を書いている僕も、ひょっとしたらコンプライアンス違反なのかもしれない。



第12回:日本経済って?

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)ある中国人は、日本の渋谷のスクランブル交差点の”秩序“に驚いたらしい


 中国経済の中で日本とのビジネスが占める割合はまだまだ高いのだが、総じて言えば中国人ビジネスマンは、最近日本経済に対する関心が薄くなってきている。その中にあって中国の日系企業で働く中国人社員は、日本の経済や文化に関心を持ってもらえる貴重な存在だ。日系企業の中国人社員は日本語を解する人も多く、ネットで常時日本のニュースをチェックしている人もいる。しかしだからと言って、日本の経済や社会の事情を正しく認識してもらっているとは限らない。
 その理由は、日本のニュースがだいたい自国をネガティブに語るものが多いからである。マスメディアが現行政府や社会を批判することは彼らの役割のひとつではあるが、中国人にそのことは理解できない。マスメディアの役割が根本的に異なるからである。しかしもうひとつ、中国人に日本経済の状況を誤解させている大きな原因がある。それは、中国にやってくる日本人専門家の言葉である。

 日中で開かれるシンポジウムや会社同士の会合などにおいて、日本からやってくる専門家が日本経済の現状を話す機会は多い。彼らはよく日中の「GDP伸び率」の比較表を見せる。曰く、日本は1980年代のバブル崩壊後GDP の伸び率は低迷し、中国は毎年2桁伸びている。この2国のデータを1枚の図にして示せば、日中の差は歴然だ。

 講演者が中国の勢いを示して相手を気持ちよくさせ、ビジネスを成功させたい気持ちになるのはよくわかる。でもその結果、ほとんどの中国人は日本が「沈みゆく国家」だと再認識してしまっていることにみんな気がつかないのだろうか。その結果、中国人ビジネスマンは、みんな日本経済をこう認識してしまう。「日本は不景気で、車や高級品などが全然売れないらしい」、「日本は経済状態が悪く、みんな暗い生活を送っている」・・・。

 日本人は自分の自慢などはせず、物事を謙虚に語ることで相手の尊敬を得るという習性がある。しかし国際社会、特に中国のように国際ビジネスの火花が散っている現場においては、こういう言動は何のプラスにもならない。むしろ日本とビジネスをすれば自分たちにメリットがないとまで思われてしまう。

 GDPは年間に一国が生み出す富の総和だ。日中比較をする場合に、伸び率ではなく絶対値を過去40年ぐらい棒グラフで示せば、現在でも日本の過去の「富の蓄積量」が中国を圧倒していることがわかる。日本のGDPは全然増えてはいないが、今でも毎年500兆円近くの絶対量があるのだ。別に日本を自慢しろと言っているのではない。日本の専門家はもっとポジティブに自国を語るべきだと思う。

 ところで僕は、中国人専門家も中国経済のことを意外に知らないなと感じることがある。それは中国では自国の経済や社会データの公開度が低く、分析に値するデータが入手しにくいことも原因だろう。僕は天下の清華大学の教授に、「中国人の経済学者は、アメリカ帰りの人でも世界のことを知らない人が多いですね」と暴言を吐いて睨まれたことがある。中国経済の状況は、世界のデータと比較して分析できる日本人専門家の方がむしろよく把握できているとも言える。だからもっと日本の専門家は世界経済のこと、日本の高度成長期の時の成功や失敗を”正しく“中国に伝える必要がある。

 最近のことだが、ある政府研究機関で我が社の専門家がバブル期の日本の銀行経営について語った時、彼は1989年における「世界の銀行の資産額ベスト10」の表を見せた。驚くなかれ、1位から6位までは全部日本の銀行だったのだ。講演会場が一瞬どよめいた。繰り返すが日本の過去を自慢するためではない、日本が経験した良いことも悪いこともちゃんと中国に伝えるためなのだ。

 日中関係は、経済は緊密だが政治はぎくしゃくしていると言われる。しかし経済についてもお互いにもっと理解を深めないといけない。これからはアジアの時代だと言われる。アジアでは日中は競争もあるが、補完関係・協力関係の方がお互いに重要なことは明白だ。だから僕たちも、もっと日系企業の中国人社員に日本経済のことを正しく理解してもらう努力が必要だ。彼らには、日本経済を中国に伝える伝道師になってもらおうではないか。中国人は総じてポジティブ思考だ。中国に来た日本人ビジネスマンは、日本を卑下することをやめて、もっともっと自慢すればいいんじゃないかと思う。

 もっとも最近は、中国人の若者にも「こんな格差を助長する経済成長に、何の意味があるのか!」と疑問を感じる人が増えてきた感じがする。中国もそろそろ“宴の終わり”への準備を始めなければならないのだと思う。我々も今こそポジティブに“かつての宴”を思い出そうではないか。



第13回:運転手

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)走行中に窓を開けて走られるの、イヤなんだけどな。


 中国の日系企業ではさまざまな人が働いているが、北京や上海などのオフィスに勤務する中国人はそれなりの学歴を持つエリート層が多いだろう。だからオフィスで接する“庶民の”中国人と言えば、掃除などをしてくれるアイさんとか運転手さんとかになる。特に運転手とは、日常の外出や時にはレジャーの時にも行動を共にし、普段でも車中などでいろんな会話をする。運転手は、とても身近な存在なのだ。
 ひと昔前の中国だと外国人について働く運転手は、何か自分の行動を監視しているようで窮屈な感じがしたそうだ。しかし昨今の運転手は、車を自腹で購入してフリーで仕事をしている人も多く、実は結構な自由人なのだ。性格も明るくてよくしゃべるし、老板とは友だちのような関係になってしまっている運転手は多い。

 同じ運転手でも様々なタイプがある。僕が上海の老板時代、中国に来て最初に雇った運転手はまじめそうで感じがよかったが、なぜか2週間ほどでやめられてしまった。僕が夜にあまり飲みにいかなかったり、休日にゴルフに出かけたりしなかったことが原因だったらしい。つまり残業が少ないのが不満でやめてしまったと言うわけだ。

 上海で次に雇った二人めの運転手は、寡黙なタイプだった。でもうちの会社とは相性がよいのだろう。僕の後も代々の老板に仕え、もう10年以上も我が社の運転手を務めている。口数は少ないが、目的地への時間の読みがものすごく正確で、めったに道を間違えたりしない。前もって訪問先の住所を告げておくときちんと調べておいてくれるし、迎えなどの時間などもきっちりと守る。

 北京に来て今度はまた全然違ったタイプの運転手に出会った。彼は元々大学の運転手組織「車隊」に属していたこともあり、隊の廃止後も大学内でフリーで仕事をしていたが、僕が北京にやって来た時に大学側から推薦があり、うちの研究センターの運転手になってもらった。性格は明るく、おしゃべりが大好き。典型的な北京人ってやつだ。

 現在の運転手は、上海時代の運転手とは性格が180度違う。結構、自己主張もする。運転中にいつも携帯電話を使うので危なくてひやひやするし、迎えの時間に遅れたりすると、「まだか」と言って電話してきたりする。訪問先の住所を詳細に教えても、電話番号をまず聞いて電話で相手の場所を聞く。訪問先の名刺しか情報がない時、その名刺の人にいきなり電話して「おたくはどこ?」なんて聞いてしまうので慌てることがある。

 僕は北京の道路内の空気が汚く、また自身がコンタクトを着けている関係で、走行中に窓を開けられるのは本当に困る。彼には理由を話して夏でも窓を開けないでくれと何度も申し入れているにも関わらず、なぜか馬耳東風だ。ちょっと油断していると、エアコンを切って窓を開けて走っていたりする。車は自分の生活空間だという意識なのか、マイペースというか、まあ“職業運転手”という観点に立てば、彼は失格だろう。

 でも彼には他にはない長所がある。まず大学の車隊にいたので学内で顔が広い。会議室の予約が取れない時は、あちこちのルートを伝って強引に予約してきてくれる。男手のない我が研究所で、いろんな総務的な雑務を嫌な顔をせずやってくれるし、面倒見も抜群によい。だから僕は彼を運転手だと思わず、総務部長だと思っている。中国人は自分の給料をもらっている仕事以外はやらないと言われているが、そういう意味では彼は出色だ。

 僕自身は二人しか経験がないが、運転手の話は中国にいる日系企業の老板たちからたくさん聞いてきた。彼らは日々老板と一緒に行動するので、日本語なんて全然わからなくても、老板が毎日何をしているのか把握している。また運転手は“待つ”のが仕事だから、同じ運転手仲間はいつも駐車場などでだべっている。だから早耳情報も持っているし、うわさ話は大好きだ。もし会社の業績やスキャンダルを知りたければ、そこの会社の運転手に聞けばよくわかるだろう。

 でも運転手はやっぱりストレスがたまる職業でもある。私の過去2人の運転手もそれぞれ1回だけ“キレた”ことがある。上海の運転手は、あんなに温和で寡黙なのに、ある日、よりにもよって我が本社の会長が上海に来ているときに、駐車場で他の会社の運転手らと喧嘩をしてしまった。僕がいざ会長を車に乗せて移動しようとするときに、彼が前歯を血だらけにしてやってきて、運転ができなくなったと謝った。そのとき、うちの会長はこう言った。「松野、中国ってのは、いろんなことが起こるのお」。

 今の運転手もやらかしたことがある。急に進路変更したタクシーの運転手に腹を立て、交差点で止まった時に車を降りて文句を言いに行った。しかしあっという間にタクシー運転手の仲間たちに取り囲まれて、彼はボコボコにされそうになった。僕は思わず車を降りてオフィスに電話して助けを求めた。幸い、着ているシャツを破られただけで済んだが、あの時はまじ危なかった。日本でも運転すると人格が変わる奴がいるが、運転手という職業人でも、こんなことぐらいで興奮してしまうのかと思った。

 日本では運転手は「白い手袋をはめて、いつも窓やボディを布で磨いている」というイメージがあるが、中国の運転手はなかなか人間味あふれる人が多い。僕は中国の普通の人が例えばあるニュースを知っているかどうかを確かめるとき、運転手に聞くことにしている。そう言えば例の「餃子事件」の時だって、事件の次の日聞いてみたが彼はその事実を知らなかった。中国の普通の”庶民“が何を知っているかを知るには、運転手はとても身近で役に立つ存在なのだ。

 中国では、自分の運転手とは絶対友だちになっておくべきだと思う。そうしたら街や職場のいろんな情報がわかる。そして運転手の方もいつも老板のことをいつも観察している。老板の性格、趣味、言動・・・まさか、実はそれが運転手の本当の仕事だったりして。



第14回:通訳依存の罠

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)日中のような似て非なる国家間においては、通訳は生命線になる


 最近、日本では中国語を習う人が増えてきたが、仕事で中国語を使いこなせる人材はまだまだ少ない。だから中国のビジネスにおいては通訳の存在がとても重要だ。少し前になるが、空調メーカー・ダイキン上海の総経理を訪問したときに、こうおっしゃったことが今でも強く印象に残っている。「中国でのビジネスで何が重要かと言えば、それは通訳ですよ。かなり高給でも構いません。重要な人との会話や交渉の場において、自分の意思が伝わらないとしたらこれはビジネス上、致命的ですから。」
 そう言えば僕も、最近は多少なりとも中国語を解するようになったからか、会議の場などで通訳の方の言葉を聞いていて「あれ?」と思うことが結構ある。言葉は確かに訳しているのだろうが、その人の言いたいこと、つまりニュアンスが相手に伝わっていない。しかしもっと重要な罠に嵌っている。話しをしている日本人自身が「自分の言いたいことが100%相手に伝わっている」と思い込んで話を進めてしまっていることだ。

 僕のドタ勘では、中国人との会話に慣れていない日本人と普通レベルの通訳の組合せの場合は、言っていることのニュアンスは70%ぐらいしか相手に伝わっていない感じだ。日本語には独特の言い回しがたくさんある。もちろん中国語の方も多くあるだろうが、日本語の特に「遠回しな表現」、「へりくだる表現」は相当な力量の通訳でないと相手にニュアンスも含めて正確に伝えられないと思う。

 ちょっと例を挙げてみよう。「この話はなかなか進まないので、お互い隔靴掻痒の感がありますな」「そういう風なやり方は、我が社では御法度なんです。」「私はあの会社では、面が割れているので。」「そうですね、時節柄そういうイベントはやめておいた方がいいと思いますが。」

 僕の研究センターの助理(実はこの文章を中文翻訳している!)にこれらの表現をみて直感でどう訳すか聞いてみた。「隔靴掻痒(かっかそうよう)」は、聞くとわからなかったが字を見せるとわかった。中国語も同じで意味も同じだからだ。「御法度(ごはっと)」は中国語で「教条」と訳した。これだと根拠のない禁止事項みたいに聞こえるので、日本語の意味とは逆だ。コンプライアンスを強調する日本企業の意図は伝わらない。

 「面が割れている」は難しい中国語で“対立する”という意味に訳した。これだと誤解されてしまう。日本語では“素性が知られている”というポジティブな意味なので、この翻訳だと反対の意味になる。自分では謙遜したつもりの言葉が相手に伝わらない。

 最後の「時節柄」。これは図らずも今、現地の日本人が常用している言葉だ。中国語では「関健時刻」、つまり“肝心な時”と訳した。たぶん大きな誤解にはならないだろうが、これでは”まわりの様子を窺いながら“という日本人独特の行動心理は伝わらないだろう。

 さて僕はあることに気がついた。普通日本人は相手が外国人である場合、できるだけ誤解が生じないように分かり易い言葉を使おうとするはずだ。しかし僕の経験によれば、日本人はなぜか中国人を相手にすると難しい言葉を使いたがる傾向がある。もっと正解に言えば“中国語由来のような”熟語をやたらと使いたがる。例えば四文字熟語とか諺だ。

 日本人は、なぜ中国人相手だとこういう言葉を使いたがるのか?その理由は、中国人と言葉を交わすと何か親近感というか、文化を共有していることを確かめたいという感情が出てくるからではないだろうか。実は、根底に中国の文化に対する尊敬の念のようなものもあるのだと思う。中国人も四文字熟語(成語)をよく使うし、日本語に訳すとき優秀な通訳は言葉の由来や奥の意味を補足して伝えてくれる。だから日本人も中国の人と話す時は、難しい言い回しを多用したくなるのかもしれない。

 例えばアメリカ人相手に話す時にはそういう言い回しは使わず、もっと通訳のしやすい直接的な言葉を使うはずだ。所詮、表音文字を使う欧米人には、熟語の持つ深い意味なんて話しても解りっこないと思うからだ。やっぱり日本人と中国人の間には深い文化的な繋がりがあるのだ。様々な局面における日中の誤解の真の原因は、ひょっとしたら日本人自身が使う日本語にあるのかもしれない。



第15回:日系企業で働くということ

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)今でも日系企業が入るビルは、看板を布で覆っている


 昨今の日中関係の悪化で、日系企業で働く中国人が微妙な立場に立たされていると聞く。
今は改めて「なぜ日系企業で働くのか」という意思確認をする時期なのかもしれない。中国の若者は意外と純粋だ。それなりに洗脳されているから、いまだに“日本は敵国だ”なんて思い込んでいる節もある。もちろん今はそんな時代じゃないのだが。

 中国人が日系企業で働きたいと思う理由も時代とともに変遷してきている。僕が上海にいた頃は、待遇面の魅力がそれなりにあった。当時でも欧米企業の待遇と比較してどうのこうのと言われたが、少なくとも中国の政府や普通の企業よりは給与も高く、福利厚生も充実していた。でも今ではすっかり変わって、待遇面は日系企業で働く理由にならない。

 今も不変なのは、自分は日本語を勉強した、あるいは両親や親せきが日本にいる、日本関係の仕事をしている等々の理由だ。中国で日本語ができる人はそんなに多くないから、日本語を武器にする人は日系企業という“ニッチ”なところで力を発揮しようとする。

 こんな理由もある。日系企業で働くある中国人が僕にこうもらしたことがある。彼女は“競争社会に疲れた”というのだ。「中国の社会や企業は、もう何でも競争。仕事の成果も自分でアピールしなければ出世できません。でも日本企業は組織で仕事をするので、争うより協力することが評価されます。日系企業で働いていると、私は本当にほっとします」

 日系企業で働くと、時に中国という国家の一員として大きな葛藤を感じることもある。僕は上海時代、ある企業から中国の歴史教科書についての調査を依頼されたことがある。調査の目的は、中国に駐在する日本人従業員に中国が教えている歴史観を勉強してもらうためだ。別に批判しようというのではない、少なくとも中国人はどういう教育を受けてきたかを知っておくことは、職場での人間関係の上からも重要だと依頼人は考えたのだ。

 この調査研究は、上海の学校で実際に使われている歴史教科書を集めて分析することから始めなければならない。教科書は書店に行けば購入できると言う。しかし調査研究が本格的に始まる前、社員2人が突然、僕の部屋に入ってきてこう言った。「老板、私たちを調査研究のメンバーから外してください」

 彼らは僕にこう理由を説明した。書店で小学校と中学校の歴史教科書を購入しようとしたところ、書店の店員から「君たちは何のために歴史教科書をこんなに購入するのか?」と聞かれた。「日本企業が中国の歴史教科書を研究するためです」。店員はいぶかしそうに彼らを見たという。彼らは身の危険というほどでもないが、中国人として何かいけないことをしているような感覚になった。「この研究テーマは敏感です。私たちも言われなき疑いをかけられたくありません。だからこの研究チームからは脱退させてください」

 結局この調査研究の仕事は、依頼者と相談して実施を見送った。第1回でも書いたように、中国における日本の存在はまだまだ特殊なものなのだ。日系企業で製品のマーケティングをしている中国人の友人は、仕事だから日本製品を一生懸命売り込むし、事実、日本製品は優れているところが多いこともわかる。でも同時にやっぱり中国製品ももっと頑張ってほしい、中国人だってこれぐらいのものは作れるはずだという思いも強くなると言う。これは自然なことだ。僕だって若い頃、日本で同じような思いをした記憶がある。

 仕事は生活のため、自分の魂は自分のもの。成熟した大人なら割り切って考えなければならない。最近はネットの発達で、微博(ウェイボー)など仕事や家庭以外のコミュニティを楽しめる場が広がったが、これは現代中国人にはとてもいいことだと思う。ウェイボーでは匿名で「日本人をやっつけろ」と発言しながら、会社では日本製品の良さを中国人に説明して売りまくる。この“二重人格性“は、電子ゲームを好む若者にはぴったりなのではなかろうか?だから日系企業で働くみなさん、どんどん日本製品をマーケティングしちゃって下さい!



第16回:顧客サービス

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)飛行機が遅れて、空港の窓口に殺到する乗客


 中国はもともとみんな国有企業だったせいで、お店の接客とか官庁の窓口などの対応はとても悪い、つまり「顧客サービス」という意識が低い。日本人が中国に来て誰もが最初に感じることだ。でも近年は相当良くなってきたと感じる。日本だって昔は悪かったと言う人もいるぐらいだから、中国もこれから徐々に良くなっていくことを期待したい。

 中国で顧客サービスという概念がなかなか育たないのは何故だろうか。実は僕は第2回で「公私混同」について既に書いているが、今回これから書くことはちょっと違っていて、「公私遊離」とでも言うべき事例だ。3つぐらい例をあげてみよう。

 一つ目は、顧客サービスが本来、顧客の立場に立って行われるビジネス行為であるはずなのに、なぜか企業(つまりサービスをする側)の都合が優先してしまう例だ。僕が最初に上海で会社を設立した時にオフィスの情報ネットワークを整備したが、トラブルが起こって業務に支障をきたしてはいけないので、外部のサービス会社に情報システムのヘルプデスクを委託することにした。いわゆるホットラインってやつだ。
 
 複数の業者にサービス業務の見積もりをお願いした。でもそのサービス内容を見て少々驚いた。ホットラインというのは「トラブルがあった時に迅速に対応する電話」という意味なのだが、その会社の契約書案には電話番号が5つほど書いてある。僕がなぜ5つもあるのかと聞くと、「担当者は5人準備します。上から順番に電話をかけて、出なかったら次の人にかけてください」という説明。1つの電話番号にできないのかと聞くと、「いや、担当者は自分の電話が鳴った時しか出ないのです」。「じゃあ、5番目の人までかけて誰も出なかった時は?」「また1番目からかけ直してください」

 要するにサービスする側の都合に合わせろということだ。これでもホットラインと言えるのか。2002年頃はこの手のサービス業者は少なかった。サービス業も結局は需給バランスだから、中国経済も落ち着いて売り手市場でなくなったら変わっていくのだろう。それが証拠に例えば、上海の日本料理屋などは競争が激しいせいか、かなり顧客サービスが良い。また今、外国企業の誘致競争が激しくなっている開発区などでは、区のトップが携帯番号を教えてくれて、「24時間、いつでも対応します」なんていうすごいサービスもある。

 第2は、顧客がどう思うかを思い巡らすことがないという例だ。僕が日頃から気になっていることのひとつにレストランの「賄い飯」がある。皆さんも見たことがあると思うが、レストランでは閉店間際になると、従業員が食事を始める。日本人の感覚だと、従業員はお客様が全部いなくなってから、あるいは店の奥など見えないところで食べたりするものだ。ところがまだお客がいても、隣のテーブルで堂々と食べ始めるのにはいつも驚く。

 もう勤務時間を終えたのだから、というのはその通りだけど、なんか講演を見終わってから舞台裏を見せられた時のようで、どうも心地よくない。もっと凄い例をあげよう。その1、飛行機のスチュワーデスが飛行中に、空いているビジネスクラスの席に座って休んでいた! その2、デモの警備にあたっていた警官が勤務を終えた後、集団で堂々と信号無視して道路を横切り、帰って行ったのを目撃した!

 第3の例は、仕事中に自分の立場を忘れてしまうことだ。ある日、上海から北京に向かう飛行機が急に何かの事情で飛べなくなった。その表示が出たとたんに、乗る予定だった乗客は航空会社の窓口に殺到した。昼間だったので大半はビジネス客だ。代わりの便は出すのか、他の航空会社への振替えをしてくれるのか等々、みんな聞きたいことは同じだ。

 窓口は人だかりで、当然誰も並んだりしないため身動きが取れない。こういう場合、僕のような外国人はどうしようもない。ただ遠巻きに状況を見守っていた。するとその時、窓口にいた航空会社の係員が突然叫んだのだ。「みんな黙れ!俺たちだって状況はわからないんだ!」一瞬、群衆が静まり返った。いくら何でもお客にこんなこと言っちゃだめでしょう。

 我々は仕事をしているときは、会社を代表して顧客に相対している。だからその瞬間は“公人”の立場だ。でもこれらの例をみると、突然“私人”に返ってしまっている。だから「公私混同」ではなく「公私遊離」と呼ぼう。つまり仕事をしている人が突然、遊離して個人に返ってしまうという意味だ。

 日本人は「立場論」が好きだ。「・・・の立場で申し上げれば、云々」という発言を多用する。“カイシャの日本人”はいつも会社を背負っている感がある。中国だって国のリーダーたちは、すべて役職などの立場を踏まえて発言する。しかし僕がいつも接している“カイシャの中国人”は、あるとき突然遊離して個人になってしまうらしい。

 ところで、中国の会社でも顧客との関係で納得できるところもある。それは契約行為だ。上下関係がはっきりしている外注契約であっても、契約書の内容は対等を主張できる。僕が驚いたのは、上海市政府との契約でもこちらが要望を出せば条文を変更してくれることだ。こんなことは日本の官庁ではあり得ない。契約条文は1文字たりとも変更させてもらえない。もっとも中国では契約書に書いてあることでも、後で平気で変更しようとすることが多いから、契約書の修正なんかあまり気にならないのだとも思うけど。

 「お客様は神様」という概念は日本式ビジネスの基本だ。そう言えば中国だって「為人民服務」という立派な言葉があるではないか。中国人の友人にそう言うと、彼は苦笑いしながらこう言った。「これはサービスしてやる、という上から目線の言葉ですよ」
 


第17回:中国式アポイント

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)そういえば、自分のスケジュール帳を持っている中国人は少ない


 中国で仕事をした経験のある方なら、中国でのアポイントの取り方が日本とはずいぶん違うと感じるはずだ。特に政府機関とか企業でも偉い人のアポイントを取る時は、みんな苦労したことがあるだろう。

 僕の経験をもとに言うと「中国式アポイント」には2つ特徴がある。まずひとつは「直前まで返事がもらえない」ということだ。特に日本本社の偉い人を中国の要人に会わせようとした場合、日本側は中国出張手配の都合もあるから、せめて1週間前ぐらいにはアポイントの可否について返事が欲しい。しかし結果的に断わられるのは仕方がないのだが、1週間前ではアポが可能なのかどうかの返事すらもらえない。ひどいケースだと前日になって結果がわかることもある。

 どうしてこうなるか?中国の偉い人のアポイント対応はおそらくこうだ。基本的にダブルブッキングでも受けておく。そしてアポイント当日に近くなると自分にとって最も会う意義がある人を選び、それ以外の人にはお断りを入れる。もし中国側の相手が政府機関のトップ(主任等)のアポイントの場合だったら、次席である副主任クラスの人でどうかと言って来ることもある。いずれにしろ対応はあくまで自己都合的だ。そう言えば中国の偉い人が自分のスケジュール帳を見る光景はみたことがない。でも直前にアポイントを断られた側にとってはたまったものではない。

 僕はもう中国に8年以上いるので、もう何百件もこうしたアポイントをアレンジしてきたのですっかり慣れっこになってしまった。しかし中国でもこうした“悪しき文化”はビジネスの世界に入らないと経験できないので、僕の会社の中国人社員でも最初は面食らう。日本側からは「俺の予定が立たないから、早く返事をもらえ」とプレッシャーをかけられ、中国サイドからは「主任のスケジュールは、○○が終わらないと確定できないから待ってくれ(つまりまだ値踏みされている段階)」などと言われ、その結果、この社員は双方の板挟みになって苦しむことになる。

 中国式アポイントの2つめの特徴は「アポイントの優先順位」だ。第1番は自分の組織上の上司、第2が親しい友人、第3がその他外部という順番だ。つまり日本のビジネスマンとはまったく逆だ。たとえ外部の人からのアポイントにOKを出して日程が確定していても、自分の組織の上層部とか中央政府からのアポイントが来たら、外部からのアポイントは前日でもひっくり返す。それが例えば重要な顧客だとしてもおそらく断るだろう。

 一昨年のことだったかと思うが、北京の日本大使館の大使が在北京の日本企業トップらを引き連れてある省の書記(省のトップ)を訪問する予定が組まれていた。これだけの人数の使節団だから当然、日程はおよそ1ヶ月前には確定していた。ところが1週間ほど前にキャンセルになったのだ。聞くところによれば、その日に中央政府の偉い人がその省を訪問することになったという。こちらは在中国の大使でいわば国の代表だし、訪問する企業トップはその省への投資について相談に行くのだからいわばお客様だ。日程は急きょ変更されて数週間後に訪問団は無事に書記に会うことができたが、まさに「身内優先」という我々の常識ではありえない対応だった。

 中国がなぜこういう習慣、文化になっているかは容易に想像がつくだろう。国全体が党や政府を頂点としたヒエラルキー構造になっているからだ。だから仕事に関するいろんな行動も上からの命令が絶対的になる。中国人の仕事がとかく“内向き”になってしまうのも仕方がない。しかしグローバルなビジネスの世界になるとこういう文化は通用しない。市場経済を標榜しグローバル経済に組み込まれた中国には、そろそろこういう悪しき習慣を変えてもらわなければならない。

 もうひとつ例をあげよう。今年の春頃、僕はある政府の方から日本訪問に関しての協力依頼があった。現在日本への入国ビザ取得に際しては、日本のしかるべき機関からの「招聘状」が必要になっている。それで政府の方から僕の会社にその招聘状を出してもらえないかと依頼がきた。僕の会社はこの政府の訪日活動とは直接関係はなかったが、いつも日本入国で煩わしい事務手続きを課しているのは日本国の方なので、何とか協力してあげたいと思い、日本本社の決裁を取り招聘状を作成してもらった。

 ところが、訪日の1週間前になってこの政府から訪問中止の知らせが入った。その理由は「訪問する政府要人の訪日に関して、上層部からの許可が出なかった」というものだ。なぜ許可が出なかった等々については、中国政府の事情なのでよしとしよう。しかしこの政府の担当者からは、招聘状を作成した僕や僕の会社には何一つお詫びの言葉が来なかった。人にものを頼んでおいてそれをキャンセルしたというのにだ。僕はこの対応には少々頭に来た。

 訪日予定だったこの政府の要人から見れば、自分の出国を許可しなかったのは政府の上層部であり、自分の責任ではないということなのだろう。自分の責任ではないからお詫びするということも思いつかないのか。かように中国式アポイントは、未だにどこまでも自己中心的だ。中国の役人にとって、訪日アポイントであっても面会を“お願いする”類のものだと認識していないのではないかと思う。

 中国人の友人は、日常のビジネス行為における「相手への気遣い」の考え方が日中でちょっと違うのではないかと指摘してくれた。中国人はとても友人関係を大切にする。もし僕がこの政府の人の大切な友人だったりしたら、訪日キャンセルしたことでお詫びの言葉どころか何か贈り物を送ってきたりするだろう。しかしそうでない、ましてや日本入国ビザといった中国側からみればやや屈辱的な手続きで支援を受けた相手など、気を使う対象ではないというわけだ。

 日本人は、親しくない他人に頼まれたりすることにはえらく気を使ってしまう。中国人とはまったく逆だ。アカの他人にこそ最大限の気を使う。そう言えば思い当たることがある。日本人は電車の中や会議では自分の携帯電話が鳴っても出ない、目の前にいる他人に失礼だからだ。親しくない人に思わずお世話になった時などには丁寧なお礼をすることもいい例だ。社会の文化の違いで、大事な人の順番が日中では違うのだ。

 そう思えば、中国政府のスポークスマンの外国メディアへの高飛車な態度は、あながち大国のプライドとかいうものだけではなさそうだ。中国人はアカの他人には媚びないのだ。僕は「中国式アポイント」には辟易しているが、日本人の例えば身内を紹介するときに名前を呼び捨てにするといったような極端な“身内軽視主義”も、改めて考え直してみた方がいいかもしれないと思う。



第18回:日本人の見分け方

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)こういう場所で日本人だと分かると、ちょっと怖いんです(汗)


 中国人、韓国人と日本人、同じ顔をしていても背景となる歴史・文化が微妙に違い、考え方に大きな違いがある。欧米人から見れば同じ東洋人だから考え方なども同じじゃないかと思うかもしれないけど、我々日本人は、この違いこそが中韓両国との争いの原因なのかもしれないと思っている。まあ、我々もドイツ人とフランス人の違いなんてよくわからないわけだが、彼らに言わせれば全然違うということになるだろう。

 中国人の友人に言わせると、日本人は「見てすぐ分かる」という。その主なポイントは「外見」と「動作」だと言う。まず外見で言えば、服装がそもそも違う。中国人がスーツを着る場所は、正式な儀式や相当大きな会議とかに限られている。公式の会議でも夏の暑いときなどは、国家のリーダークラスでも開襟シャツを着ているのをテレビでよく見る。日本はクールビズが許されるようになったのはごく最近のことだ。真夏でも暑苦しいスーツを着ていたりするのは、世界中では日本人だけかもしれない。

 日本人の男性はスーツを着ている人が多いので、すぐ見分けられると言う。最近はそういうことが日本でも伝わっているので、仕事の時でも中国ではカジュアルな格好をしている日本人が多くなったが、それでも「着こなし」が中国人と違うので、やっぱり日本人だと分かるらしい。一方女性の場合は、服装の「色使い」ということになるのだろうか。日本の女性は淡色を好むし、ゆったりめの服を着る人が多いが、中国の女性は原色系が多く、身体にぴったりした服を着る人が多いと感じる。だから日本人女性も分かるらしい。

 僕が絶対中国人だと確信できる見分け方がある。男性の場合はベルトのバックルだ。金色や銀色のでっかいバックルをしている男性は絶対中国人だ。ボタンダウンのワイシャツなんかもほぼ日本人だ。女性の場合、大きな花の刺繍柄の入った服を着ていればだぶん中国人だと思う。でも女性はフォーマルな服装の場合はちょっと見分けがつきにくい。一般的に言って、服装は日本人と中国人を見分けるのに重要なファクターになる。

 次は「動作」の違いによる見分け方だ。中国人と日本人はいわゆる「立居振舞い」が違うのだと言う。よく知られていることは、中国人はおしゃべりで声が大きく、公衆の場でも他人にあまり気を使わないが、日本人は声が小さく、何かと周りの人に気を使いながら行動するという違いだ。列に並ばないとか痰を吐く(最近は都会ではかなり減ったが)とか、中国人の特徴を表す動作はいろいろある。逆に日本にいる中国人は、やたらとお辞儀をする等々、日本人の特徴を表わす動作がたくさん指摘できるだろう。

 でも僕の前秘書だった劉纉さんが教えてくれた見分け方は秀逸だ。彼女曰く「椅子にすわる動作で見分けられます」。日本人は椅子に座る時、まるで椅子が壊れてないかを確かめるかのようにそっと腰かけるが、中国人はたいてい「ドン」と音がするほど重力に任せて座る。僕はこのことを教えてもらってから観察をし始めたが、なるほど百発百中だ。

 反応の「動作」で言えば、絶対中国人だとわかる動作がある。驚いた時「アイヤ」って言うのは100%中国人。人に話しかけられてわからないときなどに、「あ~?」って聞くのも絶対中国人だ。まあ、中国人と日々接している皆さんには常識でしょうけど。

 さて、このコラムは「カイシャの中国人」だから、ビジネス上の日本人と中国人の見分け方をご披露しなければならない。このコラム自身は、ずっと日本人から見た会社の中国人の行動観察を書いてきているので、ここではあくまで「ぱっとわかる方法」を示そう。

 中国人ビジネスマンの特徴の第1は「名刺」だ。中国人は挨拶する時に名刺を出さない人が多い。日本人はと言えば逆に、相手の顔も見ないでとにかく名刺を出すので、それもちょっと滑稽だ。中国人で特に役職の高い人はだいたい名刺をくれない。清華大学のある教授は「俺の顔が名刺だ」とおっしゃったので、僕は思わず吹き出してしまったことがある。もうひとつ、中国人は名刺を日本人とは逆に向けて差し出すので、これもちょっと面白い。

 中国人ビジネスマンの第2の特徴は、「うなずき」動作だ。僕の観察によると、中国人がうなずく速度は日本人の2~3倍だ。ともかく速く縦に何度もうなずく。これに対して日本人は相手の言うことがわかっていてもわからなくても、ともかくゆっくりうなずく。中国はビジネスのスピードも速いのでみんなせっかちなのだろうか。実はこれは僕のとっておきの見分け方なのだ。

 まだまだある。中国人の若い人は「鉛筆回し」がお得意だ。オフィスで脱いだ上着を丁寧に畳んだりしたらそれは日本人だ。スケジュール帳とか大きなノートとか、日本人に特徴的なビジネスアイテムも結構ある。でも最近はスマホなどの普及で見分けがつかなくなってきた。中国人は電話でのおしゃべりが大好きだから、スマホの細かい操作は苦手かと思っていたら、結構年配のビジネスマンも、スマホでちまちまスケジュールを入れていたりする。意外にスマホは、中国人に受け入れられているのではないかと思う。そうなると日本人を見分けるビジネスアイテムが、だんだん少なくなってきている。

 中国での日本人の見分け方なんか、どうでもいいことじゃないかと読者は思うだろう。でもこういう分析も、実は役に立つことがあったのだ。ちょっと悲しいことだけど、去年の秋のように日中関係が悪くなったとき、中国にいる僕たちは、いかに「日本人と見分けられない」かをあれこれと考えたのだから。



第19回:日本本社って?

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)日本本社はちゃんと会議を開いて相談にのってくれるのだが・・


 中国の日系企業の駐在員がよくぼやく流行語がある。「OKY」だ。本社の上司や企画部の連中が電話の向こうでいつもこう言ってくる。「中国なら売上は最低20%伸びるはずだ、中国人社員をちゃんと管理すればそんな問題は発生しないはずだ」云々。「そんな簡単に言うな!お前がきてやってみろ(OKY)」。中国にいる駐在員でこの言葉に異議を唱える人はいないはずだ。中国の日系企業の駐在員に「中国でのビジネスで最も難しいところはどこですか?」と聞くと、「日本の本社との戦いですね」と言うコメントが少なからず返ってくる。まさに、“敵は身内にあり”というのが実態なのだ。
 
 日本の本社から派遣されてくる駐在員は、ビジネスの基本動作などはきちんと躾けられている。しかし、一般的に言ってグローバル企業で最も重要な「権限移譲」というシステムには慣れていない。しかもその原因の多くは日本本社にあったりする。日本本社は、口では現地に任すというけれども、本社に一言でも相談しないで意思決定したりするとこうも言って来る。「その件、現地で決めていただいて結構なのですが、本社にひとこと相談していただきたかったですね」。こうしたやり取りを傍で見ている中国人社員は、とても不思議に感じることだろう。

 
 中国人社員から見れば、中国に会社を作り老板に権限を委譲しているはずだから「すべてを任せて、結果についても責任を取らせる」というのが当たり前の概念だ。これは欧米企業でもまったく同じだろう。それなのに、任せると言っておきながら報告・相談を求めてくる日本本社はとても不可解に映るだろう。さらに極めつけの言葉はこれだ。「こんな重大な決定、貴方に責任をとらせるわけにはいかないから、ちょっと本社と会議を開いて相談してください」。これじゃあ日系企業の老板は、中国人社員になめられてしまうこと請け合いだ。

 
 だいぶ前のことになるが、僕が上海現法の総経理だったとき、上海市のある区長と会食をする機会があった。こちら側の構成は、日本本社の社長と事業本部長(役員)、僕、そして中国人社員数名だった。もう内容は忘れてしまったが、ある案件で我が社の意向を表明しなければならない事態になった。区長は当然、意思決定するのは僕でそれを承認するのが社長だと思っていた。しかし僕は日本式の意思決定メカニズムに従い、事業本部長に聞き彼の返事を待った。そしてその通り本部長が区長に返答した。

 
 区長は何かいぶかしげな表情を見せた。なぜ僕が返事をせずに本部長なる人間が答えるのか?あとで区長の秘書に確認したところによると、我が社の序列は社長、僕の順で、同席していた本部長は社長の秘書ぐらいに思っていたそうだ(中国では社長秘書は偉いのだが)。上海市の区長にとっては、“大中国”の現法社長である僕は、少なくともこの会食の場では日本本社の社長の次に偉いと思っていたようだ。

 
 実際、中国人社員にとっては、日本本社にいる社長以外の役員、事業本部長、それに本社直轄組織の経営企画部長とか海外事業部長、そういう役割の人たちが自分たちの事業にどうか関わり、どういう権限を持っているのかはとても理解しにくい。またクライアントとの契約交渉などで、自分の老板(つまり中国現法の総経理)が決めたことを本社の法務担当社員が認めなかったり、財務課長が経費申請を却下するといったことにとても困惑してしまう。

 
 中国人社員にとって私たちのボスは、中国現法の老板であり、事業戦略も人事評価も経費処理も全部彼が決めるものだと思い込んでいるし、事実、仕組みとしてはそうなっている。少なくともグローバル企業では当たり前のことなのだ。だから業績が悪かったり不祥事が発生して自分の老板が突然人事異動で飛ばされたり、会社を辞めたりしても別に驚かない。しかし日系企業の老板は、中国の業績がよくても悪くても、会社のコンプライアンスをきちんと守り、本社に報連相をしていさえすれば、数年の任期を経て本社に帰ってそれなりのポストが与えられるというケースが多いのではないだろうか。

 
 日本本社っていったい何なのだろう。ある中国人社員がつぶやいた。「日本企業だって、資金を投資して利益を上げるために中国に進出しているんでしょう?私にはどうも儲けてやろうという覇気が感じられませんね。事業がブレイクしそうな状況でも本社は思い切って投資せず“そこそこ”の利益を求めるみたいだし、老板がミスをして本社の社長にどなられるといった場面も見たことがありません。日本人老板の中にはすごく優秀でビジネスセンスのある方もいました、でもみんな日本本社との軋轢で疲れてしまっているように見えました」。僕は日本式の「和の経営」も良いところはいっぱいあると思うけど、中国ではそれが却って仇になっているのではないかと思う。



第20回:優秀な社員

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)優秀な学校は出たけれど・・・


 「あいつはとても優秀なやつだ」。日本でも中国でもよく使われる褒め言葉のひとつだ。でも”優秀“の中身は、日本と中国ではちょっと違うのではないかと思う。日本人が「優秀なやつ」と呼ぶ時は、言外にその人は「学校の成績が良い人だ」というニュアンスがある。またどちらかと言えば、その人をやや批判的に評する時に使うことが多い。「あいつは優秀なやつなんだけど・・・」と言う時は、良い学校を出ていて頭は良いのだけれども、仕事上での成績はあまりよくない」といったニュアンスになる。
 
 これに対して中国で「優秀なやつ」と言われる人は、ちょっと日本人とは違う気がする。ある日、中国のニュースでこんな記事を見たことがある。ある地方政府の役人が汚職で捕まった。そしてその役人の同級生だというタクシーの運転手が記者のインタビューにこう答えた。「あいつは昔から優秀だった。大学の時に食堂を開いて大儲けしたらしい」。中国で「優秀な人」というのは、学校の成績ではなく、如才がなく抜け目のない人、もっと直接的に言えば「お金設けのうまい人」というニュアンスが含まれるのではないか。

 
 中国人は日本人より起業精神が旺盛である。だから”優秀な“社員は、大企業に入っても機会を見つけて独立しようとする人が多い。中国の会社では優秀な社員からどんどんやめていくのだ。だから中国の大企業は、優秀なトップとそれほどでもない社員で構成されている。なるほど、そうだから意思決定はトップダウンで行わなければならないのか。

 
 日本人は会社をやめる人が少ないから(もっとも最近はそうでもないが)、“優秀な”社員もずっと会社に残り、ゆっくりでもいいから出世していく道を選ぶ。日本の大企業は、時間をかけて昇りつめた“優秀な”トップと、優秀だがお金儲けはあまり得意でない社員で構成されている。なるほど、だから意思決定はいつもボトムアップなのか。

 
 では“優秀な”日本人トップと“優秀な”中国人で構成された中国の日系企業は、どうなっていくのか。トップを務める日本人は優秀だけれども、お金設けはあまり得意ではない。その会社で働くことになった部下の優秀な中国人は、お金設けのアイデアをたくさん持っている。だから部下の中国人は、日本人トップに対してお金儲けのいろんな事業アイデアを具申するだろう。

 
 トップの日本人は頭がよいので、そのアイデアの秀逸さは理解できる。でもそれを実行すべきかどうか決めるのにはすごく時間がかかる。秀逸な事業アイデアでも、時間をかけて考え過ぎるといろんなリスクが思い浮かんでしまうものだ。かくして意思決定は遅れ、優秀な中国人部下に呆れられ、あげくの果てにその部下は会社をやめてしまう。そしてその中国人部下はこう考える。「うちの会社のトップは優秀じゃない」。何を隠そうこの僕も、上海の会社でこういうことを何度か味わって貴重な部下を失った経験がある。

 
 日本にある日本人だけの会社であれば、優秀な社員ばかりを集めてもみんな辞めないし、みんなでゆっくり考えミスの少ない経営をしていけるし、それは決して悪い経営ではない。日本の会社の存続性、継続性は世界に誇れるものだ。しかし中国の日系企業ではそうはいかない。

 
 日系企業の幹部は、みんな口を揃えて言う。「優秀な中国人社員を採用しなければ、中国でビジネスを成功させることはできない」と。でも本当だろうか、ちょっと考え直してみよう。“優秀な”日本人トップがいる日系の会社が“優秀な”中国人を採用すると、本当はうまくいかないのではないだろうか。

 
 たいして“優秀でない”、つまり学校の成績はよくないがお金儲けはうまいかもしれない日本人トップがいる会社こそ、優秀な中国人を雇うべきなのだ。そうすればきっとその会社は成功する。でも日本の優秀な社員が揃う大企業は、“優秀でない”人を中国のトップに派遣するなんていうことは、やっぱり思いつかないのだろうな。