第7回:トップダウン社会

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)中国には国家がトップダウンでつくる計画がとても 多い


 中国の会社組織の特徴として「トップダウン」という言葉がよく使われる。もっとも欧米の会社組織もトップダウンが主流だから、中国の意思決定は欧米式に近いことになる。しかし欧米企業との違いは、欧米企業が経営トップから構成される意思決定機関やシステムが明確になっているのに対して、中国の会社は特定の個人が任意に意思決定するという俗人的な仕組みになっているところだ。
 だから中国人社員は、会社の物事を決めるのは上層部であり、自分はそれに従うものだと決めてかかっているように見える。それが給料の差であるという理解なのだろう。もちろん中国人は自分の意見を上司にもはっきりと言うから、素直に上の言うことに従うというわけでもないのだが、いずれにしろ戦略や方針を決めるのは自分の役割ではないと思っている。

 僕の本職は経営コンサルタントだ。上海のコンサル会社の総経理だった時代、ある中国系の企業を訪問し、その会社の事業戦略策定のコンサルティングを提案したことがある。提案の一項目に「今後十年の中国の経済・社会予測」というのがあった。でもその会社の社長は言った。「我が国には政府が作成した五ヵ年計画というものがあります。今後五ヵ年の中国経済や社会はそこに書かれています。なぜ我々民間企業がそういうものを新たに考えなければならないのですか?」

 国家の経済・社会の将来像はお上が作成する、ということはかろうじて理解できる。しかしビジネス界にいる企業のトップまでが、近未来の事業環境を国家計画に準じてしか考えられないというのには正直驚いた。中国の業界団体には自分たち独自の視点で展望された長期事業計画というものはないのだろうか。しかしビジネスというものは、人に先んじて環境変化を読み取り、近未来の事業環境を独自に予測しておくことが成功の重要なカギになる。中国人にとっては、国家や自分たちのリーダーたちの権力争いを予測することはとても重要だが、経済や社会の未来像は自分たちの範囲外なのだという考えが身にしみている。

 中国では、例えば国家の五ヵ年計画で「緑色経済」が強調されれば、どの地方に行ってもみんな判で押したように同じ言葉を使って近未来を語る。そもそも緑色経済とは何なのか、自分の住んでいる地方、自分の業界がなぜ緑色経済を重視しなければならないのかということを突き詰めて考えている人にはあまりお会いしたことがない。政府の役人や企業のリーダー間の競争とは、新たな社会や業界を創造することではなく、“与えられた”目標の中でいかに高いパフォーマンスを発揮するかの勝負になっているといったら言い過ぎだろうか。

 そう言えば、職場の中国人に何かの行事を任せると、その段取りの悪さに閉口した経験を持っている人は多いのではないだろうか。プレゼン用のプロジェクターとか、事前にちゃんと映るかどうかチェックしたりしないから、大事な本番で映らなかったりする。そしてその時の言い訳は、「この間はちゃんと映ったのに」だ。中国では機器の故障が多いことはみんな分かっていると思うのだが、それでもこのあり様だ。職場の中国人は、本番で何が起こるかを事前に予測して準備する、といった“計画性を持った行動”については超苦手な人たちなのだ。

 僕たちは子供の頃、8月の終わりに慌てて夏休みの宿題をしていると、親からもっと計画性を持って行動するようにと躾けられた記憶があるだろう。中国って計画経済の国で何でも計画的に進める国じゃなかったっけ? なのに職場の中国人が計画を立てるのが苦手なのはなぜだろう。社会の変化が激しすぎて前提がコロコロ変わるから、真剣に計画を立てるという経験が根本的に不足しているということなのだろうか。

昔、中国のある社長に、「うちは年度予算なんて立てません。三か月先のこともわからないのに年間予算なんて意味ないでしょ?」と言われたことがある。彼の言いたいことは理解できるけど、会社のトップが計画性を持たないと下の者はただ振り回されるだけになってしまう。計画性のないトップからのトップダウン。そこまでリーダーを信頼しているのか、あるいは戦略や計画作りは自分とは関係ない世界だと割り切っているのか。我々日本人には、少なくとも僕には、こういう「トップダウン社会」はとてもついていけそうにない。



第8回:現地化

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)意思決定に中国人が加わることが現地化だ


どの会社も外国で事業をするときは、その国の事業環境や法律、文化に合わせる必要があり、そのため経営の意思決定の大部分を現地国籍の社員に委ねる。これがいわゆる「現地化」と呼ばれているものだ。中国における日系企業もこの「現地化」の必要性が叫ばれて久しい。もうトップが既に中国人になっている企業もあるし、代々日本人がトップを務めている企業もある。「現地化」という言葉に厳密な定義はないし、日系企業にとってもトップが現地人(中国人)になることだけが目的ではないことは言うまでもない。
 僕は2002年に上海で現地法人を立ち上げたとき、社員にこう言い放った記憶がある。「初代は日本本社から派遣された私が社長を務めるが、次代以降は貴方たちのような中国人に会社を経営してもらえるようにしたい」。その時、心なしか聞いていた社員の顔が紅潮したように感じた。別にリップサービスで言ったつもりもないし、当時は本当にそうすべきだと思っていた。しかし実際、当社が中国人トップを実現できたのは2008年になってからだ。トップ以外の日本人派遣社員はかえって増えたという事実もあるが、いわゆる「現地化」は6年たって一応実現したということになる。

 でも僕は中国での「現地化」については、日本人にも中国人にもいろんな誤解があるように思える。これも上海時代の話だ。当時、僕の会社の顧客の主力は日系企業と中国地方政府だった。しかし中国経済の拡大を考えた時、国有や民営の中国企業を顧客にしていくことが戦略上重要であることはわかっていた。

 ある日、中国人社員が僕のところに中国企業をターゲットとする事業計画案を持ち込んできた。そこに書かれている戦略は間違ってはいなかった。この社員が自分を責任者に任命してくださいと言ったことも、企画者として当然だろう。しかし次の要求だけは呑むわけにはいかなかった。「中国企業のことは日本の本社にはわかりません。責任者の私は、日本の本社とは独立に意思決定できる体制にしてください」。

 「現地化」が進まない日系企業を揶揄して、日本人は中国人を信用していないと言う中国人の識者は意外に多い。しかしこれには誤解がある。日本企業は中国人を信用していないのではなく、“特定個人による意思決定”を信用していないのだ。中国の企業はトップが意思決定する。だから中国人で自信のある人は、自分が意思決定する権限を求めてくる。しかし我々は中国人の意思決定を問題にしているのではなく、個人による意思決定を問題にしているのである。

 確かに日本企業の本社の経営陣は大抵、長くその企業に勤めてきた日本人社員で構成されており、よそ者、ましてや外国人である中国人を重要な会社の意思決定プロセスに組み込む勇気はない。この本社主義とでもいうべき日本企業の視野の狭さには、実は僕も辟易している。でも集団で意思決定をする日本企業の仕組みは、決定には時間がかかるが大きな間違いを犯さない、いわば安全弁になるという利点もある。トップが間違ったら即終わりという意思決定体制は、日系企業では実現し得ないと思う。

 もうひとつ。中国人社員が意思決定権を要求する理由は、中国社会では権限がある種のステイタスや利権につながることが多いからだ。例えば日本では会社同士の交渉の場では例え自分に意思決定権があるものでも「この案件は持ち帰って社内で検討します」という言い方をするし、それも認められる。しかし中国でこのような言葉を出すと、その交渉者の力量が低く見られがちになる。

 日本人はあまりやらないが、中国では権限のあるものはそれを使って例えばバーター交渉をしたりする。以前私の上海の会社の社員は、これは私の権限でOKするから、貴社の製品(オフィス用品)を1年間タダで使わせてください、なんて交渉もしたのだ。業務上の利点を得る目的だから賄賂とは言えないものの、このように個人の意思決定権はいろんな利権とつながってしまうのだ。

 繰り返しになるが、中国での正しい「現地化」とは、会社の意思決定に中国人幹部がきちんと加わることであって、特定の優秀な中国人に意思決定を任せるということではない。しかしこんな社員の言葉も思い出した。「日本人と一緒にものごとを決めるのは、本当に疲れます。こんなものトップが決めればいいと思うことでも、我々一般社員に意見を求めてきますからね」。自分の役割を割り切って考える中国人と組織全体の合意にこだわる日本人。こんなに文化が違うのだから、日本企業の「現地化」も荊の道だ。



第9回:報連相(ホウレンソウ)

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)日本では、報連相を扱った本がたくさん出ている


 日本人は「報連相」はビジネスの基本動作だと思っている。でも僕の知る限り、中国人社員たちは、何でもかんでも報告するというのは無責任だと思っているようだ。「私なりに報連相の意味はわかります。でもこれがどうしてビジネスの基本なのでしょうか?私は必要なときにはちゃんと報連相します。当たり前のことじゃないですか」。おいおい、そこが問題なんだよ。自分が“必要なときに” 報連相されるのでは本当に困るのだ。

 その日は翌日に大きなレポート提出の納期を控え、オフィスはごった返していた。僕はある社員に声をかけた。「お前のパートは大丈夫か?僕はそのデータ分析をもとに、最後の結論のロジックをまとめなくてはならないのだから早めに頼むよ!」。「あ、そのことですか。データがまだ集まっていないので、明日までには間に合いません」。「え? どうしてそれを早く言わないんだ」。「今はこの仕事をしているから、終わったら後で老板に言いに行こうと思っていました」。

 報連相とは、組織やチームで仕事をするときの一種の行動ルールで、あらかじめ何が起こりそうかをみんなが想定できるように情報共有をするためのものだ。つまり報連相は組織構成員の事前報告義務だと言ってよい。問題が起こってから報告したり相談したりする事後報告は、報連相とは言わない。でも中国人社員はいつも言う。「何も問題が起こっていないのに、何でそんな心配する必要があるのですか?」

 中国人社員はだいたいそんな行動原理だから上海時代の僕は、仕事の進捗についてはとりあえず何でもうるさく聞くことにしていた。さすがに老板が聞くとみんな返事をするから、それで仕事のリスクを判断することにした。重要な仕事では、誰かの仕事が遅れるとか何かが起こったときにどう対処するか、それを考えておくのは管理職の務めだと思う。でもあまり疑心暗鬼になり過ぎてもいけない。最初からバックアップを用意するとその社員は出来上がらなくてもいいと思うだろう。社員を信頼する度胸も老板には必要だ。その微妙なバランス感覚が中国人を管理するポイントになる。

 でも、日本人の報連相も過ぎると問題だとも思う。つまり何でも相談モードに持ち込む社員がいることだ。「この仕事、このやり方で進めたいのですが、こんなやり方でよい結果が得られるでしょうか?」。今度は逆にそんなこと自分で考えろと言いたくなる。中国人社員のことを揶揄したが、日本の会社の“打合せ地獄”や“何でも会議”も困ったものだ。僕は中国での仕事が8年を越えたが、もう日本のこんな仕事のやり方に二度と戻ることはできないかもしれない。

 ところで、携帯電話とかスマホなるものが普及した現代は、報連相を行う環境は以前とは比べ物にならないほど発達している。昔は公衆電話に並ばなければならなかった会社への連絡も、歩きながらワンタッチでできる。でも不思議だ。こんなに便利な道具が出現しても、中国人社員の報連相が増えたという話は聞かない。それどころか連絡をしても返事をよこさない社員は以前とまったく同じだそうだ。一日中ずっとスマホ携帯を触っている社員も、上司への報告などはまた別のことなのだ。つまり報連相は、中国人社員にとって特に必要ない行動原理だとみなされていることになる。

 中国人のリスク管理について、ここで大上段に構えて論じるつもりはない。でも次に現実に起こりそうなことを予測して予め先に手を打つという行動は、会社の中国人はお得意ではないようだ。そう言えば皆さんも経験あると思うけど、北京では車で道路を走っている時、いきなり通行止めを食らうことがある。何があったのか警官に聞いても答えない。しつこく聞くと「俺は知らん、ただ通行止めにしろと言われたからそうしているだけだ」。

 中国の公務員は威張っていて庶民に事情説明などしないことはみんな知っているが、当の公務員自身も自分の”業務“の理由を知りたいとは思わないようだ。前回の「トップダウン社会」の稿でも触れたが、中国社会のリスク管理の脆さを垣間見たような気がする。



第10回:台湾人と香港人

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)芸能界は例外。台湾人や香港人のスターは今でも憧れの的だ。


中国大陸には、台湾人や香港人と呼ばれる、外人とは言えないがさりとて大陸の人々とは異なった政治制度や文化環境の中で育った人たちがたくさんいる。彼らの普通語は当然、訛っていたりぎこちなかったりするのだが、我々日本人には大陸の中国人と見分けがつきにくい。彼らには言葉の壁がないため、大陸でビジネスをするときに政府やローカル企業と丁々発止のやりとりができるし、中国人の文化や習慣も民族的に理解できるのでとても羨ましく感じる。

 ところがこの台湾人、香港人がいざ同じ会社で大陸の人と一緒に働くとなると、これはなかなか微妙なのだ。いわゆる近親憎悪とでも言うのだろうか、似ているのにちょっと違うことが双方にとって大きなストレスとなるようだ。総じて言えば台湾人や香港人は、自分たちが大陸の人より先進的な地域で育ち、自由な教育も受けてきたからそれなりの優越感を持っている。だから時として大陸の人々を見下すような言動をすることもある。それが大陸の人々にはとても癪にさわるのだろう。逆に今では、むしろ台湾人や香港人に対して「俺たちが食わしてやっている」と言わんばかりの態度を見せる大陸の中国人も現れているが。

 僕は2002年に上海で会社を設立したときは、大陸に大きなコンサルティング会社は少なく、経営コンサルタントという仕事も認知されていなかった。だから採用面接をしていても、この職種が何をするものなのかを理解ができない人が多かった。そこで僕は日本の本社と相談し、既に会社や事務所を設立して業績もあげていた当社の台湾と香港の拠点社員に大陸に来てもらい、会社の事業立上げを助けてもらうことにした。彼らは中国語ができるので、日本から日本人社員を連れてくるより戦力になると思ったからである。事実、彼らはその経験を活かして大いに戦力になってくれた。

 しかし異なる習慣や文化を持つ人を集めた会社では、いろんなことが起こる。仕事上では第一線に立ってばりばり働いてくれた彼らも、やがて台湾人、香港人という微妙な立場に苦しむことになる。あるとき、僕と台湾人と上海人の社員の3人で中国国内に出張した。もちろんこの台湾人は性格のよい子で、一緒に行った上海人とも普段はとても仲良く仕事をしている。しかし食事のときのちょっとしたやりとりを聞いて、僕はびっくりしてしまった。その時の詳しい内容はもう記憶が薄れているが、確か台湾人社員が大陸の何かの政策を批判した時、上海人社員が急に大きな声で言い返したのだ。「そんなこと言うなら、貴方たち台湾人はみんなさっさと島に帰ればいいじゃない!」。

 結局、大陸での会社の立上げのために来てくれた台湾人と香港人は、約1年の勤務で元の勤務地に戻った。何度も言うが、彼らは本当にみんなの先頭に立って会社に貢献してくれた。僕は彼らにもう少し上海の会社にいて欲しかったが、どちらの社員も帰任にあたっては同じことを言った。「やはり大陸の会社は、大陸の中国人が中心になっていくべきです」。順調に見えた会社生活だったが、彼らには人に言えない苦労があったのだろうと察した。

 ある上海人の社員が笑いながら僕にこういったことがある。「松野さん、上海にいる外人の中で上海人が最も嫌いなのはどこの人だ思いますか?」。彼は笑い話として言ったのだろうが、その結果はおのずと推定できた。彼曰く、「台湾人、韓国人の順です」。おや日本人は入っていないのかな?「上海人は日本人を好きな人も嫌いな人もどちらも多いので、イーブンです」。

 初めて大陸に来た時、僕は台湾や香港で仕事をした経験がある日本人から、中国でビジネスをするなら台湾人や香港人と組むのが近道だとよく言われた。我々日本人とは文化や習慣に対する理解度が違うからというのがその理由だ。しかし僕は当時、直感的にこの考えには同意できなかった。中国人には先進国に対する一種の憧れのようなものがあり、会社で一緒に働く欧米人には少し気後れするところがある(日本人も同じだが)。しかしそれは文化や習慣がまったく違う欧米人だからだ。少なくとも職場で台湾人や香港人と一緒に働く時、彼らに憧れは持たないだろう。むしろ彼らに指図されるのは不愉快と思うはずだ。

 現在は中国の国策上、台湾や香港との間には有利な貿易協定があるので、彼らと組んで大陸でビジネスをすることはある種、理にかなっている。僕が大陸でのビジネスにおいて台湾人や香港人と組むのが得策とは思えないと書いたのは、あくまで職場の人間関係上での話だ。もっとも、今では両者の力関係が大きく変わりつつある。大陸人もビジネス経験が豊富になり心の余裕もできたので、むしろ台湾人や香港人は使い易くて可愛がられる存在に変わっているらしい。GDPも追い越してしまったので、我々日本人もそろそろ可愛がってもらいたいものだ。



第11回:コンプライアンス

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)日本本社のコンプライアンス遵守体制は、こんなに重層的だ


 「コンプライアンス」。中国でビジネスをする日本企業にとっては、これを聞くといつもドキッとするし、絶対避けて通れない言葉だといったら大げさだろうか。この言葉の日本語訳は「法令遵守」ということになっているが、実はあまり使われていない。“法令”と言う言葉がピンと来ないのだ。中国語では、「遵守法律」とか「合規性」、「規範性」といった言葉が使われているようだ。アメリカでも何らかの「法令」や「規範」に従うという意味で用いられる。アメリカと中国は意外とコンプライアンスの概念が似ていると思う。
 日本企業にお勤めの方は分かると思うが、日本でのコンプライアンスという意味はかなり広く深遠だ。「ビジネスにおける基本倫理観」とでも表現したらいいのだろうか。つまり法令のような何か拠り所となるものに頼らずに、絶対的な価値観、倫理観で行動することを要求されている。これが正しい解釈かどうかは別にして日本企業ではそうなのだ。僕の会社は特別なポジションにあったから、インサイダー防止規程を特別に定めていたが、普通の中国の日系企業はそこまで文章化はされていないだろう。

 しかし日系企業は、どこもコンプライアンスにはうるさい。例えば、納入業者から贈り物をもらったり接待を受けること、業務上の物品購買でもらった優待券で自分の私物を買うこと、他の物品購入で入手した領収書を別の購買申請で使うこと、時間外に会社のパソコンを使ってネットショッピングをする等々、どの日系企業でもみんな見られることだろう。でも日本企業の論理で言えば、これらはみんなコンプライアンス違反なのだ。

これは職場の中国人には理解不能だと思う。なぜなら依って立つ社規社則にはそんなことはどこにも書いてないからだ。規則に書いてないものまで何で要求されるのか。要するに上述の例は、会社のカネを横領したり会社に損害を与えているわけではないのに、なぜコンプライアンス違反になるのか、というわけだ。もっとも中国企業の社規社則では、社員の“してはいけない”行動や罰則などの細かい日常の規則をいちいち書いておかなければならないから、コンプライアンスの領域までは手が回らないというのが本音だろう。

 僕の会社は、日本では金融関係でもあるので、コンプライアンスを守ることにかけてはとても厳しい規程がある。僕は上海での会社設立時に各種規程を作ったが、そのなかに「インサイダー防止規程」というのがあった。これは企業の機密情報に触れる機会の多い当社社員にとっては絶対的に守らなければならない規程だ。だがこれを設立間もない上海で社員に説明したとき、みんなはぽかんとして聞いていた。「何で我々は株を買うのに会社に届けなければいけないのですか?だいたい株というものは、まだ知られていない情報を友だちに教えてもらって買うものでしょ?」僕は空いた口が塞がらなかった。

 コンプライアンスに関連した話では、僕には過去にショックを受けた経験もある。上海のとある超一流大学の教授のもとに共同研究の相談に行ったときのことだ。我々が研究テーマと進め方を説明し、委託研究費の相談に入ろうとしたときのことだ。その教授は何と、今進めている他の日本企業との共同研究契約書を引出しからいくつも取り出して僕らに見せたのだ。「ええっと、O社からは××分野のテーマで、1200万円で委託されています。K社とは△△方面の研究開発を...」。僕らは丁重にお礼を言いつつ席を立った。これでは我々との共同研究も他社に全部筒抜けになってしまうと思った。

 要するにこの教授にとっては、ご自身の研究遂行能力や体制を説明するのに、実際の契約書を見せることが最も近道だと思ったのだ。しかも研究の中身を開示しているわけではないので、機密保持条項にも違反はしないと思われたのだろう。しかし日本企業の論理で言えば、自分たちと共同研究をしているという事実がコンプライアンス事項になる。中国では大学と企業の共同研究、いわゆる産学協同は当たり前であるし、得られた成果は双方が権利を持つとはいえ、実際は双方が自分たちのために自由に活用するという考え方だ。

 つまるところ、日本企業のコンプライアンスは、社員に「公正・適切な企業活動」をすることを求め、さらに「積極的に法令や規程以上の企業倫理・社会貢献を遵守する」ことまでも求める。実際には「法令遵守」という日本語訳の定義を超えているのだ。中国人社員には本当に気が遠くなる話だろう。だから日本本社の要求レベルを中国現地の企業で求めるのにはかなり無理がある。これに対して日本本社の担当者は、一見理解を示すような発言をする場合がある。それは中国人が“コンプライアンス意識が低いから”仕方がない、といった類の妥協だ。でも僕は、これは表面的な認識でしかないと思う。

 コンプライアンスのことを書き始めるといくらでも問題事例が思い浮かんでくる。それぐらい中国の日系企業では重い課題のひとつなのだ。しかし実は中国人の意識が低いからと言うより、職業倫理に対する考え方が根本的に違うことがその悩みの原点なのだと思う。会社の中国人に、日本人が持つ潔癖なまでの職業倫理感を押しつけても理解されるはずがない。おっと、会社のパソコンを使ってBillion Beatsの記事を書いている僕も、ひょっとしたらコンプライアンス違反なのかもしれない。



第12回:日本経済って?

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)ある中国人は、日本の渋谷のスクランブル交差点の”秩序“に驚いたらしい


 中国経済の中で日本とのビジネスが占める割合はまだまだ高いのだが、総じて言えば中国人ビジネスマンは、最近日本経済に対する関心が薄くなってきている。その中にあって中国の日系企業で働く中国人社員は、日本の経済や文化に関心を持ってもらえる貴重な存在だ。日系企業の中国人社員は日本語を解する人も多く、ネットで常時日本のニュースをチェックしている人もいる。しかしだからと言って、日本の経済や社会の事情を正しく認識してもらっているとは限らない。
 その理由は、日本のニュースがだいたい自国をネガティブに語るものが多いからである。マスメディアが現行政府や社会を批判することは彼らの役割のひとつではあるが、中国人にそのことは理解できない。マスメディアの役割が根本的に異なるからである。しかしもうひとつ、中国人に日本経済の状況を誤解させている大きな原因がある。それは、中国にやってくる日本人専門家の言葉である。

 日中で開かれるシンポジウムや会社同士の会合などにおいて、日本からやってくる専門家が日本経済の現状を話す機会は多い。彼らはよく日中の「GDP伸び率」の比較表を見せる。曰く、日本は1980年代のバブル崩壊後GDP の伸び率は低迷し、中国は毎年2桁伸びている。この2国のデータを1枚の図にして示せば、日中の差は歴然だ。

 講演者が中国の勢いを示して相手を気持ちよくさせ、ビジネスを成功させたい気持ちになるのはよくわかる。でもその結果、ほとんどの中国人は日本が「沈みゆく国家」だと再認識してしまっていることにみんな気がつかないのだろうか。その結果、中国人ビジネスマンは、みんな日本経済をこう認識してしまう。「日本は不景気で、車や高級品などが全然売れないらしい」、「日本は経済状態が悪く、みんな暗い生活を送っている」・・・。

 日本人は自分の自慢などはせず、物事を謙虚に語ることで相手の尊敬を得るという習性がある。しかし国際社会、特に中国のように国際ビジネスの火花が散っている現場においては、こういう言動は何のプラスにもならない。むしろ日本とビジネスをすれば自分たちにメリットがないとまで思われてしまう。

 GDPは年間に一国が生み出す富の総和だ。日中比較をする場合に、伸び率ではなく絶対値を過去40年ぐらい棒グラフで示せば、現在でも日本の過去の「富の蓄積量」が中国を圧倒していることがわかる。日本のGDPは全然増えてはいないが、今でも毎年500兆円近くの絶対量があるのだ。別に日本を自慢しろと言っているのではない。日本の専門家はもっとポジティブに自国を語るべきだと思う。

 ところで僕は、中国人専門家も中国経済のことを意外に知らないなと感じることがある。それは中国では自国の経済や社会データの公開度が低く、分析に値するデータが入手しにくいことも原因だろう。僕は天下の清華大学の教授に、「中国人の経済学者は、アメリカ帰りの人でも世界のことを知らない人が多いですね」と暴言を吐いて睨まれたことがある。中国経済の状況は、世界のデータと比較して分析できる日本人専門家の方がむしろよく把握できているとも言える。だからもっと日本の専門家は世界経済のこと、日本の高度成長期の時の成功や失敗を”正しく“中国に伝える必要がある。

 最近のことだが、ある政府研究機関で我が社の専門家がバブル期の日本の銀行経営について語った時、彼は1989年における「世界の銀行の資産額ベスト10」の表を見せた。驚くなかれ、1位から6位までは全部日本の銀行だったのだ。講演会場が一瞬どよめいた。繰り返すが日本の過去を自慢するためではない、日本が経験した良いことも悪いこともちゃんと中国に伝えるためなのだ。

 日中関係は、経済は緊密だが政治はぎくしゃくしていると言われる。しかし経済についてもお互いにもっと理解を深めないといけない。これからはアジアの時代だと言われる。アジアでは日中は競争もあるが、補完関係・協力関係の方がお互いに重要なことは明白だ。だから僕たちも、もっと日系企業の中国人社員に日本経済のことを正しく理解してもらう努力が必要だ。彼らには、日本経済を中国に伝える伝道師になってもらおうではないか。中国人は総じてポジティブ思考だ。中国に来た日本人ビジネスマンは、日本を卑下することをやめて、もっともっと自慢すればいいんじゃないかと思う。

 もっとも最近は、中国人の若者にも「こんな格差を助長する経済成長に、何の意味があるのか!」と疑問を感じる人が増えてきた感じがする。中国もそろそろ“宴の終わり”への準備を始めなければならないのだと思う。我々も今こそポジティブに“かつての宴”を思い出そうではないか。



第13回:運転手

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)走行中に窓を開けて走られるの、イヤなんだけどな。


 中国の日系企業ではさまざまな人が働いているが、北京や上海などのオフィスに勤務する中国人はそれなりの学歴を持つエリート層が多いだろう。だからオフィスで接する“庶民の”中国人と言えば、掃除などをしてくれるアイさんとか運転手さんとかになる。特に運転手とは、日常の外出や時にはレジャーの時にも行動を共にし、普段でも車中などでいろんな会話をする。運転手は、とても身近な存在なのだ。
 ひと昔前の中国だと外国人について働く運転手は、何か自分の行動を監視しているようで窮屈な感じがしたそうだ。しかし昨今の運転手は、車を自腹で購入してフリーで仕事をしている人も多く、実は結構な自由人なのだ。性格も明るくてよくしゃべるし、老板とは友だちのような関係になってしまっている運転手は多い。

 同じ運転手でも様々なタイプがある。僕が上海の老板時代、中国に来て最初に雇った運転手はまじめそうで感じがよかったが、なぜか2週間ほどでやめられてしまった。僕が夜にあまり飲みにいかなかったり、休日にゴルフに出かけたりしなかったことが原因だったらしい。つまり残業が少ないのが不満でやめてしまったと言うわけだ。

 上海で次に雇った二人めの運転手は、寡黙なタイプだった。でもうちの会社とは相性がよいのだろう。僕の後も代々の老板に仕え、もう10年以上も我が社の運転手を務めている。口数は少ないが、目的地への時間の読みがものすごく正確で、めったに道を間違えたりしない。前もって訪問先の住所を告げておくときちんと調べておいてくれるし、迎えなどの時間などもきっちりと守る。

 北京に来て今度はまた全然違ったタイプの運転手に出会った。彼は元々大学の運転手組織「車隊」に属していたこともあり、隊の廃止後も大学内でフリーで仕事をしていたが、僕が北京にやって来た時に大学側から推薦があり、うちの研究センターの運転手になってもらった。性格は明るく、おしゃべりが大好き。典型的な北京人ってやつだ。

 現在の運転手は、上海時代の運転手とは性格が180度違う。結構、自己主張もする。運転中にいつも携帯電話を使うので危なくてひやひやするし、迎えの時間に遅れたりすると、「まだか」と言って電話してきたりする。訪問先の住所を詳細に教えても、電話番号をまず聞いて電話で相手の場所を聞く。訪問先の名刺しか情報がない時、その名刺の人にいきなり電話して「おたくはどこ?」なんて聞いてしまうので慌てることがある。

 僕は北京の道路内の空気が汚く、また自身がコンタクトを着けている関係で、走行中に窓を開けられるのは本当に困る。彼には理由を話して夏でも窓を開けないでくれと何度も申し入れているにも関わらず、なぜか馬耳東風だ。ちょっと油断していると、エアコンを切って窓を開けて走っていたりする。車は自分の生活空間だという意識なのか、マイペースというか、まあ“職業運転手”という観点に立てば、彼は失格だろう。

 でも彼には他にはない長所がある。まず大学の車隊にいたので学内で顔が広い。会議室の予約が取れない時は、あちこちのルートを伝って強引に予約してきてくれる。男手のない我が研究所で、いろんな総務的な雑務を嫌な顔をせずやってくれるし、面倒見も抜群によい。だから僕は彼を運転手だと思わず、総務部長だと思っている。中国人は自分の給料をもらっている仕事以外はやらないと言われているが、そういう意味では彼は出色だ。

 僕自身は二人しか経験がないが、運転手の話は中国にいる日系企業の老板たちからたくさん聞いてきた。彼らは日々老板と一緒に行動するので、日本語なんて全然わからなくても、老板が毎日何をしているのか把握している。また運転手は“待つ”のが仕事だから、同じ運転手仲間はいつも駐車場などでだべっている。だから早耳情報も持っているし、うわさ話は大好きだ。もし会社の業績やスキャンダルを知りたければ、そこの会社の運転手に聞けばよくわかるだろう。

 でも運転手はやっぱりストレスがたまる職業でもある。私の過去2人の運転手もそれぞれ1回だけ“キレた”ことがある。上海の運転手は、あんなに温和で寡黙なのに、ある日、よりにもよって我が本社の会長が上海に来ているときに、駐車場で他の会社の運転手らと喧嘩をしてしまった。僕がいざ会長を車に乗せて移動しようとするときに、彼が前歯を血だらけにしてやってきて、運転ができなくなったと謝った。そのとき、うちの会長はこう言った。「松野、中国ってのは、いろんなことが起こるのお」。

 今の運転手もやらかしたことがある。急に進路変更したタクシーの運転手に腹を立て、交差点で止まった時に車を降りて文句を言いに行った。しかしあっという間にタクシー運転手の仲間たちに取り囲まれて、彼はボコボコにされそうになった。僕は思わず車を降りてオフィスに電話して助けを求めた。幸い、着ているシャツを破られただけで済んだが、あの時はまじ危なかった。日本でも運転すると人格が変わる奴がいるが、運転手という職業人でも、こんなことぐらいで興奮してしまうのかと思った。

 日本では運転手は「白い手袋をはめて、いつも窓やボディを布で磨いている」というイメージがあるが、中国の運転手はなかなか人間味あふれる人が多い。僕は中国の普通の人が例えばあるニュースを知っているかどうかを確かめるとき、運転手に聞くことにしている。そう言えば例の「餃子事件」の時だって、事件の次の日聞いてみたが彼はその事実を知らなかった。中国の普通の”庶民“が何を知っているかを知るには、運転手はとても身近で役に立つ存在なのだ。

 中国では、自分の運転手とは絶対友だちになっておくべきだと思う。そうしたら街や職場のいろんな情報がわかる。そして運転手の方もいつも老板のことをいつも観察している。老板の性格、趣味、言動・・・まさか、実はそれが運転手の本当の仕事だったりして。



第14回:通訳依存の罠

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)日中のような似て非なる国家間においては、通訳は生命線になる


 最近、日本では中国語を習う人が増えてきたが、仕事で中国語を使いこなせる人材はまだまだ少ない。だから中国のビジネスにおいては通訳の存在がとても重要だ。少し前になるが、空調メーカー・ダイキン上海の総経理を訪問したときに、こうおっしゃったことが今でも強く印象に残っている。「中国でのビジネスで何が重要かと言えば、それは通訳ですよ。かなり高給でも構いません。重要な人との会話や交渉の場において、自分の意思が伝わらないとしたらこれはビジネス上、致命的ですから。」
 そう言えば僕も、最近は多少なりとも中国語を解するようになったからか、会議の場などで通訳の方の言葉を聞いていて「あれ?」と思うことが結構ある。言葉は確かに訳しているのだろうが、その人の言いたいこと、つまりニュアンスが相手に伝わっていない。しかしもっと重要な罠に嵌っている。話しをしている日本人自身が「自分の言いたいことが100%相手に伝わっている」と思い込んで話を進めてしまっていることだ。

 僕のドタ勘では、中国人との会話に慣れていない日本人と普通レベルの通訳の組合せの場合は、言っていることのニュアンスは70%ぐらいしか相手に伝わっていない感じだ。日本語には独特の言い回しがたくさんある。もちろん中国語の方も多くあるだろうが、日本語の特に「遠回しな表現」、「へりくだる表現」は相当な力量の通訳でないと相手にニュアンスも含めて正確に伝えられないと思う。

 ちょっと例を挙げてみよう。「この話はなかなか進まないので、お互い隔靴掻痒の感がありますな」「そういう風なやり方は、我が社では御法度なんです。」「私はあの会社では、面が割れているので。」「そうですね、時節柄そういうイベントはやめておいた方がいいと思いますが。」

 僕の研究センターの助理(実はこの文章を中文翻訳している!)にこれらの表現をみて直感でどう訳すか聞いてみた。「隔靴掻痒(かっかそうよう)」は、聞くとわからなかったが字を見せるとわかった。中国語も同じで意味も同じだからだ。「御法度(ごはっと)」は中国語で「教条」と訳した。これだと根拠のない禁止事項みたいに聞こえるので、日本語の意味とは逆だ。コンプライアンスを強調する日本企業の意図は伝わらない。

 「面が割れている」は難しい中国語で“対立する”という意味に訳した。これだと誤解されてしまう。日本語では“素性が知られている”というポジティブな意味なので、この翻訳だと反対の意味になる。自分では謙遜したつもりの言葉が相手に伝わらない。

 最後の「時節柄」。これは図らずも今、現地の日本人が常用している言葉だ。中国語では「関健時刻」、つまり“肝心な時”と訳した。たぶん大きな誤解にはならないだろうが、これでは”まわりの様子を窺いながら“という日本人独特の行動心理は伝わらないだろう。

 さて僕はあることに気がついた。普通日本人は相手が外国人である場合、できるだけ誤解が生じないように分かり易い言葉を使おうとするはずだ。しかし僕の経験によれば、日本人はなぜか中国人を相手にすると難しい言葉を使いたがる傾向がある。もっと正解に言えば“中国語由来のような”熟語をやたらと使いたがる。例えば四文字熟語とか諺だ。

 日本人は、なぜ中国人相手だとこういう言葉を使いたがるのか?その理由は、中国人と言葉を交わすと何か親近感というか、文化を共有していることを確かめたいという感情が出てくるからではないだろうか。実は、根底に中国の文化に対する尊敬の念のようなものもあるのだと思う。中国人も四文字熟語(成語)をよく使うし、日本語に訳すとき優秀な通訳は言葉の由来や奥の意味を補足して伝えてくれる。だから日本人も中国の人と話す時は、難しい言い回しを多用したくなるのかもしれない。

 例えばアメリカ人相手に話す時にはそういう言い回しは使わず、もっと通訳のしやすい直接的な言葉を使うはずだ。所詮、表音文字を使う欧米人には、熟語の持つ深い意味なんて話しても解りっこないと思うからだ。やっぱり日本人と中国人の間には深い文化的な繋がりがあるのだ。様々な局面における日中の誤解の真の原因は、ひょっとしたら日本人自身が使う日本語にあるのかもしれない。



第15回:日系企業で働くということ

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)今でも日系企業が入るビルは、看板を布で覆っている


 昨今の日中関係の悪化で、日系企業で働く中国人が微妙な立場に立たされていると聞く。
今は改めて「なぜ日系企業で働くのか」という意思確認をする時期なのかもしれない。中国の若者は意外と純粋だ。それなりに洗脳されているから、いまだに“日本は敵国だ”なんて思い込んでいる節もある。もちろん今はそんな時代じゃないのだが。

 中国人が日系企業で働きたいと思う理由も時代とともに変遷してきている。僕が上海にいた頃は、待遇面の魅力がそれなりにあった。当時でも欧米企業の待遇と比較してどうのこうのと言われたが、少なくとも中国の政府や普通の企業よりは給与も高く、福利厚生も充実していた。でも今ではすっかり変わって、待遇面は日系企業で働く理由にならない。

 今も不変なのは、自分は日本語を勉強した、あるいは両親や親せきが日本にいる、日本関係の仕事をしている等々の理由だ。中国で日本語ができる人はそんなに多くないから、日本語を武器にする人は日系企業という“ニッチ”なところで力を発揮しようとする。

 こんな理由もある。日系企業で働くある中国人が僕にこうもらしたことがある。彼女は“競争社会に疲れた”というのだ。「中国の社会や企業は、もう何でも競争。仕事の成果も自分でアピールしなければ出世できません。でも日本企業は組織で仕事をするので、争うより協力することが評価されます。日系企業で働いていると、私は本当にほっとします」

 日系企業で働くと、時に中国という国家の一員として大きな葛藤を感じることもある。僕は上海時代、ある企業から中国の歴史教科書についての調査を依頼されたことがある。調査の目的は、中国に駐在する日本人従業員に中国が教えている歴史観を勉強してもらうためだ。別に批判しようというのではない、少なくとも中国人はどういう教育を受けてきたかを知っておくことは、職場での人間関係の上からも重要だと依頼人は考えたのだ。

 この調査研究は、上海の学校で実際に使われている歴史教科書を集めて分析することから始めなければならない。教科書は書店に行けば購入できると言う。しかし調査研究が本格的に始まる前、社員2人が突然、僕の部屋に入ってきてこう言った。「老板、私たちを調査研究のメンバーから外してください」

 彼らは僕にこう理由を説明した。書店で小学校と中学校の歴史教科書を購入しようとしたところ、書店の店員から「君たちは何のために歴史教科書をこんなに購入するのか?」と聞かれた。「日本企業が中国の歴史教科書を研究するためです」。店員はいぶかしそうに彼らを見たという。彼らは身の危険というほどでもないが、中国人として何かいけないことをしているような感覚になった。「この研究テーマは敏感です。私たちも言われなき疑いをかけられたくありません。だからこの研究チームからは脱退させてください」

 結局この調査研究の仕事は、依頼者と相談して実施を見送った。第1回でも書いたように、中国における日本の存在はまだまだ特殊なものなのだ。日系企業で製品のマーケティングをしている中国人の友人は、仕事だから日本製品を一生懸命売り込むし、事実、日本製品は優れているところが多いこともわかる。でも同時にやっぱり中国製品ももっと頑張ってほしい、中国人だってこれぐらいのものは作れるはずだという思いも強くなると言う。これは自然なことだ。僕だって若い頃、日本で同じような思いをした記憶がある。

 仕事は生活のため、自分の魂は自分のもの。成熟した大人なら割り切って考えなければならない。最近はネットの発達で、微博(ウェイボー)など仕事や家庭以外のコミュニティを楽しめる場が広がったが、これは現代中国人にはとてもいいことだと思う。ウェイボーでは匿名で「日本人をやっつけろ」と発言しながら、会社では日本製品の良さを中国人に説明して売りまくる。この“二重人格性“は、電子ゲームを好む若者にはぴったりなのではなかろうか?だから日系企業で働くみなさん、どんどん日本製品をマーケティングしちゃって下さい!



第16回:顧客サービス

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)飛行機が遅れて、空港の窓口に殺到する乗客


 中国はもともとみんな国有企業だったせいで、お店の接客とか官庁の窓口などの対応はとても悪い、つまり「顧客サービス」という意識が低い。日本人が中国に来て誰もが最初に感じることだ。でも近年は相当良くなってきたと感じる。日本だって昔は悪かったと言う人もいるぐらいだから、中国もこれから徐々に良くなっていくことを期待したい。

 中国で顧客サービスという概念がなかなか育たないのは何故だろうか。実は僕は第2回で「公私混同」について既に書いているが、今回これから書くことはちょっと違っていて、「公私遊離」とでも言うべき事例だ。3つぐらい例をあげてみよう。

 一つ目は、顧客サービスが本来、顧客の立場に立って行われるビジネス行為であるはずなのに、なぜか企業(つまりサービスをする側)の都合が優先してしまう例だ。僕が最初に上海で会社を設立した時にオフィスの情報ネットワークを整備したが、トラブルが起こって業務に支障をきたしてはいけないので、外部のサービス会社に情報システムのヘルプデスクを委託することにした。いわゆるホットラインってやつだ。
 
 複数の業者にサービス業務の見積もりをお願いした。でもそのサービス内容を見て少々驚いた。ホットラインというのは「トラブルがあった時に迅速に対応する電話」という意味なのだが、その会社の契約書案には電話番号が5つほど書いてある。僕がなぜ5つもあるのかと聞くと、「担当者は5人準備します。上から順番に電話をかけて、出なかったら次の人にかけてください」という説明。1つの電話番号にできないのかと聞くと、「いや、担当者は自分の電話が鳴った時しか出ないのです」。「じゃあ、5番目の人までかけて誰も出なかった時は?」「また1番目からかけ直してください」

 要するにサービスする側の都合に合わせろということだ。これでもホットラインと言えるのか。2002年頃はこの手のサービス業者は少なかった。サービス業も結局は需給バランスだから、中国経済も落ち着いて売り手市場でなくなったら変わっていくのだろう。それが証拠に例えば、上海の日本料理屋などは競争が激しいせいか、かなり顧客サービスが良い。また今、外国企業の誘致競争が激しくなっている開発区などでは、区のトップが携帯番号を教えてくれて、「24時間、いつでも対応します」なんていうすごいサービスもある。

 第2は、顧客がどう思うかを思い巡らすことがないという例だ。僕が日頃から気になっていることのひとつにレストランの「賄い飯」がある。皆さんも見たことがあると思うが、レストランでは閉店間際になると、従業員が食事を始める。日本人の感覚だと、従業員はお客様が全部いなくなってから、あるいは店の奥など見えないところで食べたりするものだ。ところがまだお客がいても、隣のテーブルで堂々と食べ始めるのにはいつも驚く。

 もう勤務時間を終えたのだから、というのはその通りだけど、なんか講演を見終わってから舞台裏を見せられた時のようで、どうも心地よくない。もっと凄い例をあげよう。その1、飛行機のスチュワーデスが飛行中に、空いているビジネスクラスの席に座って休んでいた! その2、デモの警備にあたっていた警官が勤務を終えた後、集団で堂々と信号無視して道路を横切り、帰って行ったのを目撃した!

 第3の例は、仕事中に自分の立場を忘れてしまうことだ。ある日、上海から北京に向かう飛行機が急に何かの事情で飛べなくなった。その表示が出たとたんに、乗る予定だった乗客は航空会社の窓口に殺到した。昼間だったので大半はビジネス客だ。代わりの便は出すのか、他の航空会社への振替えをしてくれるのか等々、みんな聞きたいことは同じだ。

 窓口は人だかりで、当然誰も並んだりしないため身動きが取れない。こういう場合、僕のような外国人はどうしようもない。ただ遠巻きに状況を見守っていた。するとその時、窓口にいた航空会社の係員が突然叫んだのだ。「みんな黙れ!俺たちだって状況はわからないんだ!」一瞬、群衆が静まり返った。いくら何でもお客にこんなこと言っちゃだめでしょう。

 我々は仕事をしているときは、会社を代表して顧客に相対している。だからその瞬間は“公人”の立場だ。でもこれらの例をみると、突然“私人”に返ってしまっている。だから「公私混同」ではなく「公私遊離」と呼ぼう。つまり仕事をしている人が突然、遊離して個人に返ってしまうという意味だ。

 日本人は「立場論」が好きだ。「・・・の立場で申し上げれば、云々」という発言を多用する。“カイシャの日本人”はいつも会社を背負っている感がある。中国だって国のリーダーたちは、すべて役職などの立場を踏まえて発言する。しかし僕がいつも接している“カイシャの中国人”は、あるとき突然遊離して個人になってしまうらしい。

 ところで、中国の会社でも顧客との関係で納得できるところもある。それは契約行為だ。上下関係がはっきりしている外注契約であっても、契約書の内容は対等を主張できる。僕が驚いたのは、上海市政府との契約でもこちらが要望を出せば条文を変更してくれることだ。こんなことは日本の官庁ではあり得ない。契約条文は1文字たりとも変更させてもらえない。もっとも中国では契約書に書いてあることでも、後で平気で変更しようとすることが多いから、契約書の修正なんかあまり気にならないのだとも思うけど。

 「お客様は神様」という概念は日本式ビジネスの基本だ。そう言えば中国だって「為人民服務」という立派な言葉があるではないか。中国人の友人にそう言うと、彼は苦笑いしながらこう言った。「これはサービスしてやる、という上から目線の言葉ですよ」