日中すれ違い4 「民間ビジネスなら、日中相互無関心を突破できる」 BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第3週

2016年9月11日 / 日中すれ違い


 
訪日団の企業家たちは、日本企業の真面目さに驚いてくれる


 「日中関係は今後どうなりますか?」最近こういうことを聞かれる機会がまた増えてきた。直近に2010年の漁船衝突事件などのような目に見える事件が起こったわけでもないし、日中首脳間は会うようにはなったが、特別な和解が成立したというわけでもない。

 日中両国民が日中関係の未来を憂え始めている理由は、何かが起こったからではなく日中関係の改善に向かうようなことが“何も起こりそうにない”ことだ。日中関係は前にも後ろにも進まない硬直状態に陥った。これは企業人の立場で考えてみれば、中国ビジネスの今後をどう考えたらよいのかを非常に悩むような事業環境になっているのだと言える。

 日中双方とも表面的に国情は安定化している。日本は安倍政権の長期化が見込まれ、政権内で表立って異論を唱える人が少ないため、大きな政策変化が見込めなくなった。そして中国も同様に習近平氏の権力基盤が強固になってきており、足元で中国経済が覚束なくなって構造改革が求められているにもかかわらず、思い切った政策は意外に出てこない。日中双方とも今は大きな手が打てない、このことも日中関係の硬直化につながっていると思う。

 日中関係が近未来に劇的に良くなると予測する人はあまりいない。隣国する大国同士がいがみ合うのはいつの時代にもあることだし、外交的な対立は自国民に説明がつかなければ安易に妥協はできないからだ。しかし戦争のような行為は、双方にも周囲にも大きな悲劇をもたらすのでおそらくあり得ない。だから対峙する国同士のトラブルは、戦争以外の手段で何らかの落とし所を見つけて妥協するしか解決の道はない。
 日本人は、日本の政治体制の方が優れているに決まっていると思っているし、一方の中国人はと言えば、国内にある様々な問題はある程度認識しつつも、高度成長を遂げて既に経済規模で日本を追い抜いたし、世界での存在感もある面では日本を上回った。だからもう日本からあれこれ言われたくない。

 筆者の住む北京では今年の9月初旬、抗日戦勝記念と称した軍事パレードが行われた。こういう国家行事があると北京はとても住みにくい街になる。政府の都合で交通などがいたるところで制限され、商店も休業を余儀なくされる。
 北京市民はこういう事態をどう思ったのだろうか。どうも「何も考えない」という態度を決め込んでいたようだ。日常生活が不便になるのは内心では面倒だと感じているが、だからといってお上のやることにいちいち逆らう必要もない。富裕層などは休みになるのを利用して北京を離れて旅行に行ったりしていた。要するに大半の北京市民は、こういう行事に対して基本的に無関心であり、同時に過去の日本との関係に対しても今は徐々に関心が薄れてきているのではないだろうか。
 では在北京の我々日本人はどうかと言えば、テレビや看板に頻発する「抗日」の文字に本当にうんざりした。我々は中国に来ている客人であり、中国のGDPに貢献をしているはずなのに、なんでこんな扱いを受けるのかと思った。

 日中関係の悪化は、日中両国の相手に対する無理解が原因だとずっと言われてきた。しかし中国は経済大国化して国際的なプレゼンスが拡大し、日本企業も製造拠点をコストが低い東アジアに移転するいわゆる「チャイナ・プラスワン」戦略に移行しつつある。長く続いた日本のODAも基本的に終了した。日中両国民は「相互無理解」のレベルを超えて「相互無関心」の時代に入りつつある。

 日中の国民やビジネスマンは、そろそろ相手国に対して新しい付き合い方を見いだしていかなければならない時期に来たのではないか。極論を言えば、日本人は中国人を無理に「理解」する必要はないが、中国人の思考回路を「認識」するということに徹すれば何か道が開けるかもしれないということだ。
 そこで中国人の思考回路を「認識」してみると、あることに気がつく。それは民間企業のビジネスの世界であれば、中国人と充分につき合っていけるかもしれないということだ。既に戦後70年もたち日中ビジネスを担う世代はほとんど入れ換わった。実際のビジネスにおける商談の場では、今や中国人でも民間企業の人は政治的な話題はほとんど口にしなくなった。何故ならビジネスの現場では明らかに共通の目標があるからだ。
 中国政府も最近、経済成長の減速を受けて民間資本の活用とか民間企業のイノベーションといった言葉を連発し始めた。中国経済には巨大な国有企業が主導するイメージが強いが、いわゆる国有経済が全体に占める割合は半分以下である。中国経済は、少なくとも量的な観点で言えば民間企業が主役なのである。

 その民間企業が中国経済の減速に直面して、ようやく外に目を向け始めたようだ。筆者はここ数年の間に、中国の企業家倶楽部の依頼で日本の大企業への訪問を何度もアレンジさせていただいた。彼らは日本が世界にも冠たる長寿企業国であることを知り、企業の事業継続の秘訣を勉強したいと考える。また訪日中国人から伝え聞く日本企業のサービスレベルの高さにも大きな興味を持つようになってきた。
 実際筆者が訪日団と同行してみると、日本に行くこと自体が初めてだという企業家が過半を占めるケースも多かった。そして彼らは日本に行き、日本企業のプレゼンテーションを聞いて一様に評価する。中国人の企業家は、日本の企業が細かな中長期的計画を立案して事業を展開していることに驚くのだ。

 また中国では、会社の事業について語れるのは限られたトップの人間だけであるが、日本企業は幹部だけでなく現場の管理職クラスに至るまできちんと会社の説明ができ、またそのための資料やスライドもしっかり準備されていることに感心してくれる。我々日本企業にとっては普通のことだが、中国の企業家に指摘されて、筆者も改めて見直したものだ。
 今中国の企業家は、自社の新しい事業領域での成長戦略を探ったり、グローバルに事業を展開したいと真剣に考えている。彼らにとっては、日本企業の計画的な事業戦略は極めて参考になるという。中国の民間企業家にとって日中関係というものは、事業環境のひとつとして多少は懸念されるものかもしれないが、少なくとも「政冷経熱」といった言葉のように政治と関連づけて考えるものでは既になくなっている。

 日中往来の歴史はとてつもなく長い。過去に学ぶ点がないとは言わないが、現代中国は、政治体制も世界の中でのポジションも過去とは大きく異なっている。現在の日本もしかりだ。だから近未来のビジネスでの成功のために、日中の民間企業が手を組むという選択肢は確実に拡がってきている。民間企業のビジネス交流は、硬直化した日中関係の突破口になる可能性が大きい。

文・写真:松野豊





日中すれ違い3 「変わった中国、変わらない中国」 BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第3週

2016年9月11日 / 日中すれ違い


 
中国のショッピングモールは、今やとてもおしゃれ(ま、外見だけですが・・・)


  日本人の中国観は、未だに十年一日の如くである。巷にあふれる日本人が書いた「中国人論」は別に間違っちゃいないけど、ちょっと古いなと思ってしまうことがよくある。中国は2010年にドル換算名目GDPで日本を抜いて世界第2位になったが、今では日本の3倍にも達そうかというぐらいの大差がついてしまった。GDPなんか一つの指標に過ぎないが、確実に言えることは「中国人は豊かになった」ということだ。

 現在中国の大都市に住んでいる人なら誰でも実感できることがある。それは「中国の物価が高い」ということだ。僕はたまに日本に行くと「日本のモノは何でも安い」と実感してしまう。北京でごく普通の小奇麗なレストランでランチを食べると50~80元ぐらいは平気でする。これは日本円で1000~1600円だ。北京でスーパーや衣料品店などで日常品の買い物をすると、300元(6000円)ぐらいは普通に支払わなければならない。もちろん円安の要因も大きいだろう。また格差の大きい中国社会だから10元で食べられるランチももちろんある。しかしこれとて200円だ。「中国って何でも安く買えるんでしょ?」という日本人の中国観は、もういいかげんに更新しなければならない。

 このように物価が高くなった原因は、中国人の給与が瞬く間に増えて多くの人が豊かになったからだ。中国では今、「中間所得層」と呼ばれる人たちが爆発的に増加している。野村総合研究所の調査によれば、中国で出現している中間所得層の人々は、これまでの「価格コンシャス」から「品質・安全コンシャス」に明らかに変化してきている。日本に大挙してやってきて爆買いする中国人は、富裕層ではなく中間所得層の人たちなのだ。中国の消費を支える中間所得層の人の中身は日本とは全然違う。まず年齢層が低く25~50歳が中心だ。そして驚くなかれ、中国の中間所得層は7割が家を持ち6割が車を持っている。そして何と3割もの人が家も車も持っているにもかかわらず、さらに平均60万元(1200万円)の金融資産を持っているのだという。

 日本のニュースでは、株が暴落して持ち金を失くした人、不動産価格が下がって資産を減らした人の姿などが報道されているが、北京や上海のショッピングモールにあふれる人々の購買欲は全然衰えていないように感じる。また中国は既にネット大国だ。中間所得層のスマホ普及率は9割近くにも達する。消費意欲の旺盛な人々がスマホで情報を比較し、質の高い商品を支付宝(アリペイ)などを使ってどんどん買う時代なのだ。大都市での中国人の暮らしぶりは、日本で想像する姿とはもう全然違う。

 それでも相変わらずなものがある。それは政治体制だ。実は政府の中でも行政の姿はかなり変わってきている。サービスの劣悪なお役所仕事は相変らずだが、それでもここ10年ほどで行政サービスはかなり改善されてきたと思う。だから政府のサービス機能は変わってきたと言える。

  しかし肝心の政治、つまり政府や党の体制や思考・行動原理は全然変わっていない。先日の「抗日なんとか軍事パレード」なんかは、北京市民の生活をどれだけ犠牲にして行われたことか。北京に住む外国人にどれだけの迷惑をかけたことか。中国政府はそんなことはまったくお構いなしだ。先進国ならまず損害賠償で訴えられるレベルだろう。国家行事を揶揄するつもりはない。しかし例えば赤じゅうたんの上を来賓たちが歩く記念式典を見ると、何十年も前の録画を見ているようだった。中国では政治がすべてに優先する。北京市民もそのことはよくわかっている。だから政府の言うことにはみんな大人しく従う。その従順ぶりは見事なほどだ。こと政治体制に関しては、中国は「変わらない国」なんだと思う。

 十年で大きく変わった中国、十年一日の如く変わらない中国。中国は、この2つが併存している国家だ。そしてこのアンバランスこそが現代中国の大きな特徴なのだ。しかし日本からみればそんな中国のイメージは全然想像できない。中国と聞けば政治も庶民も一体的に考えてしまう。日本にやってくる中国人が年間1000万人という時代になった。だから中国人の日本イメージはどんどん塗り替えられていく。それなのに、日本人が持つ中国のイメージは全然変わっていないのではないか。こうして日中のすれ違いは、ますます拡大していくのだろうか。

文・写真:松野豊





日中すれ違い2「曖昧な“日中交流会”からの脱皮」 BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第3週

2016年9月11日 / 日中すれ違い



北京に来てもう何百回も「日中交流会」に出たんだが。。。




 最近、日中の政治関係にやや雪解けのムードが漂う。何か妥協点が見つかったわけでもないのだが、お互いに必要とするものがあることは間違いない。ところで政治的関係が少し良くなるといつも出てくるのが「日中交流」という言葉だ。僕はこの言葉があまり好きではない。特にビジネスの話をしている時に使われるのと、その目的の曖昧さにいつも辟易する。

 「この分野は中国政府が力を入れているし、中国の市場も大きいので日本企業も関心が高いでしょう?両国の関係者を集めた交流会をやりませんか?」。交流会というイベントは通常、セミナー、シンポジウム、サミットのような会議体として設定されるが、その実内容は交流会的なものも多い。中国側だけの思い入れだけではなく、こういう話に乗ってしまう日本側の団体も少なくない。今でもごまんとある日中交流という名の行事、本当に成果があるのだろうか?

 僕がなぜこのようなことを言うかというと、今まで交流会という名の会議やイベントに参加して、ビジネス上の示唆とか実ビジネスにつながったという経験があまりないからだ。こんなことを言うと、「私は○○交流会で知り合った方とお付き合いが始まり、大きな商談ができた」と反論する人もいるだろう。確かに人を知る、友人を作るという効果はそれなりにあると思う。中国は人と知り合うことは大きな財産になるからだ。でも交流イベントの為に使った費用と労力を考えれば、企業として見た場合かなりコストパフォーマンスが悪いと思う。

 僕がこう喝破する背景には、最近の中国自身の変化がある。中国ビジネスにおいては、人件費のみならず事業全体のコストは高騰している。今やビジネスをする環境だと東京の方が安い場合だってある。また中国の産業界が求めるニーズも変わった。今や中国も「技術を持ってきてくれ」とは言わずに「エネルギーを消費せず環境負荷も少ない最先端の技術を持ってきてくれ」と言われる。さすがに対価は払ってくれるようになったが、それでも価格交渉は相変わらず厳しい。交流会で成果を出すハードルはますます高くなっていく。

中国は紛れもなくも経済大国であり、世界経済への影響力もハンパではない。だから中国側のニーズも戦略も大きく変わってきているのだ。ただ変わっていないのは「すべて政府が何かを決める」ということだけだ。だから日中交流会のような所にも、相変わらず中国政府の偉いさんがやってきて中国の政策を滔々と語る。中国側からみれば、交流会の格を上げるために政府高官が出席することが必須なのだ。そしてこうおっしゃる。「これは我が国の重点政策です。ぜひ日本企業に投資して欲しい」。もっとも最近ではこう言われることも増えた。「ぜひ日本や日本企業に投資したい」。

 日本企業の業績もとりあえずは好調だ、だから日本企業にカネがないわけではない。日本企業だって投資のチャンスを虎視眈眈と狙っている。だけど中国事業に新たな投資をするのだったら、まず本社の「中国本部長」クラスが評価することが必要だ。そのためには、もっと投資先の環境や内情を正確に伝えてくれる実質的な担当者の話が聞きたいのだ。

「政府の幹部が企業のトップに会えば話が決まる」と思っている中国側。「中国本部長の腹に入らない限り、物事は何も進まない」という日本側。しかしその媒介となるべき“日中交流会”は十年一日の如くの内容だ。

僕は交流会にもっと目的がはっきりしたテーマを与えたら良いと思う。例えば「環境技術売買商談会」、「中国有望チャネル買収情報交換会」、「アフター5サイドビジネスを語る日中ベンチャー企業の会」といった具合に。

今週末も何とかというサミットに出席する予定だ。僕はこういう交流会に出席していつも何かすれ違いを感じてしまう。「国家戦略とやらのややこしい条件がついた中国側からの事業提携ニーズ」と「以前よりも懐疑的かつ慎重になった日本側の事業提携ニーズ」は、すれ違ったまま交流イベントだけが進んでいく。もっと目的をしっかりもって日中交流会をやれば、日中でやれることは山ほどあるのに、と感じてとても歯痒い思いだ。

文:三宅玲子 | 写真:ファン





日中すれ違い1「日中ビジネスの温度差」 BBパートナーリレーコラム「日中コミュニケーションの現場から」第3週

2016年9月11日 / 日中すれ違い



(写真)温度が上がれば花は咲く ~清華大学の美しい藤棚~



 今年の4月は温度差には悩まされた。日本は桜が咲いたかと思えば雨が降って散ってしまい、その後4月だというのにオーバーコートを着るほど寒い日が続いた。ここ北京では、4月に入って急に温かくなりもう夏が来たかと思っていたら、急に寒さがぶり返した。日本と中国って、大陸の高気圧や低気圧を共有してるのだと改めて気がついた。大きな気象図でみれば、日中には温度差がないのだ。しかし政治、外交、ビジネスそして生活に至るまで、日中には温度差が結構ある。

 現在の日中関係をどうみるか。日本では、円安などで業績が大きく改善し史上最高利益の会社も結構あるのに、中国に対しては賃金上昇や外国企業への締め付けでちょっと熱がさめてしまい、東南アジアやインドなどに目が向いている感じだ。北京とかに旅行にいく人も少なくなり、旅行会社のツアーも激減してという。つまり日本では、ビジネスも生活も中国に興味がやや薄れてしまった感がある。

 一方中国はというと、メディア報道もお決まりの日本右傾化批判などが少し減ったような気がする。僕の周りにいる人たちには「日本行きた~い」ヒトが増え、僕が日本出張に行くと聞きつけると「魔法瓶と化粧品買ってきて」と頼まれる。中国人はすっかり政治と生活を分離し、安倍さんはキライだけど日本は大好き、なんて人が増えたようだ。

 ビジネスの世界の話をすると、日中企業の提携においては温度差があると言える。中国は「新常態」といって高度成長期の歪を修正し、構造改革をして安定成長に何とか向かおうとする政策が進められている。もっとも「新常態」は中国経済の減速をも意味するので、それ自体がビジネス機会をもたらすわけではない。重要な変化は、中国企業がこれまでの国内市場から海外に目を向け始めたことだ。
昨年中国は、対外投資が対内投資を上回り事実上の資本輸出国になった。中国企業がこれまでの高度経済成長で蓄積した富はすごいものがある。だから国内で一定の成功を収めた中国の企業家は、虎視眈眈と世界の投資先を探している。

 日中の企業提携の温度差をみれば、明らかに中国が高く日本が低い。日本だって円安にもかかわらず対外M&A金額などは史上最高レベルにある。だから別に日本企業の対外投資熱が低いわけではない。中国の企業家は、「中国は市場が大きく発展しているから、日本企業はみんな中国で事業をしたがっている」と思い込んでいる。ところが日本側はと言えば、提携や投資には意欲はあるものの中国と聞くとまず最初は身構える。中国企業との提携も、あくまで事業戦略上のひとつの選択肢に過ぎないと冷静だ。しかし中国人の友人は常々言う。「日本企業のマインドは内向きだ、ビジネス機会を理解しない」。

 しかし考えてみよう。こんなに情報化が進んだ現代でも世界のビジネス界では未だに会合やパーティが重視される。スマホのLINEやWeChat(微信)を使えば、会社、商品の映像そして相手方の話しぶりまでリモートで確認できる。しかし唯一わからないのは相手の人間としての“温度”だろう。

 我々日本企業は、やっぱりもっと人に会うことに貪欲になりたいものだ。言葉や手続きの問題などで中国人企業家に会うことに臆しているとしたら、とても惜しい。双方の国で得られる情報にはある種のバイアスがかかっているので、日中ビジネスの世界では、直接会っていろんな人の“温度”を感じることがとても重要だと思う。ビジネスの世界でもまさにBillion Beatsを感じなければならないのだ。

文・写真:松野豊





第1回:エリート大学の中の「日本」

2016年9月10日 / カイシャの中国人



(写真)お倉入りしてしまった石碑。うっすらと落書きのあとが……


 僕は清華大学の訪問学者をしている。といっても本職は経営コンサルタントなのだが、今は出向元の会社と清華大学が学内に設立した研究センターに勤務し、中国の産業や社会の政策を研究している。清華大学は中国の最高学府であるとはいえ、中身は政府機関のようだ。元来中国の大学は研究機関というよりは教育機関として位置づけられてきたので、「真理の追究、人類への貢献」というよりは「国家発展のための技術開発、政策研究」という色合いが濃く出ている。わかりやすく言えば国家のエリート養成所なのだ。
僕はここにきてもう4年半になる。その間、この国家を背負ったエリート大学でいろんな中国人(先生やスタッフ)を垣間見てきた。
 先日もある“事件”が起こった。我が研究センターは僕の所属する日本本社が建物の改修費用の一部を寄付したため、今いるビルの命名権をもらっている。命名権と言ってもまあ、「どこどこの会社が寄付しました、何月何日」といった類の石碑をビルの入口に置いてもらう程度のものだ。その石碑がようやくできて先日、玄関のところに設置した。

 ところが設置したその週末、その石碑に汚い落書きをされてしまった。「中国万歳!日本××~(いわゆる日本をののしる言葉)」と書かれてしまったのだ。僕はたまたま週明けの月曜日は大学に来なかった。月曜日の晩にスタッフから電話が来た。「松野さんの会社を記した石碑にひどい落書きをされました。今それを消しているところです。設置場所を“目立たない場所”に移した方がいいと思います」

お倉入りしてしまった石碑。うっすらと落書きのあとが……

 翌日火曜日、大学に行った。行く途中運転手に聞いてみた。僕の運転手はうちの研究センターの総務を兼ねていてオフィス関係のこともいろいろやってくれる。いつもなら車に乗るとすぐいろんな大学の出来事やうわさを教えてくれる運転手が、その日はなぜか寡黙だった。「うちのセンターの石碑に落書きされたんだって?」「え?ああ、そうそう。でもあの石碑デザインが悪いよ、作りなおした方がいい」「今、どこにあるの。見たい」「あ、もう倉庫に持っていってしまった」……なんか歯切れが悪い。僕に何か隠していることでもあるのかな。
 大学に着いた。「石碑、見せてよ」と僕が言うと、彼はしぶしぶ保安に言って倉庫の鍵をもらい僕を案内した。小さな物置のようなところにその記念の石碑は無造作に置かれていた。落書きはかすかに跡が見えるが、丁寧に消されていた。「何て落書きされたの?」「……」なんか小声で言われたけど、よくわからなかった。言いたくないようだった。そしてまた言った。「このデザイン良くないよ」

 オフィスのスタッフと協議した。「何で倉庫にしまったの?落書きを消せたんだからそのまま置いておけばいいじゃないの。ただの悪質ないたずらでしょ?」しかしスタッフは神妙な顔で言った。大学では以前にも日本企業の寄付で改修された建物に飾ったプレートにクレームがついたことがあるらしい。何とそのクレーマーはれっきとした清華大学教授で、ネットでその写真を公開しかつ学長に講義のメールを出したそうだ。だから今回の我々の石碑もネットなどで騒ぎにならないように、とりあえず倉庫にしまうことにしたそうだ。

 これを「事なかれ主義」ということもできよう。清華大学は社会問題化するのを極度に恐れる体質がある。私のいるオフィスの例がそうだ。このオフィスは改装前は寮として使われており、オフィスに改造するまでは一般人がたくさん“住んでいた”。なぜ大学の寮に一般人が住んでいたかはここでは紙面の関係で触れない。そしてそうした人を立ち退かせるために大学は保証金を払ったのだが、何とその金額に納得しない人がまだ居座っているのだ。つまり我がオフィスの一部分には、まだ未改装で立ち退きを拒否した人のスペースが残っているのだ。よく新聞などに出ているように、中国では強制立ち退きは日常茶飯事なはずだ。でも大学はそれをしないらしい。事を荒立てたくないのだ。

「事なかれ主義」以外にもうひとつ気がついた。たぶん僕にひどく気を使っているのだ。つまり僕の会社は寄付をしたのだから大学にとってはお客さんだ。今回の石碑落書きはそのお客さんに大変恥をかかせた、いや、というより中国人の醜い面を見せてしまった。松野さんはとても不愉快だろう、だからできるだけ僕を刺激せずに静かに今回のことを処理したい。

 中国人は個人としてつき合えば、純粋であけっぴろげだ。でも自分たちの恥となることについてはできるだけ隠したいという行動をとる。清華大学のれっきとしたエリートでも中国人はこんなことをするのか、と馬鹿にされたくない気持ちもあるのだろう。読者は意外に思うかもしれないが清華大学への寄付金合計で一番多いのは日本企業なのだ。だから日本企業は大事にしたい。僕のように中国に来てくれる日本人に不愉快な思いをさせたくはない。じゃあ堂々とこういうことはしないようにと大学に公示すればいいと思うのだけれど、そういうことはやれない。日本企業と蜜月であると思われるのは、それはそれで困るのだ。

 ひとりひとりの中国人は自分の経験と価値観をもとに日本人とつき合ってくれる。もちろん日本を快く思わない人もいるし、好きになってくれる人もいる。でも職場のような団体の中の一員になると、みんな日本に対して構えてしまう。

 日本人も同じ面があるかもしれない。職場で一緒に働いているのに、なぜか中国という“国家”と相対しているような気になってしまう。だから僕らは中国という“団体”とつき合うのではなくて“中国人”とつき合うべきなのだ。その心得がないとこの複雑で二面性を持つ中国を理解することはできない、僕はしみじみそう思う。



第2回:公私混同

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)普通の就業規則には、そこまで書いてない……


中国語で「公私混同」は「公私不分」と言うらしい。そしてこの反対語は「公私分明」と言い、これは“公私を分ける”という意味になるようだ。ところでこの中国語の「公私分明」に対応する日本語が思い当たらない。つまり、日本人は公私を分ける行為というのはある意味当たり前だから、特にそういうワードは作らなかったということになるのか。
 中国人とビジネスをしていて痛切に感じることは、「公私」の概念が僕たちとかなり異なるということだ。中国は社会主義の国だから、当初は会社といってもすべて国有だったので、衣食住全部の面倒を会社に見てもらっていた。だから「公私」の区別なんて特に考えなくてよかったのに、いつのまにか市場経済下で「私有財産」が一部認められるようになった。一番戸惑ったのは、外資企業で働くようになった中国人たちではないだろうか 

 「会社のものは、個人が勝手に利用したり持ち帰ってはならない」、「会社の業務時間内の私用は、上司の許可が必要」、「業務上の秘密を他社や友人などに口外してはならない」等々、当初外資企業で働いた中国人たちは驚いたことだろう。実は僕が上海で会社を設立したときに面食らったのは中国人のこの「公私混同」概念だった。会社の電話やパソコンを私用で使うぐらいはまだ許せるが、業務での出張なのに平気で日程を延ばして友人に会ってきたり、顧客の名前などを友人にべらべらしゃべったりするのには閉口した。極めつけは、退社する社員が会社支給の携帯電話の返還を渋ったことだ。「だって、この携帯には友人の電話番号がたくさんあって、これがないと次の会社で仕事ができません!」
 こんなこともあった。僕の中国人の友人が上海の虹橋空港から電話で「空港でタクシーの行列が長いから貴方の社用車を迎えに来させて!」と言ってきた。「え、それは大変だとは思うけど……うちの社用車だから君には回せないよ」と言うと、「貴方は老板、私たちは友達でしょ?」。この友人は以前にも「私の作った資料、貴方の秘書が空いていたら翻訳してもらえないかしら?」と頼んできたこともある。ああそうか、彼女にとっては僕の車(社用車)でも秘書でも、全部僕の意のままになる私有物に等しいという概念なのか。

 情報ソースは失念したが、以前、会社という概念についてのおもしろい調査結果があった。質問は「会社は誰のものか?」というものだ。答えた人は米日中のビジネスマンだ。米国のビジネスマンは「会社は株主のものです」と答え、日本のビジネスマンは「従業員のものです」と答える。ところが中国人の老板は圧倒的に「自分のもの」と答える。さすがに中国人も会社は“国家のもの”とまでは答えなかったようだが、要するに組織や団体は権力を持つ人間に属するものだという概念だ。

 これでわかった。要するに中国人には「公共空間」という概念が乏しいのだ。日本人は自分の家の前の道でも毎日きれいに掃除するが、中国では例えばビルの公共空間であるトイレや非常階段は放置されるのでとても汚い。「自分のものでも国や権力者のものでもないもの」について、ルールを決めて共同で管理するという社会的経験が乏しいのだと思う。

 いろんな例をあげてみたが、実は「ここは会社なのだから、公私混同するな」というだけでは中国人とうまくやっていけない。会社の業務規則とかコンプライアンスとかいうのを持ちだして厳格に守らせようとしても、もともとその理由が彼らの腹に落ちていないのだからちょっとしたことでもギスギスしてしまうだろう。では、僕たちはどう折り合いをつけていけばいいのだろうか。

 もし日系企業であれば、最初から業務規則やコンプライアンス規定を押しつけずに中国人社員も入れた共同作業で会社のルール作りをしてみたらどうだろう。会社は老板のもので、規則も老板がつくると思っている中国人でも、自らルール作りに参画するとなると否応がなしに公共空間という概念を意識することになる。もちろん公私混同を全面的に認めるようなルールになってはならないが、「私用携帯電話料金の上限設定」とか「取得リベート金額の届出制」ぐらいまではひょっとしたら踏み込めるかもしれない。

 でも肝心なことはだぶんその成果ではない。日本人と中国人が一緒にルールを作るという行為自体が、日中の文化ギャップを埋める試みとして貴重なのではないかと思う。ところで、業務規則までこのような日中協同プロセスで作った会社はあるのだろうか。もし良い事例をご存じの読者がいらっしゃれば、ぜひご教示願いたい。



第3回:結果主義

2016年9月11日 / カイシャの中国人

 結果主義。平たく言えば「結果がすべて。途中のプロセスや動機はどうでもいい」という考えのことだ。これは僕が会社の中国人を見て、そういう思考プロセスもあるんだ!と妙に納得してしまったことのひとつだ。いくつか例をあげてみよう。
 中国のある日系企業では昨今の不動産事情に鑑み、自宅を持っていない社員に家賃補助を出していた。いわゆる外地から来た社員は家が買えない場合があり、また会社のある都心に近いマンションだと家賃も高いので、通勤の便を考えて少しでも社員の生活を補ってあげようという主旨だ。日本だと会社が家主と直接契約(法人契約)してくれる場合もあるが、中国だと大家との契約が複雑だったり社員が転職すること多いので、この日系企業は毎月、給与とは別に家賃補助として現金を支給していた。

 ところがこの会社のある社員は、会社の近くのマンションに住んではいるのだが、家賃を払って捨て金になるぐらいならとマンションを購入してしまい、もらった家賃補助のお金を住宅ローンの返済に充てていたのだ。あるときこれが会社の知るところとなり、僕の友人(その会社の総経理)はその社員に言い渡した。「家賃補助として支給しているものを自分の資産になるローン返済に充てているのは規則違反だ。家賃補助を打ち切る」と。

 日本の会社の論理から言えば、家を借りていないのだから本来の補助金支給の主旨と異なるし、また住宅控除の税法等でも問題があるから当然の処置だと思われる。ところがこの社員は会社の措置に不満を訴えた。「確かに家賃補助という主旨とは違う使い方だが、実際に会社の近くのマンションに住んで通勤しているし、会社から現金でもらったものは給与と同じですから使途は個人の自由でしょう。だいいち私は会社には一円の損害も与えていないじゃないですか!」

 僕の友人は、この社員は高級管理職だったこともあって会社をやめてもらったと言った。でもこの話を聞いて僕は思った。確かに“結果的には”会社に損害も与えず、何の影響も与えていない。税法上の問題を除けば、彼の言い分もわからないではないと。

 もうひとつ例をあげよう。僕の親しい友人に中国の大手法律事務所のパートナーがいる。彼はあるとき僕にこんな話をしてくれた。「弁護士事務所に訴訟の依頼がきて、我々弁護士も全力で取り組んだが結果的に訴訟には敗れたケースがあったとします。しかしこのようなとき、日系企業と中国企業の場合ではクライアントの評価は180度違います」

 つまりはこうだ。日系企業は裁判の“プロセス”を重視するので、弁護士が法律と格闘し全力を出してくれれば、結果が敗退であっても「お世話になりました」と高く評価してくれる。ところが中国企業は違う。“結果的に”敗退したのだからかなりのクレームになるのだそうだ。「中国企業にとっては途中のプロセスはどうでもいいのです。要するに弁護士事務所に依頼するのは訴訟に勝つためだからです」

 だから中国の法律事務所で最も多くのクライアントが取れるのは「訴訟に勝てる弁護士」なのだ。「あんまり言いたくないが」とこの友人は言ってくれた。「腕のいい弁護士の要件は、法律の知識や解釈の力ではないのです。要するに人脈です。つまり裁判官や政府関係者と強い人脈を持っている弁護士が優秀な弁護士だとみなされます」。ここでも「結果主義」が如実に表れているではないか。

 そう言えば、中国の法律では1,000元以下のものを盗んでも窃盗罪にならない、つまり不問に処すということらしい。中国の刑法はかなりの部分、日本の法律を参考にして作られたと聞いたが、この部分だけはちゃんと中国式になっている。つまり窃盗そのものは悪い行為だ、けれども1000元以下だと“結果的に”損害を与えたとは言えないのでセーフなのだ。日本だと1円でも盗めば当然窃盗罪だ。中国式解釈はどこまでも現実的なのだ。

 しかしこうしていろいろ思い巡らすうちに、何だか日本の会社の規則が窮屈だと感じてきた。例えば日本では多くの会社で社員が退社後の時間であっても別の職に就くこと(兼業)を認めていない。本職の業務機密に関係する可能性があるとか、所得税の問題がややこしくなるとかが原因なのだろうか。じゃあ無償ボランティアだと問題にされないのは何故なんだろう。よくよく考えてみるとなぜ兼業がいけないのか僕もわからなくなってきた。“結果的に”会社に損害を与えなければいいはずで、そもそもオフタイムは給料に入っていないので自由じゃないかと思う。日本の会社は社員が法律を犯すリスクを最小化したいがために、社員の全生活プロセスにまで立ち入って干渉しているんじゃないだろうか。

 会社の中国人が時折感じさせてくれる「結果主義」の論理には問題もあるが、実はなかなか論破できないのではないだろうか。例えば領収書の水増しとか、発注業務にキックバックのお金を忍び込ませたりすることなどは、会社に実質の損害を与えるのでやってはいけないことだ、ぐらいはさすがにみんな理解している。常識的な中国人社員は当然職業倫理を持ち合わせているし、上述の家賃補助の目的外流用も決していいことだとは思っていないだろう。でも日本企業がなぜそこまで“プロセス”や“規則の主旨”にこだわるのか、彼らはやはり理解できないのではないだろうか。

 「結果主義」と「プロセス重視」。考えれば考えるほどこれはとても奥深い分析だと気がついた。『目的のためには手段を選ばず』という考えは、日本では軽蔑されるが、中国は必ずしもそうではない。そう言えば中国という国家の外交だって……。もう「カイシャの中国人」の範疇を越えてしまった。今回はこの辺でやめておくことにする。



第4回:罰金制度

2016年9月11日 / カイシャの中国人





中国の会社には、日本の会社ではあまりみかけない「罰金制度」というものがある。例えば会社に遅刻したら10元の罰金、販売用の商品を破損したら仕入れ値段の50%の罰金、といった類のものだ。中国企業における労務管理は、このような個人への懲罰制度があることが特徴だが、これとは逆に社員への報償制度の方もいろいろある。でも罰金制度は、日本企業にとってはあまりやりたくない労務管理手法ではないだろうか。
 日本の会社の報酬制度が個人の会社への貢献を総合的に評価して決まる仕組みになっている。例えば遅刻が多い社員にはマイナス査定がなされ、多くの売上げを達成した社員には高い評価点がつく。しかし遅刻した社員に対し口頭注意はするが、回数で定量化して給与を減らすような制度はあまりない。あくまで評価は総合的なのだ。もちろん営業現場などでは歩合性という評価基準がある。でもこれは会社の収益への貢献の「分配制度」であって、罰金制度のような会社への損害に対する補償金とは意味が違う。それに日本企業は、毎日毎日社員の行動を記録したり、現金が動いたりすることは不正の温床になったり、社員同士の関係がギスギスするのでやりたくないのだと思う。

 そう言えば、中国の「一人っ子政策」はこれに違反すると多額の罰金を払うことになっている。中国では国家の重要な社会制度でも、お金さえあればくぐり抜けられるということだ。だから、中国には「金で解決する社会」が見え隠れする。僕も上海の会社で社員の客先訪問の遅刻や出張申請の水増しに悩んでいたとき、財務課長に「罰金制度を採用しましょう」と提案されたことがある。でも僕はそうしなかった。客先訪問に遅刻するということは営業行為に大きなマイナスをもたらすし、必要日数以上に出張することは自分の仕事の生産性を下げるはずだから、結果的に個人の総合評価の査定に響くことがみんなわかるはずだと思ったからだ。

 しかし今改めて本稿を書いていて、中国企業の罰金制度には単なる個人の懲罰だけではない別の意味があるのではないかと思い始めた。例えば罰金制度は、「個人と会社の責任関係を明確化させる」制度なのだと考えたらどうだろう。10分の遅刻が罰金10元であるなら、遅刻した個人の会社への推定被害10元分を負担させるという意味になる。金額が大きければそれだけ会社への損害が大きいという意味になる。会社の器物を破損した場合などは、損害額が明確だからもっとわかりやすいだろう。

 日本企業だったら、業務中に誤って例えば1,000元の壺を割ってしまっても、罰金という形で責任を個人に帰することはあまりしないだろう。日本の会社は社員に滅私奉公を求め、個人は会社に従属する感じだ。社員の過ちは組織の過ちだとみなされる。しかし中国は違う。だから職場の中国人は常に個人の生活、個人の損得も意識する。僕は第2回:「公私混同」の稿でもこれに類することを書いた。

 でも中国の罰金制度には大きな弊害もある。以前、こんなことがあった。日本からの出張者と中国のレストランで食事をしているとき、若い女性の店員が誤ってテーブルから食器を落として割ってしまった。ちょっと凝った感じの高そうな食器だった。その日本からの出張者は、店員が謝ろうとしないことにひどく腹を立てた。思えば彼自身も店員の給仕を少し妨害した風でもあったのだが、日本だとともかくお客様には先に謝るのが筋だ。

 「まったく、なんで中国人は謝らないんだ!」しかし僕は彼に説明した。「仕方がない、ここで謝ることでもし原因がその店員にあると明確にされてしまったら、彼女は罰金を払わされるんだよ。薄給の彼女にとってそれは耐えられないことなんだ」。つまり、中国の罰金制度は個人と会社との責任関係を明確化してしまうがゆえに、このような場面では顧客に迷惑をかけたとか、ビジネスマナー云々の問題がすべて吹き飛んでしまうのだ。

 一方、罰金制度には良い面もある。ともかくお金で解決してしまうので、個人の損得はあっても感情にしこりが残らない。遅刻して罰金を払っても個人が「ああ、10元損した!」とちょっと反省し、くやしい思いをするだけだ。日本の会社だと何となく責任をあいまいなまま物事を処理し、またそのことが後々の個人評価にまで影響するから、かえって後々まででいやな思いを引きずってしまうのではないだろうか。

 罰金制度は数ある中国企業の労務管理手法のひとつに過ぎない。しかし職場の中国人を理解し、中国人をマネジメントする上でこの制度は何かヒントを与えてくれそうだ。いいアイデアを思いついた。「個人の会社の給与は先に多めの金額で決めておく。そして職務上のミスなどがあるとどんどん減額されていく」という労務管理はどうだろう。こうすれば遅刻も器物破損もぐっと減るかもしれない。でも減点主義のマネジメントだと社員が前向きにならないので、良いことをすれば給与が増額される報償制度を組み合わせればよい。

 常日頃中国人の拝金主義を批判していながら、日本企業がこんなマネジメントを始めたらさぞかし世間の注目を浴びるだろう。このように給与をすべて日々の行動で定量的に決めていく労務管理は会社が活気づくので結構いいアイデアだとは思うが、その会社ではおそらくみんなが延べ棒を数え合って、「毎日が賭博場」になってしまうだろう。



第5回:腹に入る

2016年9月11日 / カイシャの中国人





 中国の食文化の豊かさについては、世界中の人が論評しているので解説は不要だろう。中国は大きく、地方によって気候、習慣や言葉も違うので、食べるものや料理の仕方が違うのも当然だ。ちなみに中国の4大料理とは、広東、四川、江蘇、山東の各料理を指すらしいが、それから派生したと思われる湖南、北京、上海、雲南など特徴ある料理が数多くある。中国の食文化はとても多様だ。
 さて今回の話は中華料理のことではない。中国人と食事の関係についてである。日本でも昔から「腹が減っては戦ができぬ」とか「その話は俺の腹に入らない」といった言い方をする。”腹に入る“とは、理解する、納得すると言った意味だが、要するに人間、ちゃんと食べないと他のことがみんな疎かになってしまうという意味なのだろう。僕は常日頃から、世界で中国人ほどこの言葉がふさわしい国民はないと思っている。

 国が貧しかったころの中国人は食事が何よりの楽しみだったことは理解できるが、豊かになった現在でも、中国人にとって食事は生活の中でとても重要な部分を占めている。中華料理は円卓でわいわい言いながら食べるのが習慣だし、そのせいか食事中の中国人はとてもやかましい(中国人が食事中で唯一静かなのは、蟹を食べるときらしい。肉を一生懸命穿るのでしゃべっている暇がないから)。

 我々日本人は黙々と箸を動かして静かに食べるのが習慣だ。小さいころから親に「食べ物を口の中に入れたまましゃべるのは行儀が悪い」と教えられてきた。でも中国人はそんなことはお構いなしだ。中国に初めてきた人は、うら若き女性がレストランのような公共の場所でも平気で食べ物をテーブルの上に吐くことや、中国人が食事をした後のテーブルの汚さを目の当たりにしてみんな唖然とする。中国人にとって食事は、ストレス発散の場でありコミュニケーションの機会でもある。大げさに言えば、中国人の食事は“魂を開放する場”なのである。

 前置きが長くなった。我々日本人は、会社は仕事をする場所で食事は個人の生活だからこのふたつはあまり関係ないと思っている。しかし僕はあるとき、職場の中国人が仕事と食事を同じ生活の中で同期させているということを知った。僕が上海の老板だったときこんなことがあった。その日は重要な仕事があって、あるプロジェクトのメンバーはみんな最後の追込みに入っていた。時間は午後6時。僕は言った。「よしあと1時間でこのプロジェクトの報告書が仕上がりそうだ。みんなもう一息だ。7時を目標にがんばろう。終わったらみんなで食事をしようじゃないか!」

 ところが、これを聞いてある社員がポツリとつぶやいた。「もう6時じゃないですか。まず飯を食いましょう。食事を終えてから仕事の最後の仕上げをしましょうよ」。「あと1時間ぐらいで終わるんだから、先に仕事終えたらどうだ?その方がすっきりだろう?」「え~、7時まで食事もしないで仕事するなんて耐えられません」。なんと、メンバーみんながこの社員の言葉にうなずいたのだった。

 中国人にとっては、食事が仕事の犠牲になるなんて耐えられないのだ。結局、メンバー達はまず先に1時間ぐらいかけて夕食を取り、その後会社に戻って夜8時半頃にようやくプロジェクトの報告書は出来上がった。僕なんかは食事をしてから仕事をしたことで、とても眠くてかえって生産性が悪かったような気がしたけど、社員はみんな喜々としていた感じだった。

 中国では「吃饭了吗?」という会話が「こんにちは、元気か?」といった挨拶替わりに使われる。お昼とか夕方の中国人からのメールにはこの言葉が添えられていることが多い。僕の運転手は常日頃、日本の会社は残業が多いことを聞いて同情してくれるが、あるとき僕が、「日本にいるときは夜十時まで食事をしないで残業し、家に帰って十二時頃晩御飯を食べていた」と言うと、腰を抜かさんばかりに驚いた。でも「日本の仕事は忙しく、徹夜になったこともある」といっても、運転手は時にはそういうこともあるだろう、という反応だ。睡眠は忙しかったら削ることもいた仕方ないが、食事を粗末にする生活は断じて許せないということなんだろう。

 蛇足になるが、日本の会社では何かの行事の打上げとかで宴席を設けても、若い社員などは何かしら理屈をつけて参加しないことが多い。夜のプライベートな時間まで上司の小言を聞きたくはないということだ。でも僕の経験では、中国の会社だと宴会の出席率はとても高い。最初の頃は、外食は贅沢でめったに食べられないものが出るからみんな出席するのかなと思っていたけど、豊かになった今でも相変わらず宴会にはみんな参加する。

 やっぱり食事は中国人にとって一種のパラダイスなのだ。“腹に入る”ことは職場であれ何であれ生活の根本なのだ。たまに出張で日本の会社に帰ると、若い社員が自分の席でこそこそとコンビニのおにぎりを頬張りながらパソコンに向かっているのを見て思わず同情してしまう。僕らも、食事という儀式を仕事と関係なく楽しむことも心掛けてみる必要がありそうだ。



第6回:不動産狂想曲

2016年9月11日 / カイシャの中国人





中国人は、自分の家を買わなければならなくなったことで人間性が変わったと思う。住む家を自分で調達しなければならなくなったというプレッシャーもあるにはあるが、何より、投資の素人でも金持ちになる夢ができたのだ。他に株式投資という夢もあるが、こちらの方は株式市場の健全化が遅れ、すでに株価がピークを過ぎて下がってしまった。だから今では住宅投資が唯一の庶民の夢となった。まさに国を挙げての「不動産狂想曲」だ。
 中国人の“不動産病”は、実は日常の会社経営にも少なからず影響を与えている。かつて僕がいた上海の会社では、社員は毎朝のように新聞で不動産情報をチェックしていたし、めでたく家を購入した社員は、家の内装工事の時にはみんな休暇を取る。現場をチェックしに行くためだ。内装業者に任せていると、とんでもない手抜きをされるからだ。(中国では住宅はスケルトンのまま販売されるのが主流で、内装は自分で業者に委託して行わなければならない。)要するに社員は家を買おうと思ったとたん、仕事に身が入らなくなるのだ。当時はローンの支払いには会社の身分保証が必要だったので、僕もわけのわからないハンコをずいぶん押した記憶がある。

 ところで、中国人と話をしていてとても不思議に感じることがある。不動産は本来投資行為であり、リスクを冒して投資をしたものだけがリターンを得ることができるし、また当然損失を出すこともあり得る。ところが社員の間には往々にして、「○○不動産をあの時買わなかったから損をした!」なんて言う会話が飛び交う。つまり”儲け損ねた“ことを”損をした“と表現するのだ。まだ家に投資もせず何のリスクも取っていないのに、自分は損をしたと怒っているのを見ると、ただただあきれてしまう。

「不動産は、全部値上がりする」。…ああ、僕らもいつか来た道だ。そう言えば最近、確か上海だったと思うが、ある不動産が値下がりした時、すでに購入した人が不動産販売会社に押しかけて抗議をしたというニュースがあった。「こんな家を俺に勧めやがって!値段が下がって儲け損ねたじゃないか、責任を取れ!」。こういう人たちには、経済についての常識を教えてあげなければならない。

 話を会社の中国人に戻そう。僕はこの不動産狂想曲は、普通の中国人の金銭に対するバランス感覚をも壊してしまったのではないかと思っている。30元もする野菜を見ると高すぎると手を出さない人が、30万元のマンションの頭金を安いと思ってしまう感覚。つまり野菜など日用品は物の価値を認識できるのに、不動産になるとその絶対価値がわからなくなってしまっている。300万元のマンションに住んで毎日10元の食事をとる。外食の時は高い酒や料理を注文するがそれは公費か会社持ち。これでは金銭バランスがおかしくなるのは当然だろう。

 実はこのバランス感覚崩壊は日常の中国人のビジネス行動も歪めてしまっている。例えばある製品やサービスの値段の見積りを作成する場合を想定しよう。ビジネスの常識では、「コスト+適正利益=便益価値」と考えて適正な値段をはじき出す。もちろん市場価値や競合条件も考慮して値段は決められるが、それは適正利益を拡大縮小することで調整する。

 しかし中国人はとかく相手の懐を見て値段を決めようとしてしまう。仮にお客様をうまく丸め込んで高めの値段で商売が成立したとしよう。ところが製品の生産段階になると、今度はコストを削減しようと安い材料を使い始める。せっかく高値で買ってくれる顧客に対して明らかに安物とわかる製品を提供してしまうのだ。自分の食費を切り詰めることと、ビジネスでのコスト削減を感じ感覚でやってしまう。

 これを聞いて中国人は「何が悪いの?安い材料を使えばもっと利益が出るんじゃないの」と思うのだろう。今世界で大儲けしているアップル社は、確かに製造コストを安くしようとしているが、決して安物を作らせているわけではない。中国人は商品の値段を交渉するための数字に過ぎないだと思い込んでいるのではないか。僕はそうなってしまった原因が今の不動産市場にもあると思っている。今の不動産は単に売買して儲けるための道具になってしまっているから、実は「物としての価値」が評価されていない。中国人はよく僕に対しても言う。「なぜそんなに長く中国にいるのに、家を買わないの?」。日本人が中国の不動産を買わない理由は、日本人なら誰でもお分かりだろう。

 最後にもうひとつ、中国人が家を買いたがる理由が他にもあるらしい。300万元するマンションを買うより、月1万元で同様の部屋を借りた方がどう考えても得なはずだ。日本のように賃貸物件の品質がよくないということを割り引いても、今の中国では住むためだけに家を購入するのはお金がかかり過ぎる。ある中国人の友人は言った。「自分のものにしたいのです。いわゆる所有欲というものですよ」。

これには歴史的な理由があるのだろう。でも現実に中国では不動産は自分のものにはならない。国家に長期間借りているだけだ。期限が切れたら政府はどういう対応をしてくるのか心配はないのだろうか。普段は政府の言うことをあまり信用しない中国人なのに、これはとても不思議だ。