第6回 2002年、北京での初個展「変容ー榮榮&映里の映像世界 1993-2003」(前編)

2016年8月23日 / ロンロン&インリ



(写真)当時の798工場・大窯炉空間 / 提供:三影堂撮影芸術中心


北京のアートシーンの中心・798芸術区は、1950年代、中国解放軍が旧ソ連・旧東ドイツに提供する軍事品を製造する「798工場」だった。今では工場をリノベーションしたギャラリーが100軒以上も集まる芸術区となり、北京の観光スポットにもなっている。
2002年当時、798工場地区は工場跡地と稼働中の工場とが混在し、賃貸料の安さや広い空間を求めるアーティスト達がアトリエを作りはじめた頃で、その中にギャラリーはまだ1軒しかなかった。


 私たちが2002年に開催した展覧会は798工場地区で初めて開催された個展の展覧会として記録されています。当時まだ海外での中国現代アートブームは始まっていませんでしたので、この規模で独自に個展を催すアーティストはほとんどいませんでした。
 ふたりの個展の企画については、先に巫鴻先生に相談していました。
 巫鴻先生はシカゴ大学の教授で、考古学者でしたが現代アートの研究もされていて、当時すでに著名なキュレーターとして活躍されていました。彼はロンロンが無名の時代から注目してくださっていて、当時六里屯の近くに住んでいたこともあり、私もお会いする機会がありました。
 ふたりで一緒に制作した作品を初めて見せたのが、『富士山』のシリーズです。すばらしいと言ってくださって、それ以来ずっと私たちの作品に注目してくださっていました。彼がこの展覧会のキュレーションを承諾してくださったので、私とロンロンとふたりで開催場所探しを始めました。
 ふたりの作品を総合すると相当な量になるので、大きな空間が必要でした。当時北京で作品を展示できる会場は限られていました。はじめは美術館や大きな展示会場を持つ不動産会社系の空間などを訪ねてまわりました。空間や会場側からの要望の問題もありましたが、展示する作品の内容についても理解が得られず、結局すべて断られました。
 その後自分たちで展覧会を開催すること、つまり会場側の主催ではなく費用も企画も全てを自分たちの責任で展開してゆくことに決めました。場所探しの方針も変えて、倉庫のような空間にしぼって、さらに1ヶ月ほど探しまわりました。
 たまたまロンロンが 新聞で798工場の賃貸広告を見つけ、すぐに連絡して見に行きました。帰ってきた彼はほとんど言葉を失っていました。
「すごい場所があった。ただしすごすぎて展覧会ができるかどうかわからない」
 と言う彼と、そのあとすぐに一緒に見に行きました。
 その場所は昔大きな窯があった空間で、そのために建物の中央部の床が赤土になっていました。5000平米の荒涼とした空き家には、高さ15メートルの天井に残された古いガラス窓から柔らかな光が漏れていました。私たちはその空間に圧倒されつつ、なんとかこの場所で展覧会をしたいと願いを固めました。

ここからが大変なことになる。規模の大きな展覧会を自費で開催するために必要な費用は、10年近く前の中国とはいえ、日本円で当時600万円に及ぶものだったのだ。

費用の問題を考えただけでも事の無謀さに頭を抱える状況でした。しかしその頃は不動産会社が経営する『遠洋芸術中心』という芸術センターが、国内初の民間のハードウェアとしてやっとできたような時代で、北京では限られた内容の展覧会しか開催されていませんでした。ただ待っていても自分たちの作品を発表できる機会はこないので、自分たちの力でなんとか機会をつくりださなくてはという必死の思いがありました。

この年、北京で初めての公的な芸術祭「北京ビエンナーレ」が開催されると巫鴻氏から連絡があり、ふたりは個展の開幕日をその前日の9月18日に決め、いよいよ展覧会が実現に向けて動き始めた。

 開幕まで1ヶ月もないという状況で、先立つものも全くないまま、家をスタジオ化し、作品の制作を開始しました。家に居候していた彼の甥っ子に手伝ってもらい、同じく居候していた彼の妹にお金を借りて準備を始めました。しかしすぐに回らなくなり、考えあぐねた結果、当時ウーレンス(ベルギーの著名コレクター夫妻)基金の会長であった費大為氏に相談することにしました。
 彼らは以前から私たちの作品をコレクションしていました。富士山のシリーズの大きい作品をこの展覧会で制作したいので買い取ってもらいたいと申し出をしたところ、
「いくら必要か」
 と聞かれたのです。(次回に続く)



(写真)当時の798工場・大窯炉空間 / 提供:三影堂撮影芸術中心




Inri

投稿者について

Inri: アーティスト 北京在住 1973 神奈川県生まれ 1994 日本写真芸術専門学校卒業 1994-97 朝日新聞社出版社写真部委託勤務 1997 フリーランスとなり自主作品制作に専念 2000 榮榮と共作開始 2001 オーストリア連邦政府のレジデンスプログラムに参加 2006 北京に三影堂撮影芸術中心を創設