第5回 2002年・シリーズ「六里屯の家」のこと

2016年8月23日 / ロンロン&インリ



(写真)LiuLiTun 2003 No.1


 2001年 銀座の資生堂ギャラリーで開催された「亜細亜散歩」展のためにロンロンが来日。私たちは日本で入籍しました。
 ロンロンの資生堂ギャラリーでの展覧会のあと、大阪で私の個展があり、その後すぐにロンロンがオランダの写真祭に参加するので一緒に出かけ、9月からオーストリア政府のレジデンスにふたりで3ヶ月間滞在しました。
 この年はほとんどの時間を海外で過ごし、年末に北京に戻ることになります。私の北京での居住生活はその時から始まったといえます。
 当時北京市内はといえば、まだ今のような近代的な高層ビルはなく、北京の伝統的な住居である四合院づくりの家が立ち並ぶ一角があちこちにありました。ロンロンと暮らし始めた六里屯の家は30年くらい前に出稼ぎの農民たちのためにつくられた居住区で、15平米くらいの部屋と台所とトイレが三方から中庭を囲む、四合院風のつくりの家でした。そのころ村の掲示板に2008年のオリンピック北京招致成功!のニュースが書かれて、オリンピック招致に国が沸き始めていました。

その後、北京市街地は急速な再開発が進み、広範囲で家屋の取り壊しが執行され、町中が空爆を受けたような悲惨な状況になった。

 12月の末にヨーロッパ滞在を終えて北京に戻ってきた時のことです。
 空港からタクシーで六里屯の家に戻ると、家に近づくにつれ、あたりの景色が一変していました。
 六里屯は北京東部の朝陽公園という大きな公園の南側にありました。以前あったはずの町並みは、私たちの家のある一角を残して、道を挟んだ隣の区画まですべてが取り壊されていました。車の中からその信じられない光景を見ながら、まだ残っていた家を見たときの安堵感。今でも忘れられません。
 このエリアも高層マンションを建てるための取り壊しが始まっていたのです。



(写真)LiuLiTun 2003 No.18


ロンロンは、92年に福建省から上京し住居を転々としたあと、まず北京東部の東村にたどり着いた。東村は当時もっとも家賃の安い村で、上京したての若い貧乏芸術家が数名住み着いていた。後にアーティスト村・東村として知られるようになる。その東村が撤去されアーティストが散り散りになった時から、この六里屯の家に住み続けてきた。

 六里屯に住み始めたばかりの頃は、朝起きると朝ごはんの支度ができていました。ロンロンが近くの市場で麺と野菜を買ってきてつくってくれるんです。
野菜と貝類を炒めていれるだけの簡単な麺ですがとてもおいしい。ツォンという長い貝をショウガで炒めて土鍋に麺を茹でておいて、スープごと合わせます。 毎日同じ麺ですが、自然感のある家のつくりや庭の天井をすべて覆うほど茂っていた葡萄蔓からの木漏れ日の美しさや、見慣れない北京の色彩感などがすべて新鮮に輝いていて、「中国の麺って、素敵」と思いながら食べていました。
 近くの市場へは、私も毎日のようにお使いに行っていました。新鮮な野菜や卵がほんの数元も出せば手に入るので、お金はなくて貧乏でしたが生活はできました。
 はじめは中国語がまったく話せず、市場で買い物をするのに指だけで「これ」とか「何元」とか交流していたので、しばらくは口がきけない人と思われていたようです。ある日、親指と小指を出されたので2元を渡すと、また親指と小指を出されて……。何のことか解らず開き直って「ドゥサオチェン?(いくら?)」と聞きただすと、市場の人に大笑いされました。
 こうした当たり前の日常が、家もろとも壊されていこうとしていました
 古くて味わいのある家に愛着があったのはもちろんですが、市場経済最優先でそこに暮らす人の生活や土地への思いも家並みもろとも、暮らす人の思いは考慮されずにまるで力づくでおしつぶされていくことに強い違和感を抱きました。
 この家を写真に残そうと決めました。生活のスナップではなく家やそこでの生活や時間や私達と家の「関係」を残すために。残された時間で沢山の写真を撮りました。その中でももっとも見る人に印象の強い作品は、外壁が半ば壊され中庭に工作機械が入り、今にも全てが壊されそうな瞬間に、家の門の上に盛られた白いカサブランカの花の間に座るふたりが映り込んだ作品でしょう。



(写真)LiuLiTun 2002 No.5


モノクロの上に浮かび上がるカサブランカの白と、まだ若いふたりの深い哀しみをたたえたまなざし。鎮魂に満ちたこの作品はおそらくダイレクトに怒りを表現すること以上に深く心を揺さぶり、背景に起きている現象の本質を考えさせる。

 この現実に対して、私たちはまったく無力な存在でした。ただ目の前の惨事を受け入れるしかない。しかし、受け入れられる状況ではなかった。動揺して何をしたらいいのかわからない状況で、写真を残すことだけが自分たちの道でした。
 取り壊しのすべてが手作業で行われていました。数名の人間によってこんなにも簡単に家が壊れるものかと目を疑っている、その瞬間にもがたがたと家が崩されていきました。これまで自分たちの生活を守ってくれていた家が今、無惨に壊されてゆくことへ哀感と無念の思いが入り交じり、ひたすらに撮っていました。
 門の上で撮った写真は、あの時私たちが家に対してできる行為のすべてでした。この写真を残せたことで、私たちは最後にこの家と本当の「関係」が持てたと思います。あの写真を撮ってすぐにすべてが取り壊されました。
 この関係の意味を私たちが認識したことで「私たちの写真」の必要性について考える機会が生まれました。
 これを機会に私たちの作品は外の世界から内の世界へ、自分たちの生活を基本とした展開に変わってゆきました。

このシリーズは中国国内よりむしろ国外で高い評価を受けている。

 実際に国内ではこういった現実はあまり受け入れたくないという人が多いでしょう。私たちは作品を通じて政治批判をしているわけではありませんが、生活がある以上社会との関わりは不可欠です。私たちが共作を始めた2000年頃から中国が怒濤の発展を続けている状況から、その渦中で私たちが何をしてきたのか。それそのものが私たちの作品となって現在も展開しているのだと思っています。


Inri

投稿者について

Inri: アーティスト 北京在住 1973 神奈川県生まれ 1994 日本写真芸術専門学校卒業 1994-97 朝日新聞社出版社写真部委託勤務 1997 フリーランスとなり自主作品制作に専念 2000 榮榮と共作開始 2001 オーストリア連邦政府のレジデンスプログラムに参加 2006 北京に三影堂撮影芸術中心を創設