第8回 家と家族(前編)

2016年8月23日 / ロンロン&インリ



(写真)当時の望京の街並み


一緒になってからずっと、めまぐるしい変化の中にあり続けるロンロン&インリ。
自分たちの生活を振り返る余裕などなかったが、考えてみればあの時から現在まで、家の中にふたり以外のだれかが住んでいなかったことはないという。
神奈川県の横須賀で両親と2歳半違いの姉の4人家族という典型的な核家族として育ったインリにとって、福建省生まれの彼の家族観念は驚くべきものだった。


 2000年に北京に初めて来たとき、ロンロンが住んでいた六里屯の家にはほかにも友だちが住んでいました。猫もたくさんいました。その後、私がひとまず日本に帰った頃、田舎から出てきた彼の甥っ子が一緒に暮らすことになりました。しばらくすると、六里屯の家が取り壊しになり、北京北東部の望京にアパートを探しました。
 アパートに住みはじめてすぐに、今度はロンロンのすぐ下の妹が小学校にあがらないくらいの年の姪っ子を連れて上京してきました。さらに、しばらくすると、北京市の西部に住んでいた末の妹も私たちのアパートに移り住んできましたので、一時はけっこうな人数が家に住んでいました。
 当時の生活は海外でのロンロンの作品の販売にほぼ頼っていました。毎月4500元(日本円で約6万円)の家賃を払うのさえやっとで、家族6人の生活をまかなうのは大変でした。
 末の妹は証券会社に勤めていました。28歳でしたが、うちの稼ぎ頭といっていいくらいよく働く人でした。陽気で責任感が強く、いつも人の面倒を見ているような人です。北京は広いので西の金融街から北東の望京まで通勤にバスで片道1時間半はかかります。よく地方に出張にも行っていました。会社帰りに市場で海鮮などを買ってきてくれることもありました。彼女も稼いだお金を相当家族の生活費の為に使っていたと思います。


(写真)当時の故宮 撮影:ロンロン


好むと好まざるとに関わらず、大家族の波にのみ込まれているインリ。

 現状はともあれ、大勢での暮らしにはそう簡単には慣れませんでした。毎日近くの市場へ買い出しに行くのが私の日課となりました。
 買い出しには旅行バックみたいな大きな袋をもって出かけます。肉だの野菜だの果物だの豪快に買っていました。肉と言っても日本で買うようなパック入りのものは市場にはありません。大きな固まりを丸ごととか豚のリブ肉を半頭分とか大腿骨。とか、これは煮込みスープ用ですけど。
一度荷物持ちのために買い出しに甥っ子を連れて行ったら、あまりにも大量に買い込んでいる姿を出店の人たちに笑われて、それ以来 一緒にきてくれなくなりました。
 部屋はエレベーターのないアパートの6階にありましたので、毎日階段を往復しました。望京では六里屯での庭を中心としたのんびりとした生活感から一気に都市化してしまいました。

自分達のことだけでも忙しいのに、大家族の食事の準備に格闘する毎日。
しかも、東京ではいい加減な食事しかしていなかったインリは、朝昼晩きっちりしっかりと食事をとる彼らの習慣に戸惑う。


 食べることは生活の基本だとこの機会にしっかり学びました。
 朝は消化に良いものを、でもちゃんと食べなければなりません。まずそこから始まって、夜食には妹たちに教えてもらいながら骨肉に漢方薬を入れ2時間くらい煮込んだスープを毎日つくりました。学んだことも多かった反面、おかれた状況に対しては、なんでこんな大変なことになってしまったんだろうと思っていました。家族の問題ではロンロンともよく言い合いになってました。

都心の核家族育ち、しかも日本人のインリには、性格的にかなり繊細な面がある。大勢の他人を受け入れていけるようになるまでに、どうやって自分を開いていったのかーー。(後編に続く)


(写真)当時の映里




Inri

投稿者について

Inri: アーティスト 北京在住 1973 神奈川県生まれ 1994 日本写真芸術専門学校卒業 1994-97 朝日新聞社出版社写真部委託勤務 1997 フリーランスとなり自主作品制作に専念 2000 榮榮と共作開始 2001 オーストリア連邦政府のレジデンスプログラムに参加 2006 北京に三影堂撮影芸術中心を創設