待ち合わせた地下鉄静安寺駅のデパートの入り口で、背の高い彼女はすぐに見つけられた。
ピンストライプの紺のタイトスカートにエナメルのヒール。すっぴんなのにしっとりしてきめの細かい肌はアラフォーには見えない。
「おひさしぶりですぅ。お元気でしたか?」
彼女はいつもの完璧な日本語で話す。彼女と私は、おしゃべりのためにスタバへと歩き出した。
デパートのすぐ隣に静安寺という古刹がある。オレンジがかった黄色の土っぽい外壁は、 現代建築と租界時代からの西洋風情のアパート群が景観の大部分を占める上海で目を引く。彼女がこの静安寺エリアで生まれ育ったことを、お寺の脇を歩きながら私は初めて聞かされた。
「上海でもいちばん古いエリアで、そうね、東京でいうと浅草かしら」
静安寺育ちには、江戸っ子と同様の誇らしさがあるようだ。
お寺の中はどうなっているのかと私が尋ねると、
「中に入ったことないの。大門育ちの人が東京タワーに登ったことがないのと同じ」
これって自慢よね、と言うと彼女は悪びれるふうもなくウフフと笑った。
このぬけぬけとした感じが彼女だよね、と私は初めて会った時のことを思い出した。
4年前、北京で彼女をインタビューした。
富裕層向け高級旅行雑誌を発行する出版社の社長である彼女の着眼点と洗練された誌面づくりは評判になっていた。
初対面で彼女は、上海のトップ高校と北京の名門大学出身であること、日本の大学院や出版社での経験と、日本のどんな組織や企業とネットワークを持っているかを、 はっきりとした口調で話し出した。
これが日本人だと、学歴やキャリアを他人に話すとき、強調気味にはあまり言わないだろう。取材の本題に入り、彼女のビジネスモデルや今後のプランの説明を促すと、さらに押せ押せモードは高まっていく。さらには、これまでどんな取材をしてきたのか、今はどういう原稿を書いているのか、どういうネットワークを持っているか、など、私の方が逆取材を受ける始末。
バランスのとれたプロポーションと甘い雰囲気の美人顔に似合わない押し出しの強さ。正直に言おう。私は息苦しく感じてしまった。
その2年後のことだ。
あるプロジェクトに彼女の協力がほしくて上海のオフィスを訪ねた。今度は私も彼女に向けて、 彼女と同じくらいかそれ以上にズケズケとプロジェクトのゴールと彼女に頼みたい事についてしゃべりまくった。今思えば、相当強引で、彼女の都合など一切考えていなかった。とにかく、なにがなんでもプロジェクトを形にしたかった。
彼女は半ば笑うように私の顔をじっと見ていたが、私が話し終わると、
「できるかぎりのことをやりますよ」
と言い、プロジェクトに活用できそうな彼女の持つ政府系の人脈を3つほどあげ、実際に後日、話を通してくれた。
不思議というかムシがいいというか。そのプロジェクトが完結する頃には、私の彼女への苦手意識は消え去り、むしろその毒気も含めて彼女を好きになっていたのである。
「中国流」でプロジェクトを突破してみてわかったことがある。中国女性の押しが強いのは、彼女たちはそれだけ自分の思いを率直に表現してしまうからなのだ。わがままといってしまえばそれまでだが、自分の思いに対してそれほど素直なのである。そして同じく欲に正直な人間に寛大だ。
静安寺そばのスタバで、彼女の会社の経営状況を話し込んだ。共通の知り合いの名前をあげ、彼女は「あの人を、今度はどう利用しようかしら」とぬけぬけと言う。まったくもって、美人顔に似合わない。だが、社員のためにも会社を強くしたいというエゴを外連味なく口にする彼女は、やっぱり憎めない。
「したたかなる上海女性とはこういうことよ」
また彼女がウフフと笑った。
文:三宅玲子
ある会合でBillionBeatsについて話す機会を与えられ、準備のためPPTに1枚の画像を取り込もうとして、ふと手が止まった。
スンリンがふっくらとした丸い顔をこちらに向けて笑っている。
あれからもう5年が経った。
スンリンは、BillionBeatsのウェブサイトで連載した北京の子どもたちのフォトインタビューシリーズ「11歳」の記念すべきひとりめの取材対象者だ。
2011年、11歳だったスンリンを撮らせてくれたのは彼の母だ。主に外国人向けにジェシカというイングリッシュネームで白タクのドライバーをしている母親とは、北京に移り住んだ年の夏に不動産会社の紹介で知り合った。おおらかだけどテキトーなドライバーもいる中、ジェシカは毎回目的地へのルートを事前に調べ、時間に正確な“デキる”ドライバー。アラフォーのジェシカの助手席に座ってお互いの身の上話をするうちに、離婚した彼女に11歳の一人息子がいることを聞いていた。
北京の子どもたちの日常をちょっとでも覗き見したいと企画したこのシリーズ、取材対象者は人海戦術で掘り起こしていくしかない。恐る恐る息子くんの取材を相談したところ、断られることも覚悟していたが、ジェシカはすんなりオッケーしてくれた。
ジェシカは息子と別に暮らしていた。彼女は客 から電話があればいつでも飛び出せるように、外国人が多く住む北京東部の簡易宿泊所のようなところで仮住まいみたいに暮らしていた。
息子・スンリンはジェシカの両親と住んでいて、雨上がりの夕方、ジェシカが車でわたしと写真家の佐渡多真子さんを連れて行ってくれた。そこは高層アパートが並び立つ東部をさらに東に行った郊外の集落だった。
車を降り、ぬかるんだ路地を入っていく。粗末な平屋がギュッとくっつき合っているその一室が、祖父母とスンリン、そしてやはり預けられているジェシカの弟の子どもの4人の住まいだった。
地元の小学校に通う5年生のスンリンは、いかにも健康で利発そうに見えた。私のおぼつかない中国語で繰り出す質問に礼儀正しくつきあい、答えていく。最後の質問「欲しいものは?」に、彼は「家」と答えた。
そうか、中国では子どもでも不動産投資の意味をわかってるんだねえと感心しながら理由を聞いたところ、返ってきた答えに佐渡さんと私は驚くことになる。
彼の話した理由はこうだ。彼ら一家は四川省出身で、北京市の市民証を持たないため、高校は戸籍のある四川省でないと通えないのだが、賃貸ではなく自前の不動産を持っていれば北京市民でなくとも北京の高校と大学に進学できるから。だから家が欲しいのだと、スンリンはにこやかな表情を変えずに説明した。
数学が得意で成績のいいスンリン。だが、学力ではなく家庭の経済状況が進学のハードルとなっている「教育の機会不平等」を、11歳ながらスンリンが淡々と受け入れているのが切なかった。
厳しい現実の一端を教えられるとは予想しなかった私にとって、「11歳」インタビューは頭を一発殴られるようなスタートとなった。その後約2年で50人の11歳たちと子ども部屋で向き合うことになる。
5年が経ち、中国では景気が後退し、ジェシカはまだ家が買えず、16歳になったスンリンは四川の親戚のもとで高校に通っている。どういう人脈で調達したのか、3年前からジェシカの車は黒塗りのアウディに変わり、最低400元(約8000円)からの仕事しか引き受けなくなった。自分で生き延びるすべをどこからでも見つけ出して生きていくたくましさは、ジェシカだけでなく北京で知り合ったどの中国人にも共通するものだ。
私には以前と同じ友達価格でいいよと言ってくれるが、もう気安くは頼めない。以前ならジェシカの車で出かけたような遠方にも、私は地下鉄を乗り継いでいくようになった。
文:三宅玲子 | 写真:佐渡多真子
(写真)最近のインリ ー 三影堂撮影芸術中心の中庭で
インリがロンロンと出会ったのは1999年12月、東京の立川。インリが27歳の冬のことだ。
彼が編集していた『NEWPHOTO』という手製のコピー誌が注目され、立川で開催していた国際芸術祭にロンロンが中国の現代写真家を代表して招かれて来日していました。
たまたまその展覧会に行って、彼の作品に強い印象を受けました。会場にいた彼に会った時に自分の塞いだ心が開かれて、彼が自分の心に入ってくるのがわかったんです。
インリは、東京の写真専門学校を卒業後に契約カメラマンとして3年間働いた新聞社を辞めたところだった。新聞社では雑誌のグラビアや取材を担当。現場で撮る写真と自分の目指す写真とのギャップに耐えられなくなると、ある日突然スキンヘッドにして出社したこともあった。表現としての写真を模索し、自我との格闘のさなか。写真仲間と議論すれば互いの写真観を徹底的に攻撃し合う。精神的に疲弊する中、ロンロンと写真を通して言語を超えて理解し合う体験をする。
彼の作品は素晴らしくて、何かとても強いものがありました。そこに撮られているものに共感できる思いがあったのと、自分が写真を撮ってることの理由のようなものが、彼の写真の中にも見えたんです。
「なぜ写真を撮るのか」というところで深く理解し合えたんだと思います。
それは、自己認識のためなどとは違います。写真を通してしか表現ができない、逃れられない重たいものがある。でもそれは、いくら表現しても自分が開かれていかない苦悩でもありました。出口は写真を通してしか見つからないとわかっているけれど、なかなか見つからない。ふたりともそういう状況にあって、写真を通して交差することで似たような現状をわかり合えたのと、ふたりは交差することによってもしかしたら開かれていくかもしれないという予感めいた思いがあったかもしれません。
中国に帰ったロンロンからは「中国に来てほしい」という国際電話やファックスが届き続ける。
写真を撮ることでしか自分の存在が成立しなくて、第三者を受け入れられない状態でした。閉じていた心が彼に会った時に突然開かれて、彼も自分の心の中に入ってきているんですが、すぐには自分の変化を受け入れられませんでした。
その頃私が撮っていたのは「Gray Zone」というシリーズです。自分の身体からわき起こる生命の叫びを撮ったものです。撮影を終えた後、それ以上に強い生命観が生まれてこなくなっていて、しかも自分の現実を考えると魂だけはあるんだけど、実際に身体がついてきてない、魂ばかりみたいな存在になってしまっていました。
世紀末的な空気に支配されていた99年に続いて、2000年は「ないはずの世界がまだあった」的な取り残された1年という感覚が私にはありました。その意味で、2000年は私にとっては空虚な時間だったんです。
さらに、ロンロンのところに行かない自分も空虚でした。彼は自分の心に入ってきているのに、自分の殻が強すぎるためにそれを認めて一歩進もうという展開はできないんです。
表現者同士だから、彼のところに行ったら自分の写真が消えてしまうかもしれないという恐ろしさもありました。
一方のロンロンは福建省の山間の農村地帯で育った。勉強は苦手だったが絵を描くのは好きだった。成績が悪くていつも教室では小さくなっていたけれど、ある日教室の後ろの黒板に描いた絵を先生がすごく褒めてくれた。初めて自分に自信を持ったという少年時代——。
目指す美術大学に合格できなくて浪人していたある日、村の写真館で初めてカメラを触らせてもらったそうです。見よう見まねで撮った妹の写真を現像した時現れた絵を見て驚愕し、これこそが自分の表現したかったものだったと思ったって言うんです。絵では表現できなかった世界がまさにそこに映っていた、そう感じたと彼は言います。
父が責任者を勤める農協で3年働いて貯めた1万元を手に、92年、22歳で彼は北京に出てきました。カメラを買って数年は働かずに写真だけ撮るつもりだったそうですが、北京の物価は農村とは桁違い。流れ着いた東村は北京市朝陽区の朝陽公園のそば。今では高級住宅が立ち並んだ開発地区となっていますが、当時は町外れで一番安い場所。たまたま若い前衛芸術家達が集まっていました。パフォーマンスや絵画を通して 新しい価値の表現に挑む同志との出会いから、夢中で彼等を撮り始めたのが、彼の写真の原点です。
ロンロンは、カメラだけは信じられた。カメラを手にしたことで表現者として自由にどこまでも羽ばたいていけると感じた。
当時の北京で前衛芸術は誰にも理解されませんでした。ロンロンは生活のために、映画のスチールや映画館の宣伝の写真を撮っていました。発表できる媒体もない中で、仲間と2人で作品をコピーして手綴じでつくった雑誌を美術館関係者や海外の大使館に配ったんです。この『NEWPHOTO』だけが発表の場でした。
『NEWPHOTO』は国内の芸術関係者から海外へと広められていき、海外の写真芸術関係者や現代芸術関係者にも注目されていく。それが、ふたりの出会いとなった99年・立川での展覧会にもつながったのである。
海の向こうから電話をかけてくるロンロンと、カタコトの英語でポツポツとしゃべりながら受話器の向こうの息づかいを感じるという時間が半年ほど続きました。彼は北京に来てほしいと言う。でも、行けば自分が自分でなくなってしまうと思っていました。自分を変えたら写真が撮れなくなるという怖さ。9ヶ月間悩んだ末に、自分の写真が撮れなくなったら、その時は仕方がない。葛藤があるんだったら行ってみるしかない。そう思って行くことを決意しました。
2000年9月、インリは1ヶ月の観光ビザを取得し、北京へ。
やっと会えても、言葉はやっぱり通じない。私は中国語はわからないし、彼は日本語はわからない。英語だってカタコト。ふたりで英語と中国語と日本語が混じったような言葉をつくってしゃべっていました。
まわりの人はわたしたちが何をしゃべってるのかわからないから、好き勝手にふたりだけでふたりにしか通じない言葉で会話をしていたんです。いまそのビデオを見ると自分でも何をしゃべっているのかわかりません。
生まれたばかりの双子が、放っておくとふたりだけの言葉をつくっている——。そんな感じでした。
写真が私たちの共通語でした。写真を通して理解し合える。だから言葉はあまり必要としなかったんです。
そもそも出会った瞬間は、中国人とか日本人とかいうことより、自分たちの中でもっとも大切だった写真を通して互いに開かれ合えた。
そういうふたりが、互いの写真を通じて欠けていた部分が補われて満たされた気分になったり、自分が求めている部分について何か潤いが得られたような感じがあったんだと思います。そうでないと、写真を見ただけで理解し合えたというふうにはならないでしょう。
ほかの人に説明しても「よくはわかりません」と言われるんですが。
北京オリンピックに向けて街中が工事中の状態になるにはまだ早いこの頃。北京市の主要交通網である環状道路は現在7環まであるが、当時は3環が整備された時期だった。
彼はまだ無名でしたが、注目され始めていました。
中国国内で現代アートは開かれた存在ではありませんでした。それが少しずつ変化し始めたのが2000年です。国立の美術館でも展示が行われたり、それにあわせていろんなところで小さな展覧会が開催されたりして国内でも少しずつ公な動きが出てきた時なんです。
この年の11月に、上海ビエンナーレが開幕しました。方力釣(ファン・リージュン)、黄永砅(ファン・ヨンビン)といった中国現代アートを代表する大御所の作家たちの作品が一挙に展示された展覧会。それも、初めて国内の美術館で展示した記念すべき展覧会です。ロンロンは言いました。
「彼らのような現代アーティストが国の美術館で展示できるなんて、これまではまずなかったこと」
上海じゅうのアトリエやギャラリーで上海ビエンナーレに関連する展覧会が開かれていました。その中に艾未未(アイ・ウェイウェイ)がキュレーターとして主催した『FUCK OFF』という展覧会があって、そこでロンロンも作品を発表したんです。
観光ビザを延長し、2ヶ月の滞在を終えてインリが帰国すると、その後資生堂ギャラリーが『亜細亜散歩』 展を企画。再来日したロンロンとインリは日本で入籍した。そして本格的な創作活動が始まる。(第2回「北京は世界につながっていた」に続く)
(写真)今年も4月23日から草場地・春の写真祭が開幕する。世界から現代写真の第一線のアーティストが集う
2001年4月、ふたりは入籍。インリは北京に渡った。
2001年の中国における現代アートを巡る状況はというと、ちょうど現代アートが社会に向かって開かれ始めた時期です。でも、写真家や現代写真の位置づけはまだほとんどないに等しいものでした。アーティストたちの間では写真がアートであるという認識はなかったので、ロンロンは立場的には苦しいところにいました。
彼自身はアーティストとして高い志を持ち、当然のことながら、写真による自らの表現を芸術だと思っていました。でも、まわりの友だちやアーティストは、ロンロンの作品を資料的なドキュメントとしての「写真」というふうにしか認識していなかったんです。そんな状況で自分の立場や足場をどう固め、どういうふうに展開していくか、ビジョンは明確には見えていませんでした。もちろん表現者として未来への希望はありましたが、環境はそれほど恵まれてはいなかったと思います。
それでも、状況は前へと動いていました。国外で中国の現代アートに注目した展覧会が増えてきて、写真の作品が大規模な現代アート展で展示される機会も少しずつ出てきていました。でも、自己表現として撮った彼の作品そのものではなく、被写体としてのアーティストの展覧会と取り違えられることもありました。
ロンロンの写真が入り口となっているのに、最終的にはそこに写っているアーティストの方に展覧会の招聘の話がいくといったことが多かったんです。それには彼も「なぜなんだ」という思いがあったと思います。
ただ、私たちにとってよかったのは、私が来たことで、一旦彼はアーティストの群れから離れたんです。
ふたりはロンロン&インリとして創作活動を開始したーー。
私が北京に行った頃、前衛のアーティストたちはいつも行動をともにしていて、ロンロンもそうでした。それが、ふたりで写真のことだけを考え作品本位で製作をし始めたので、つまらなくなった彼の友人たちはだんだん彼から離れていきました。おかげで私たちは作品に集中することができました。
ひとつの被写体について、最初は私が撮って次に彼がというふうに撮影をしていくうちに、私たちはふたりで同じカメラを使うようになりました。
撮影場所に行くと、「ここで撮りたい」と思う場所がふたりともだいたい同じなんです。そのうち自然にふたりで見つけた世界にふたりで入っていこうということになりました。そして、カメラだけを置き去りにして走ったり、リモコンで操作したりして、自然の中に自分たちが写り込んでいくようになったんです。それは実験的な試みでした。
こうしてふたりのスタイルを生み出すまでのジャンプはあっという間でした。さまざまな写真を撮ることで、自分たちのスタイルを確立していったんです。
彼は、自分も含めた「ふたり」を撮るという手法の作品を既に発表していました。私たちが出会う以前の彼の作品に、ウエディングドレス姿の女性の被写体とともに裸の彼が写り込んだ『Wedding Gown』シリーズがあります。初めてそれをみた時に、強い印象がありました。
あのシリーズは、彼が自ら演出する彼自身のドラマです。一方で、私たちがふたりで写り込んでいく手法は、それとはまた全然違います。特に『富士山』や『大自然』といった「自然」のシリーズは、まず風景があってその中に入り込んでいきます。入り込んでいく先は風景であって、自分たちの世界ではない。風景が受け入れてくれないと自分たちの写真が成り立たない。
この頃の作品『富士山』や『大自然』は、のちに海外で高い評価を受けることになる。『富士山』はスイスを拠点とする現代アートのコレクター・ユーレンス夫妻のコレクションに加わった。
『富士山』は、富士山を背景に雪一色の湖が広がり、その中に裸で駆けていくふたりの後ろ姿。『大自然』は、敦煌の大自然を背景にふたりが重なる。静けさと躍動感がひとつの作品の中に共存する。
かなりギリギリのところまで行くので、いつカメラに撮られているのか私たち自身もわからない。シャッターチャンスはカメラに委ねていました。
シャッターチャンスに加えて「気」も合った時に初めていい作品が生まれるのです。「気」が乱れると、「ああ惜しかった、これが入っていれば……」ということがあるんですが、「自然」のシリーズはそれらが「気」が合ったときに生まれた作品が多いんです。
山で作品を撮ったあるときも、登る前からずっと雨だったのに、山頂についたら急に厚い雲が割れて雨が止み、光が射し込んだのです。
「今、撮ろう」
と、すぐにふたりで撮影を開始しました。撮り終わるとまたすぐ太陽が雲に覆われ光が遮られて、一気に暗くなってしまったんです。
そういう奇跡のような出来事が何度かありました。
一方、この年、ニューヨークでもロンロンの展覧会が企画された。同時にふたりはオーストリアのレジデンスをベースに3ヶ月かけてヨーロッパを旅する。欧米の現代アート界の視線を惹きつけるのに、そう時間はかからなかった。
(写真)展示会場
「地震を知ってからずっと何かしたいと思ってたんだ。でも寄付をしたくてもどこに寄付できるのかわからなかった。チャリティイベントに出品する機会をくれて本当にありがとう」
中国のアートシーンを代表するアーティスト・方力釣(ファンリーチン)はそう言って出品を快諾してくれました。
5月5日夕方、初夏晴れのさわやかな夕暮れ時、街路樹の新緑がみずみずしく茂る芸術区・798のイベリアアートセンターに600人の観客が訪れた。798は元工場をリノベーションしたアート地区。100軒以上の現代アートギャラリーがひしめく。ここで、「草場地春の写真祭2011」の一環として、東日本大震災で被災した子どもたちを支援するチャリティイベントの開幕式が始まろうとしていた。
震災がおこってから数日は連日の報道映像をただただ見ているだけで何も行動に起こせなかった、すっかり気持ちが打ちのめされてる自分に杭をうつことにしました。私はなんの被害も受けていないんだと。
早急な支援は無理にしても日本にいない自分たちだからこそできることがある。自分たちに何ができるのか、ロンロンと考えていました。写真祭でともにディレクターを務めたベレニス・アングレミーや黄锐(フアン・ルイ)たちも展開を考えていた。そして共同で何ができるかということを話し合ったのが約一ヶ月前の話になります。
そこにイベリアアートセンター館長の夏季風(シャーチー・フェン)が発起人として加わって会場を提供してくれると決まったのが、ちょうど2週間ちょっと前。そこから一気にこのLOVE&HOPEチャリティイベントの計画が具体的に動き出しました。
私たち発起人が手分けして作家に直接依頼をしました。方力釣に依頼に行って、逆にお礼を言われた時には人間ってすばらしいと心から思いました。彼をはじめ中国、韓国、そして日本のアーティスト、合わせて79人が98点の作品を無償で提供してくれました。
(写真)展示会場
展覧会は2部構成となっており、第一部の“311:東日本大震災写真展”の会場には被災地の報道写真が展示されていた。がれきの山の前で立ち尽くしうなだれる家族、スナップ写真を握りしめて行方不明の妻子を探す夫の思いつめた表情、泥の中から顔をのぞかせるセルロイドの人形。写真は静かに、だが強く、被災地の哀しみを訴えかけてくる。
吹き抜けの真っ白な空間に展示された現代アート。場内は被災地への鎮魂の空気に満ちていた。
報道写真は、ボランティアスタッフによって映像として編集、上映されていた。映像をしめくくる最後の1枚に選ばれた、避難所で祖母の背中におぶわれる小さな女の子の澄んだ瞳が印象的だった。
今回、このチャリティイベントを被災地の子どもたちのために行いたいというのは私たち発起人の同じ思いでした。
震災からすでに一ヶ月がたった今だからこそできることを考えました。 現状はあまりにも残酷です。
被災地では子どもの存在が大人を支えているといいます。子どもがいなかったら、動かない現実というか、生命観のない現実につぶされてしまいます。子どもがいるから明日があるというふうに思える。子どもがいるから続いていくんだという思いがあります。子どもは社会の希望であり、原動力であり、守らなければならない存在なのです。
もうひとつの願いは、彼らがいつか大人になった時に、自分たちが小さい時に中国のアーティストたちが支援してくれたという記憶が新たな歴史を作ってゆくかもしれない。という未来への希望です。
(写真)展示会場
被災地の報道写真を提供した朝日新聞社や禅フォト・ギャラリーへは、インリが直接出向いて提供を依頼した。朝日新聞社は、インリが20歳から3年間契約カメラマンとして働いていた古巣である。当時の写真デスクが社内のアレンジを引き受けた。被災地の子どもたちを支持したいという思いはここでもつながった。
北京のアートシーンから、さまざまな国の人たちが日本に向けて思いをひとつにすることができました。東日本大震災発生後、現地発起人によって行われた日本支持のイベントは、中国国内ではおそらく初めてです。今後もないでしょう。
そして、ここで中国と韓国、日本という複雑な歴史を抱える国の人々がアートを通して一堂に参加してくれたことはとても意味のあることです。
開幕式でスピーチに立った韓国文化院の金翼兼氏は、被災地のために国と国の垣根を超えたことの意義をたたえた。
もちろん、中には、出品の依頼を断る作家もいました。
でも、それはそれで仕方がないこと。そういった中でこれだけたくさんの人が参加してくれたことがすばらしいと思うし、そういった人たちがいることを伝えられるイベントができたことがよかった。私の役割はむしろそういう人たちが中国にいるという事実を伝えていくことだと思います。
「ひとつの国で大変な問題が起こった時に、その国だけでは対処できないこの時代ですが、同時にインターネットを通じて問題意識を世界中で共有できて、ひとつの問題に対して何ができるかをを考えられる時代になりましたね」
そうおっしゃったのは、国際交流基金日本北京文化中心所長の杉田松太郎さんです。
この活動を通して、世界で何かが起こった時に私たちは何ができるかを考えることから本当に交流をが始まるということを示したいと願いました。
それが実現できたのが本当にうれしいことです。
ギリギリの予算とスケジュールの中、関係した人々はすべてボランティアで協力してくれた。初日の売上げは100万元を越えた。作品は5月15日まで展示販売される。
(写真)展示会場
(写真)LiuLiTun 2003 No.1
2001年 銀座の資生堂ギャラリーで開催された「亜細亜散歩」展のためにロンロンが来日。私たちは日本で入籍しました。
ロンロンの資生堂ギャラリーでの展覧会のあと、大阪で私の個展があり、その後すぐにロンロンがオランダの写真祭に参加するので一緒に出かけ、9月からオーストリア政府のレジデンスにふたりで3ヶ月間滞在しました。
この年はほとんどの時間を海外で過ごし、年末に北京に戻ることになります。私の北京での居住生活はその時から始まったといえます。
当時北京市内はといえば、まだ今のような近代的な高層ビルはなく、北京の伝統的な住居である四合院づくりの家が立ち並ぶ一角があちこちにありました。ロンロンと暮らし始めた六里屯の家は30年くらい前に出稼ぎの農民たちのためにつくられた居住区で、15平米くらいの部屋と台所とトイレが三方から中庭を囲む、四合院風のつくりの家でした。そのころ村の掲示板に2008年のオリンピック北京招致成功!のニュースが書かれて、オリンピック招致に国が沸き始めていました。
その後、北京市街地は急速な再開発が進み、広範囲で家屋の取り壊しが執行され、町中が空爆を受けたような悲惨な状況になった。
12月の末にヨーロッパ滞在を終えて北京に戻ってきた時のことです。
空港からタクシーで六里屯の家に戻ると、家に近づくにつれ、あたりの景色が一変していました。
六里屯は北京東部の朝陽公園という大きな公園の南側にありました。以前あったはずの町並みは、私たちの家のある一角を残して、道を挟んだ隣の区画まですべてが取り壊されていました。車の中からその信じられない光景を見ながら、まだ残っていた家を見たときの安堵感。今でも忘れられません。
このエリアも高層マンションを建てるための取り壊しが始まっていたのです。
(写真)LiuLiTun 2003 No.18
ロンロンは、92年に福建省から上京し住居を転々としたあと、まず北京東部の東村にたどり着いた。東村は当時もっとも家賃の安い村で、上京したての若い貧乏芸術家が数名住み着いていた。後にアーティスト村・東村として知られるようになる。その東村が撤去されアーティストが散り散りになった時から、この六里屯の家に住み続けてきた。
六里屯に住み始めたばかりの頃は、朝起きると朝ごはんの支度ができていました。ロンロンが近くの市場で麺と野菜を買ってきてつくってくれるんです。
野菜と貝類を炒めていれるだけの簡単な麺ですがとてもおいしい。ツォンという長い貝をショウガで炒めて土鍋に麺を茹でておいて、スープごと合わせます。 毎日同じ麺ですが、自然感のある家のつくりや庭の天井をすべて覆うほど茂っていた葡萄蔓からの木漏れ日の美しさや、見慣れない北京の色彩感などがすべて新鮮に輝いていて、「中国の麺って、素敵」と思いながら食べていました。
近くの市場へは、私も毎日のようにお使いに行っていました。新鮮な野菜や卵がほんの数元も出せば手に入るので、お金はなくて貧乏でしたが生活はできました。
はじめは中国語がまったく話せず、市場で買い物をするのに指だけで「これ」とか「何元」とか交流していたので、しばらくは口がきけない人と思われていたようです。ある日、親指と小指を出されたので2元を渡すと、また親指と小指を出されて……。何のことか解らず開き直って「ドゥサオチェン?(いくら?)」と聞きただすと、市場の人に大笑いされました。
こうした当たり前の日常が、家もろとも壊されていこうとしていました
古くて味わいのある家に愛着があったのはもちろんですが、市場経済最優先でそこに暮らす人の生活や土地への思いも家並みもろとも、暮らす人の思いは考慮されずにまるで力づくでおしつぶされていくことに強い違和感を抱きました。
この家を写真に残そうと決めました。生活のスナップではなく家やそこでの生活や時間や私達と家の「関係」を残すために。残された時間で沢山の写真を撮りました。その中でももっとも見る人に印象の強い作品は、外壁が半ば壊され中庭に工作機械が入り、今にも全てが壊されそうな瞬間に、家の門の上に盛られた白いカサブランカの花の間に座るふたりが映り込んだ作品でしょう。
(写真)LiuLiTun 2002 No.5
モノクロの上に浮かび上がるカサブランカの白と、まだ若いふたりの深い哀しみをたたえたまなざし。鎮魂に満ちたこの作品はおそらくダイレクトに怒りを表現すること以上に深く心を揺さぶり、背景に起きている現象の本質を考えさせる。
この現実に対して、私たちはまったく無力な存在でした。ただ目の前の惨事を受け入れるしかない。しかし、受け入れられる状況ではなかった。動揺して何をしたらいいのかわからない状況で、写真を残すことだけが自分たちの道でした。
取り壊しのすべてが手作業で行われていました。数名の人間によってこんなにも簡単に家が壊れるものかと目を疑っている、その瞬間にもがたがたと家が崩されていきました。これまで自分たちの生活を守ってくれていた家が今、無惨に壊されてゆくことへ哀感と無念の思いが入り交じり、ひたすらに撮っていました。
門の上で撮った写真は、あの時私たちが家に対してできる行為のすべてでした。この写真を残せたことで、私たちは最後にこの家と本当の「関係」が持てたと思います。あの写真を撮ってすぐにすべてが取り壊されました。
この関係の意味を私たちが認識したことで「私たちの写真」の必要性について考える機会が生まれました。
これを機会に私たちの作品は外の世界から内の世界へ、自分たちの生活を基本とした展開に変わってゆきました。
このシリーズは中国国内よりむしろ国外で高い評価を受けている。
実際に国内ではこういった現実はあまり受け入れたくないという人が多いでしょう。私たちは作品を通じて政治批判をしているわけではありませんが、生活がある以上社会との関わりは不可欠です。私たちが共作を始めた2000年頃から中国が怒濤の発展を続けている状況から、その渦中で私たちが何をしてきたのか。それそのものが私たちの作品となって現在も展開しているのだと思っています。
(写真)当時の798工場・大窯炉空間 / 提供:三影堂撮影芸術中心
北京のアートシーンの中心・798芸術区は、1950年代、中国解放軍が旧ソ連・旧東ドイツに提供する軍事品を製造する「798工場」だった。今では工場をリノベーションしたギャラリーが100軒以上も集まる芸術区となり、北京の観光スポットにもなっている。
2002年当時、798工場地区は工場跡地と稼働中の工場とが混在し、賃貸料の安さや広い空間を求めるアーティスト達がアトリエを作りはじめた頃で、その中にギャラリーはまだ1軒しかなかった。
私たちが2002年に開催した展覧会は798工場地区で初めて開催された個展の展覧会として記録されています。当時まだ海外での中国現代アートブームは始まっていませんでしたので、この規模で独自に個展を催すアーティストはほとんどいませんでした。
ふたりの個展の企画については、先に巫鴻先生に相談していました。
巫鴻先生はシカゴ大学の教授で、考古学者でしたが現代アートの研究もされていて、当時すでに著名なキュレーターとして活躍されていました。彼はロンロンが無名の時代から注目してくださっていて、当時六里屯の近くに住んでいたこともあり、私もお会いする機会がありました。
ふたりで一緒に制作した作品を初めて見せたのが、『富士山』のシリーズです。すばらしいと言ってくださって、それ以来ずっと私たちの作品に注目してくださっていました。彼がこの展覧会のキュレーションを承諾してくださったので、私とロンロンとふたりで開催場所探しを始めました。
ふたりの作品を総合すると相当な量になるので、大きな空間が必要でした。当時北京で作品を展示できる会場は限られていました。はじめは美術館や大きな展示会場を持つ不動産会社系の空間などを訪ねてまわりました。空間や会場側からの要望の問題もありましたが、展示する作品の内容についても理解が得られず、結局すべて断られました。
その後自分たちで展覧会を開催すること、つまり会場側の主催ではなく費用も企画も全てを自分たちの責任で展開してゆくことに決めました。場所探しの方針も変えて、倉庫のような空間にしぼって、さらに1ヶ月ほど探しまわりました。
たまたまロンロンが 新聞で798工場の賃貸広告を見つけ、すぐに連絡して見に行きました。帰ってきた彼はほとんど言葉を失っていました。
「すごい場所があった。ただしすごすぎて展覧会ができるかどうかわからない」
と言う彼と、そのあとすぐに一緒に見に行きました。
その場所は昔大きな窯があった空間で、そのために建物の中央部の床が赤土になっていました。5000平米の荒涼とした空き家には、高さ15メートルの天井に残された古いガラス窓から柔らかな光が漏れていました。私たちはその空間に圧倒されつつ、なんとかこの場所で展覧会をしたいと願いを固めました。
ここからが大変なことになる。規模の大きな展覧会を自費で開催するために必要な費用は、10年近く前の中国とはいえ、日本円で当時600万円に及ぶものだったのだ。
費用の問題を考えただけでも事の無謀さに頭を抱える状況でした。しかしその頃は不動産会社が経営する『遠洋芸術中心』という芸術センターが、国内初の民間のハードウェアとしてやっとできたような時代で、北京では限られた内容の展覧会しか開催されていませんでした。ただ待っていても自分たちの作品を発表できる機会はこないので、自分たちの力でなんとか機会をつくりださなくてはという必死の思いがありました。
この年、北京で初めての公的な芸術祭「北京ビエンナーレ」が開催されると巫鴻氏から連絡があり、ふたりは個展の開幕日をその前日の9月18日に決め、いよいよ展覧会が実現に向けて動き始めた。
開幕まで1ヶ月もないという状況で、先立つものも全くないまま、家をスタジオ化し、作品の制作を開始しました。家に居候していた彼の甥っ子に手伝ってもらい、同じく居候していた彼の妹にお金を借りて準備を始めました。しかしすぐに回らなくなり、考えあぐねた結果、当時ウーレンス(ベルギーの著名コレクター夫妻)基金の会長であった費大為氏に相談することにしました。
彼らは以前から私たちの作品をコレクションしていました。富士山のシリーズの大きい作品をこの展覧会で制作したいので買い取ってもらいたいと申し出をしたところ、
「いくら必要か」
と聞かれたのです。(次回に続く)
(写真)当時の798工場・大窯炉空間 / 提供:三影堂撮影芸術中心
(写真)Tui-Transfiguration. The Image world of RongRong & inure 提供:三影堂撮影芸術中心
2002年8月、翌月に展覧会を開くと決めたふたりは資金を捻出するために、世界的コレクター・ユーレンス夫妻に『富士山』シリーズの買い上げを打診したーー。
作品の値段を決めていなかったので、とりあえず「展覧会に必用な経費が30万元だ」と答えました。それから数日後、当時ユーレンス基金の中国代表であった費大為(フェイ・ダーウェイ)さんから返事がありました。夫妻が了承したと。
なんとか崖っぷちで踏みとどまることができたことに、大変感謝しました。
大詰めに入った展覧会の準備が、連日徹夜で行われました。
展覧会の準備は恐ろしいペースで進められ、開幕前に作品の大半はなんとか展示が終わった。しかし、全長30メートルに及ぶ富士山のシリーズは最後の最後まで届かなかった。
開幕当日の9月18日午後。
閉ざした門の外には開幕を待つ人達がすでに集まっていました。
5時半の開幕までもう間がないという時になって、会場に2台の大型トラックが横づけされ、中から20名近い労働者が一気に降りてきました。その中に『富士山』の大型ライトボックスのフレームを制作してくれた会社の社長がいました。彼は、
「遅くなってすまない」
と言いました。私たちは、
「間に合ってくれてありがとう」
と、ほとんど泣き声に近い声で答え、すぐに最後の作品の取り付けにかかりました。この作品は、規格外の大型サイズのライトボックスに更に大きな木枠をつけた仕様で、一点約200kg。それを15メートルの高さの天井から16点吊るすのに、1時間弱。さすがの人海戦術を目の当たりに見ました。
(写真)Tui-Transfiguration. The Image world of RongRong & inri 提供:三影堂撮影芸術中心
作品の設置がようやく終わった。2500平方メートル大空間。元工場という荒涼とした独特の空気感。そこに、ふたりが出会う前のそれぞれの時代の作品を対比させ、そして2000年以降開始したふたりの共作シリーズへの流れをまとめた200点近い作品が、ダイナミックに展示された。
同時に外で開幕を待つ人たちを中へ迎え入れた時、すでに予定より30分以上遅れていた。
まず建物の中心部に無理矢理こじ開けたような小さな入り口を抜けると、突然広がる大空間に、みんながあっけにとられました。作品は地面に埋められた2メートル40センチあるガラスを壁に楕円の流れに展開する、ふたりが出会う以前の作品『東村』『MAXIMAX』『1999 東京』『Gray Zone』の4シリーズ。さらに、天井から吊るされたロンロンの『廃墟』のシリーズ、『富士山』のシリーズ。
そして、傍らにつづくそれぞれのセルフポートレイトのシリーズなど、どこからどういう流れで見るかで作品との関わりが変わってきます。観客が作品の世界に入り込んで体感してくれていることがよくわかりました。
代理のギャラリーも入らず、入ったお金は全て費用と消えて、友達からはこんなことをして本当にクレイジーだと言われましたが、多くの来客の反応をみて私たちはとても満足でした。
当時の現代アートを巡る状況はというと、海外では「中国」を主題とした大規模な展覧会がたくさん企画されていました。
ロンロンの場合も、まず海外で作品が認められ、海外の展覧会に出品するようになりました。というのも、ロンロンが90年代に撮った『東村』シリーズは、当時国内での展示や発表は不可能と言われていたのです。海外の展覧会に出品する機会を通して、彼の作品をコレクションしてくれる美術館や個人コレクターも、少しずつ増えていきました。
その頃の中国現代アートの表現は、主体は絵画でした。写真表現は少なく、写真家として芸術活動をしている人は、ロンロンのほかに数人しかいませんでした。写真芸術への関心や理解がない中、彼らはそれでもあきらめずになんとか自分たちの道を切り拓こうとしていました。
この時、だれもまだ取り組んでいなかった大規模な個展の開催に踏み切ったのは、徐々に、だが確実に現代アートを取り巻く状況が変化していることを敏感に察知したふたりの、アーティストとしての表現のあり方への挑戦だった。
(写真)Tui-Transfiguration. The Image world of RongRong & inri 提供:三影堂撮影芸術中心
そのような困難な状況を乗り越え、現在では現代写真に対する認識度は高まりつつあります。
時代の流れも影響し、足場も価値観も定まらなかった写真芸術が「中国の現代アート」として、まず海外で展示される機会を得ました。そしてもともと中国の作家たちが持っていた飛躍的な感性から独特の表現へ発展した作品が、現代アートとして認められ、それが国内に逆輸入されてきたような感じですね。
9年経った今でも、三影堂を訪れるゲストであの展覧会の印象を語ってくれる人がいることに驚きます。作品や、それを展示する機会さえも大量に消費される時代となっても、印象深い展覧会として覚えてくれていること自体が奇跡です。でも彼らの多くは当時私たちのことを知らなかったと思います。今になって「あの時、実は僕も展覧会を見に行ったんだよ」などと言われることがあります。Sアルル国際写真フェスティバルのディレクター、フォンソワもそのひとりでした。
展覧会以後、この場所に注目する人達が増え、その後この旧工場は、798芸術地区を代表する芸術空間『ユーレンス現代美術センター』となった。
これからもあの場所は798の行方をにぎるキーポイントであり続けるでしょうね。
(写真)Tui-Transfiguration. The Image world of RongRong & inri 提供:三影堂撮影芸術中心
(写真)当時の望京の街並み
一緒になってからずっと、めまぐるしい変化の中にあり続けるロンロン&インリ。
自分たちの生活を振り返る余裕などなかったが、考えてみればあの時から現在まで、家の中にふたり以外のだれかが住んでいなかったことはないという。
神奈川県の横須賀で両親と2歳半違いの姉の4人家族という典型的な核家族として育ったインリにとって、福建省生まれの彼の家族観念は驚くべきものだった。
2000年に北京に初めて来たとき、ロンロンが住んでいた六里屯の家にはほかにも友だちが住んでいました。猫もたくさんいました。その後、私がひとまず日本に帰った頃、田舎から出てきた彼の甥っ子が一緒に暮らすことになりました。しばらくすると、六里屯の家が取り壊しになり、北京北東部の望京にアパートを探しました。
アパートに住みはじめてすぐに、今度はロンロンのすぐ下の妹が小学校にあがらないくらいの年の姪っ子を連れて上京してきました。さらに、しばらくすると、北京市の西部に住んでいた末の妹も私たちのアパートに移り住んできましたので、一時はけっこうな人数が家に住んでいました。
当時の生活は海外でのロンロンの作品の販売にほぼ頼っていました。毎月4500元(日本円で約6万円)の家賃を払うのさえやっとで、家族6人の生活をまかなうのは大変でした。
末の妹は証券会社に勤めていました。28歳でしたが、うちの稼ぎ頭といっていいくらいよく働く人でした。陽気で責任感が強く、いつも人の面倒を見ているような人です。北京は広いので西の金融街から北東の望京まで通勤にバスで片道1時間半はかかります。よく地方に出張にも行っていました。会社帰りに市場で海鮮などを買ってきてくれることもありました。彼女も稼いだお金を相当家族の生活費の為に使っていたと思います。
(写真)当時の故宮 撮影:ロンロン
好むと好まざるとに関わらず、大家族の波にのみ込まれているインリ。
現状はともあれ、大勢での暮らしにはそう簡単には慣れませんでした。毎日近くの市場へ買い出しに行くのが私の日課となりました。
買い出しには旅行バックみたいな大きな袋をもって出かけます。肉だの野菜だの果物だの豪快に買っていました。肉と言っても日本で買うようなパック入りのものは市場にはありません。大きな固まりを丸ごととか豚のリブ肉を半頭分とか大腿骨。とか、これは煮込みスープ用ですけど。
一度荷物持ちのために買い出しに甥っ子を連れて行ったら、あまりにも大量に買い込んでいる姿を出店の人たちに笑われて、それ以来 一緒にきてくれなくなりました。
部屋はエレベーターのないアパートの6階にありましたので、毎日階段を往復しました。望京では六里屯での庭を中心としたのんびりとした生活感から一気に都市化してしまいました。
自分達のことだけでも忙しいのに、大家族の食事の準備に格闘する毎日。
しかも、東京ではいい加減な食事しかしていなかったインリは、朝昼晩きっちりしっかりと食事をとる彼らの習慣に戸惑う。
食べることは生活の基本だとこの機会にしっかり学びました。
朝は消化に良いものを、でもちゃんと食べなければなりません。まずそこから始まって、夜食には妹たちに教えてもらいながら骨肉に漢方薬を入れ2時間くらい煮込んだスープを毎日つくりました。学んだことも多かった反面、おかれた状況に対しては、なんでこんな大変なことになってしまったんだろうと思っていました。家族の問題ではロンロンともよく言い合いになってました。
都心の核家族育ち、しかも日本人のインリには、性格的にかなり繊細な面がある。大勢の他人を受け入れていけるようになるまでに、どうやって自分を開いていったのかーー。(後編に続く)
(写真)当時の映里