第1回 長江商学院MBA Spider(男性)29歳

(写真)授業の合間の休み時間の風景(1コマ3時間、15分間休憩)教授を取り囲み、話を熱心に聞くクラスメートたち

<プロフィール>
1982年生まれ、ハルビン育ちの一人っ子。父は大学教授で、専門はヘルスケア・ボディビルディング。母は中国建設銀行に長く勤務、既に退職。17歳までハルビン。高2の時、学年トップの成績で海外留学のフルタイムスカラシップを獲得、大学からシンガポール国立大学でコンピューターサイエンスを専攻。海外留学組の中国エリート。大学4年間は勉強、生活ともに英語。モジュール3、4で学級委員長を務めた。

マイケル・ジョーダンになりたかった高校時代、フルスカラシップを獲得。大学はシンガポールへ

Q. 海外留学の決断に、親の影響はあった?

A. フルスカラシップに合格するまで、親には海外留学のことは言わなかった。合格後、親にシンガポールで勉強したいと打ち明け、親は私の努力を認めてすぐに許してくれた。親はとても寛容で、反対は一切しなかった。とても感謝している。

Q. 高校生のときの夢は?どんな高校生活だった?

A. バスケ部に入っていて、マイケル・ジョーダンになるのが夢だった。普通の高校は授業終了後も夜の9時頃まで自主勉強させるけど(クラブ活動は基本なし)、私の高校は地区トップ校で文武両立を大切にし、放課後は比較的自由だった。バスケは学校で休み時間にやって、夜はフルスカラシップを獲得するために、家でかなり勉強した。同級生の半分以上は清華大学、北京大学に入学した。

Q. 大学でコンピュータサイエンスを専攻したのはなぜ?

A. 13歳の時に初めて従兄からコンピュータを教わり、コンピューターにのめりこんだ。大学の授業はとてもおもしろかった。学校委員長、バスケットなどバランスを取った学生生活で、勉強、学校活動、スポーツの時間配分は3分の1ずつだった。大学1年生の時に学年のリーダーになった。10人以上が立候補した選挙に勝った。日ごろからリーダーの訓練をしていたのが勝利の秘訣。

グローバル企業を渡り歩き起業。上海で子育ても経験したイクメン、今は企業家として強固なビジネスネットワークをつくるために、単身赴任でMBA学生生活

Q. 大学卒業後のこれまでのキャリアは?

A. 大学卒業後は、シンガポールのアクセンチュアでITプロジェクトのビジネスコンサルタントとして1年間働いた。朝から晩まで、週末もなく働いた。政府系のプロジェクトが多かった。
次に、AIGでインベストメントファンドセールスとして働いた。富裕層向けの資産運用ツールのセールスを担当。毎日の顧客フォローが大変だった。半年フルタイムで働き、その後はパートタイムに切り替え、2人のパートナーとともに個人宅のデザイン内装ビジネスを起業した。パートナーの1人はデザイナー。私はセールマンとして働いた。
2007年にABMアムロに移り、リスクコントロールを担当した。リーマンショックによりリスクコントロール部門はとても忙しくなり、私はアジア地区の損失計算プロジェクトに従事した。とてもラッキーなことで、会社の危機のおかげで多くのことを学べ、高い専門性が身についた。
2008年にコマーシャルバンクAGに。アジア地区のオペレーションセントラルプロジェクトの責任者を務めた。部下を数十人抱え、マネジメントスキルが身についた。この時、妻に子どもが生まれ、私も妻も共働きで子どもを育てるのが大変だった。そのため、中国に帰って、上海近くにある義父が経営する会社(ベアリング会社)に移り、子育てとの両立に努めた。しばらくすると、時間ができたので、義父の会社で働きながら、自分の会社を立ち上げた。義父の会社の商品を海外でセールスしつつ、独自の商品を国内向けに販売している。今もトップとして会社を経営している。

Q. 上海での子育てはどう?

A. 上海でも幼稚園や保育所の数が足りておらず、子どもをよく育てようと思うと、時間もお金もたくさんかかる。子どもは現在、プライベートスクールに預けている。

Q. MBAに入学したのはなぜ?

A. プライベートカンパニーの悪い点として、ボトルネックが見つかってもそれを解決する方法が分からずに、ただ放置していることなどがある。MBAを通して科学的なビジネス手法を身に着け、事業を拡大させたいと考えている。まずはビジネスモデル、ストラクチャーを学びたい。クラスメイト、卒業生、EMBAなどと将来のビジネスについて話し、どのビジネスを手がけていくべきか学びたい。教授とは、自分が手がけているビジネスについてよく話している。これまでのすべての授業から本業に活かせそうなことを見つけては、教授にアドバイスを求めている。教授はフリーでコンサルティングしてくれ、ありがたい存在だ。

Q. 学級委員長として実現したいことは?

A. クラスメートのキャリア構築に全力を注ぎたい。長江商学院は卒業生を5千名以上抱え中国最大のビジネスネットワークなので、これを最大限利用できる環境をクラスメイトに提供していきたい。

Q. 卒業後のビジョンは?

A. 今の会社をもっと拡大させたい。そして、もっとマネジメント経験を積み、より高いレベルの経営ができるようになりたい。精神的にもっと強くなりたい。

Q. バーリンホー(1980年以降生まれの一人っ子世代)はどんな人たち?

A. 一人っ子世代なので、基本はわがまま。70年生まれの人は保守的なのに対して、われわれの世代はオープンで、アグレッシブ。90年代はわれわれよりももっとオープン、自由な存在だと感じる。一人っ子なので親の面倒を見る必要があり、そのプレッシャーを感じる。生活面では、不動産、車などの生活費がとても高くなってきたのが不安。



第2回 長江商学院MBA Cindy(女性)28歳

(写真)授業の合間の休み時間に、学生の質問に熱心に答える人気教授。続々と学生が集まり、議論がヒートアップ

<プロフィール>
1983年河北生まれ。14歳まで河北で過ごす。中学卒業後、高校には進学せず、ハルビンにあるイギリス留学のためのプレップスクールで2年間過ごす。イギリス留学の資格を得るものの、叔父がハルビンで設立した英語学校(ABC外国語学校)の北京校立ち上げに参画するため、北京で仕事を開始。3年間北京で英語教師として働いた後、叔父から上海校の立ち上げを任され、上海に一人で赴任。ビジネスの立ち上げから、教師採用、英語教師、学校運営に7年間従事。2010年、経営トップを兼ねながら、長江商学院MBAに入学。モジュール1、2で学級委員長を務めた。

抜群の英語力、15歳で英語教師に。20歳で学校経営。チャレンジ大好き!

Q. 両親や叔父はどんな人?

A. 両親はすでに退職、母親は幼稚園の先生、父親は鉄道会社勤務。母はとても思いやりがあり、父はとても厳しく、規律を重んじるタイプ。叔父は大学在学中に小学校で英語を教えていて、子どもたちからとても人気がある先生だった。大学卒業後も子どもたちから強い要望があり、1997年に子ども向けの英語学校(ABC外国語学校)をハルビンで設立した。

Q. 子どものころはどんな子?

A. 中学校のころはとにかく英語が好きで、映画、歌、詩などを用いてとても楽しく英語を学んだ。中学卒業後、高校には進学せず、ハルビンにあるイギリスの大学に入るためのプレップスクールに入学して、2年間、英語で教養やビジネスなどを学んだ。私以外の生徒は全員高校を卒業していたが、私は英語が抜群にできたので特別に入学を認めてもらった。先生はすべてイギリス人。このころ、私の叔父がハルビンで子ども向けの英語学校を設立し、私も英語教師として子どもたちに英語を教え始めた。15歳だった私は、7歳ぐらいの子どもたち40人を相手に英語を教えていたが、最初はとても苦労して、子どもたちとのバトルの日々だった。

Q. なぜイギリスに留学しなかったの?

A. 叔父のハルビンでの英語学校が軌道に乗り、叔父は次に北京校立ち上げを計画していた。叔父からイギリス留学か北京でのビジネス立ち上げかを問われ、ビジネス立ち上げの経験はとても貴重な経験だと思った私は、自分の判断で北京でのビジネス立ち上げを選んだ。

Q. 両親や叔父からの影響は受けている?

A. 母、父、叔父の3人からの影響を強く受けている。仕事に関しては叔父から多くを学んだ。両親はいつも私の人生の選択をサポートしてくれた。一方、叔父は私に挑戦させることが多かった。例えば、叔父は泳ぎ方が分からない私を川に放り投げたり、バンジージャンプ、スカイダイビングなどどんどん挑戦させたくれた。2003年は上海校設立にあたって、私に上海に行ってビジネスを立ち上げて来いとまた挑戦させた。叔父からの強い影響もあり、私は挑戦が大好きだ。

叔父の反対を押し切って働きながら通信教育で学んだ4年間。学士号取得していま、MBAヘ。目標は経営する学校の上場とビジネス拡大

Q. 叔父の指示に反対したことはある?

A. MBAに入学する意思を叔父に伝えたときは、行く必要がないと許可してくれなかった。私は納得せず、大学を出ていない私はMBAに入学するために学士号を取得しなければならず、自ら通信教育(Tianjin Foreign Studies University)で4年間働きながら勉強し、やっと昨年学士号を取得できた。学士号取得後、再度叔父に相談したところ、叔父は私の努力を認めてくれ、ゴーサインを得ることができた。有難いことに、学費はすべて叔父が出してくれた。

Q. MBAでの成果、今後の方向性は?

A. MBAに入学して統計、ファイナンス、ビジネスモデルなど私の知らない世界をいろいろと学ぶ中で、私は叔父の英語学校とビジネス界の橋渡し役になれると思っている。具体的には、会社を上場させ、さらにビジネスを拡大することができると考えている。叔父は上場や外のビジネスをあまり知らないが、私はバックグランドの異なる多くのクラスメートや教授から様々な新しい世界のことを学ぶことができる。私がリードして会社を大きくしてきたい。中国の教育業界は、現在10社以上は海外に上場しており、子どもへの教育需要は大きく、マーケットはどんどん拡大している。この厳しい競争環境を勝ち抜くために、MBAで勉強しつつ、優秀な仲間と絆を深めていきたい。

Q. バーリンホーはどんな世代?

A. 責任感が強い世代。個人主義と集団主義がうまく釣り合っている世代だと思う。70年代は集団志向が強く、90年代は個人志向が強い。きっと、これは生まれたころの時代背景が影響していると思う。

Q. 効果的な英語学習法は?

A. とにかくたくさん映画を見て、英語に興味をもつこと。それから、話す機会をたくさんつくること。子どものころは自分のレベルにあった英語、歌、詩などからたくさん学び、気に入ったものは覚えて、人前で話したりすること。興味をもつこと、楽しめることがとても大事。



第3回 長江商学院MBA Jason(男性)34歳

(写真)インド人とスペイン人のクラスメイト。カメラを向けると笑顔で撮影に応じてくれました。インド人の彼の奥さんは中国人、スペイン人の彼の彼女は才色兼備の中国人。国際結婚、国際カップルが続々と誕生しています。

<プロフィール>
1976年、四川省成都市(近くの町)生まれ。武漢の大学の工学部卒業。大学院で修士号取得後、シンガポール国立大学で電気工学の博士号取得。日系企業、米国系企業でモバイル通信の3Gや4G、PCのハードディスクの研究開発に従事。急成長の中国でのビジネスチャンスを求めて、長江商学院MBAに入学。妻と子供2人(うち1人は妻のお腹の中。来月出産予定)をシンガポールに残し、単身中国に戻る。

医者や弁護士より社会的地位が高いエンジニアという仕事

Q. 両親はどんな人?

A. 両親はともに1つの国営製造業で退職まで働き続けた。伝統的な中国人だと思う。勉強やスポーツに関して親からの圧力は全くなく、これまでの人生はすべて自分の判断だった。

Q. 中学、高校時代はどんな人だった?

A. 中学生までは体が弱く、病気がちだったが、高校から一転、勉強にスポーツに目覚ましい成長を遂げた。高校時代、理系科目(数学、物理、化学など)が強く、特に数学は中国内1位の成績を獲得(年間で150名ほどが国内1位の成績を取ることができ、その中から50名は強化合宿参加、うち数名が数学オリンピックへ出場)、100メート陸上競技で100メートル11.2秒を記録し、18歳の時に国体選手に選抜された。

Q. なぜ大学でエンジニアの道へ?大学生活はどんなだった?

A. 理科系科目が得意だったからと、中国では医者や弁護士よりもエンジニアの方が社会的地位が高く、当時の中国も高度なエンジニアを求めていたから。それに、両親が勤めていた会社が製造業で、製造業の大切さを子供のころから理解していたと思う。
大学ではエリート向けのアドバンストクラスに選抜され(大学全学部から40名選抜)、数学、物理、コンピューターなどありとあらゆる学問を集中的に勉強することができた。このコースは中国でナンバーワンのエンジニアを育てる目的で設立され、事実、ここからノーベル賞受賞者やテクノロジー会社の有名な経営者などを輩出している。

Q. 博士号を取得するために、なぜシンガポールへ渡ったの?

A. シンガポール国立大学はアジアでナンバーワンの実力。また、シンガポールは中国の文化や思想が残っているし、中国人にとって過ごしやすい環境だったので選んだ(シンガポールは西洋と東洋が合わさった感じ。考え方は西洋で、文化や伝統は中国に近い。ロジカルでルールを守る人たち。宗教も自由で、みな熱心。私自身はクリスチャン)。3年間で電気工学の博士号を取得。

Q. 博士課程での研究内容は?

A. テレコミュニケーション。モバイル通信の3G、4Gのオペレーションの研究開発、簡単に言うと、ボイスや動画などのモバイルサービスのクオリティの向上のための研究開発をしていた。博士号取得後に就職したパナソニックの研究センターでもこの研究開発に従事した。その後転職したアメリカ系テクノロジー企業では、プロジェクトマネジャーとしてPCやモバイルのハードディスクの研究開発に従事した。

チャンスの波をつかまえにシンガポールから帰国。目指すのは世界で勝負する企業を生み出すベンチャーキャピタリスト

Q. なぜMBAを取得?なぜ中国に戻ってきたの?

A. 研究開発型の企業で働いているときに、PCやモバイルなどコンシューマー向けのサービス開発を担当していた影響から、ビジネス自体に興味をもつようになり、漠然とMBAでビジネスを学びたいと思うようになった。一度、会社に勤めながらベンチャービジネスに挑戦したが、うまくいかなかったのもビジネスを学びたいと思った理由の一つ。これらに加え、やはり今の急成長中の中国にはテクノロジー面から見ても山のようにビジネスチャンスが転がっており、これを逃さないためにも中国にいったん帰る必要があると感じていた。事実、多くのシリコンバレー出身のベンチャー経営者やアメリカで活躍していた中国人エンジニアが続々と中国に帰ってきており、ベンチャービジネスを起こしている。このビックチャンスを逃すわけにはいかない。

Q. 将来の方向性は?

A. 将来はベンチャービジネスのチャンスがあれば自ら挑戦したいが、今のところベンチャーキャピタリストとして、中国から世界で勝負できるテクノロジー企業をどんどん輩出させたいと願っている。私のベンチャーキャピタリストとしての強みは、高度な最新テクノロジーを評価できることだ。技術革新のスピードはものすごく速いが、博士号取得のおかげで、その技術のキャッチアップが素早くできる。それに、長江商学院MBAでは巨大な中国国内でのビジネスネットワークが築ける点が何よりも魅力だ。博士号、MBA、ビジネスネットワークなど私にしかないユニークさを組み合わせ、一流のベンチャーキャピタリストになり、中国が世界のテクノロジーをリードできるよう貢献していきたいと強く願っている。



第4回 長江商学院MBA Frank(男性)31歳

(写真)クラストップの成績を誇るTonyによるプレゼン。得意のファイナンス分野とあって、熱がこもったプレゼンに皆聞き入っています。

<プロフィール>
1979年、四川省成都市(近くの町)生まれ。家族は両親と子供2人(彼と妹)。実家は自然豊かな片田舎で、親は農業や自営業で生計を立て、幼少の頃は貧しい生活を送る。工業学校で機械工学を学び、北京にある北京航空航天大学に進学。卒業後は、フランス系企業でソフトウェアエンジニアとして世界中の顧客を相手にハードワークをこなす。2010年長江商学院MBA入学。授業中、最も多く発言する学生のひとりで、長江アセットマネジメントクラブのリーダー。2006年に結婚し、子供を育てつつ、ハードな勉強をこなす努力家。

貧しい中で学費を貯めてくれた両親に感謝。成績トップ、リーダーを務めた中高時代。無試験で大学に進学

Q. 両親はどんな人?

A. 生まれた頃は、両親は農業で生計を立てていたが、私が8歳ぐらいの頃に父親が会社を立ち上げ、ピーク時は20人ぐらいの従業員を有する規模の会社にまで成長していた。教育に関してはとても寛容な両親だった。工業学校の学費は高かったが(当時、年間2千元)、親は私の進学のためにお金を貯めてくれ、両親にはとても感謝している。妹は高校卒業後に成都で働き始め、昨年結婚し、今は北京で生活している。幼少の頃は妹をよく世話し、今も仲の良い関係が続いている。北京では家も近く、よく食事や遊びに行ったりしている。

Q. 中学、高校時代はどんな人だった?

A. 中学では成績トップで、成都にある成都航空工業学校に進学。4年間のうち、最初の2年間は一般の高校と同じ科目を学び、3,4年時は機械工学を学んだ。生徒会の委員を務め、工業学校時代からリーダーシップを発揮できていたと思う。成績はトップで、北京にある北京航空航天大学へは試験を受けずに進学できた。同級生の多くは工業大学卒業後、働き始めた。
大学では工業学校に引き続き機械工学を専攻し、一生懸命勉強した。大学2年の後半から企業でインターンシップを経験したり、ゼミに入り専門性を磨いていった。大学でも生徒会に入り、リーダーシップを鍛えた。大学院では組み込みシステム(エンベデッドシステム)を専攻した。

エンジニアから金融へキャリアチェンジをめざして決めた長江商学院への入学。ビジネスで成功して家族と世界中を旅したい

Q. これまでのキャリアは?

A. 大学院で組み込みシステム(エンベデッドシステム)を専攻し、それを活かすためにフランスに本社を置くマルチメディア企業のトムソンでソフトウェアエンジニアとして働き始めた。トムソンでは世界中の顧客やチャイナモバイルなどの中国大手企業を相手にビジネスをし、かなりハードに働いた。トムソンで3年が経過し、プログラムマネジャーに昇格、よりビジネスサイドの仕事が増えていった。この頃からビジネス自体に興味を持ち始め、MBAやベンチャービジネスなどエンジニアサイドからビジネスサイドに舵を切ろうと思い始めた。MBAの前に、金融系テクノロジーベンチャー企業でセールスマネジャーとして金融機関向けのソフトウェアツールの販売や事業開発に従事。従業員は皆エネルギッシュでベンチャー企業の良さを経験できた。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A. 以前から金融に関心があり、自分で株式投資をしたり、金融の勉強をよくしていた。MBAを通して金融へのキャリアチェンジをしたい。嫁や子供のことを考えると、北京を離れることはできず、自然と長江商学院を選択した。教授は世界中から招聘されており、学生のレベルもトップクラスで非常に満足している。また、中国一のビジネスネットワークを有しており、人脈形成には最適なMBAだ。実際、長江アセットマネジメントクラブを設立し(25人参加)、卒業生とよくコンタクトをとるが、この人脈はすごいと思う。皆親切で、経験をシェアしてくれとても貴重なネットワークだ。

Q. 卒業後の方向性は?

A. 卒業後は、アセットマネジメント会社で働きたいと願っている。ウォーレンバフェットのような世界的な有名なファンドマネジャーになりたい。また、ベンチャーキャピタルも魅力的な職業だ。エンジニアとして豊富なバックグランドがあり、これを活かして中国から世界的なテクノロジー企業を育てたいと願っている。十分なお金を稼いで、家族を幸せに、世界中を家族とともに旅行したい。

Q. 80年代生まれはどんな印象?

A. 個人的な意見だが、70年代は伝統的、勤勉、自己統制ができるが、ちょっと退屈な人間だと思う(自分を含め)。一方、80年代は一人っ子政策の影響もあり、甘やかされて育っていると感じる。責任感もやや弱い。ただ、彼らの創造力、エネルギッシュなところはすごいと思う。



第5回 長江商学院MBA Coco(女性)28歳

(写真)北京郊外で、戦場さながらのリアル対戦型レイザーシューティングゲームで遊んできました。 勉強と同様に、遊びもみんな本気モード

<プロフィール>
1982年生まれの一人っ子、吉林省出身。母親は中学校の数学教諭で、教育熱心な家庭に育つ。母親の影響もあり、中学・高校では猛烈に勉強し、成績トップクラスで卒業。大学では得意の数字が活かせる会計を専攻。大学卒業後は、企業内コントローラーとして、外資系企業3社で経験を積んできた。将来はCFO(最高財務責任者)を目指しており、そのために幅広いマネジメント知識が必要と感じ、長江商学院MBAに入学。今週末に、日本で7年間留学仕事経験がある彼との結婚式を控え、勉強と結婚式の準備に大忙しの日々を送っている。

「暇があったら勉強しなさい」が口癖の母と、遊びに連れ出してくれた父。猛勉強で地元のトップ大学へ

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A. 父親はプラント会社勤務、母親は中学校の数学教諭で教育熱心な母だった。母親からは「暇があったら、勉強しなさい」というよく叱られたものだ。父親は勉強ばかりしている私を見て、外に遊びに連れて行ってくれた。寛容で優しい父親だ。

Q. 中学、高校、大学時代はどんな生活だった?

A. 中学では最初の2年間、母親が私の数学の先生で、とにかく数学だけは一番を目指して勉強していた。基本的に勉強は好きで他の科目もよくでき、中学卒業時の試験では全学年で3番の成績だった。高校でも勉強の毎日で、成績は常に上位5番以内。しかし、大学入学ための全国一斉テストの結果は北京の有名大学の入学基準にあと一歩届かず、地元の吉林省長春にある有名大学に入学することになった。高校の同級生の半分は大学へ、半分は軍隊に入隊した。軍隊に入った同級生は3年ほど勤務した後、親の会社か政府が用意する国営企業に就職するのが一般的だ。大学ではCPA(公認会計士)の勉強に特化したクラスに入り、会計や経済系の科目を中心に勉強した。

年収は国営企業の2倍。外資系企業3社を渡り歩いて、アパートはすでに購入済み。夢は外資系企業のCFO。同郷の彼ともうすぐ結婚

Q. これまでのキャリアは?

A. 大学での専攻を活かし、企業内コントローラーとして、単身、故郷から遠く離れた江蘇省蘇州にあるシンガポール系半導体企業でキャリアをスタート。2年後、世界的に有名なドイツ系紙パック製造会社に転職。ここのCFOに特に気に入られ、職場環境や待遇はとてもよかった。一般的に、外資系企業の給料は中国企業の1.5倍から2倍程度で魅力的。大学では貧乏生活だったが、社会人になってからは稼いだ給料で、大好きな洋服や化粧品などを買いまくった。銀行からお金を借りてアパートを買ったため、貯金はあまりしなかった。職場はとても気に入っていたが、蘇州が上海に近いこともあり、気候や方言などの違いに数年経っても馴染めず、北京に行くことに決めた。外資系風力発電会社にマネジャー一歩手前のコントローラーとして転職した。北京は私にとってはとても過ごしやく、大好きな街。中国は広いので、自分にあった街を選ぶことは大事だと思う。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A. 将来はCFO(最高財務責任者)を目指しており、そのために幅広いマネジメント知識が必要と感じていた。また、今後も外資系企業で働きたいので、英語で行われるMBAを探していた。長江商学院は中国ではとても有名なビジネススクールで、卒業生のビジネスネットワークは魅力的だ。

Q. 卒業後の進路は?

A. これまでは会計実務に関わる仕事が多かったので、卒業後は財務実務に従事し、CFOに必要な業務を幅広く経験していきたい。また、早期にマネジメントポジションに就きたい。前の会社のCFOからは卒業後に戻ってこないかと誘われている。合弁相手探しやデューデリジェンス業務、コマーシャルマネジメント業務などができるようだ。だが、既に他の会社にもアプライしており、最終的には複数の選択肢から自分にベストな進路を決めるつもりだ。今週末に彼との結婚式を控えており、今後はワークライフバランスを大事にしていきたいと思う。彼と私の実家は近く、両親もお互い直ぐに会え、とても喜んでくれている。彼は日本で7年間、大学留学や仕事の経験があり、一度は日本に遊びに行ってみたい。



第6回 長江商学院MBA James(男性)27歳

(写真)訴訟に発展した中国企業と欧州企業の合弁企業のケーススタディで、2チームに分かれ、ディベート。アナウンサー並みの表現力を誇るアメリカ人アダムがロジカルに主張を展開しています。

<プロフィール>
1983年生まれの一人っ子、江蘇省塩城出身。父親は共産党員として地方政府に20年間以上勤務、母親は医薬品を販売する会社を起こし、自ら経営。大学時代に共産党員の活動に熱心に取り組み、共産党員の資格を取得。卒業後は、外資系企業3社を渡り歩いた後、長江商学院MBAに入学。卒業後は、金融関係に就きたいと考えているが、大学時代の多くの友人が共産党員として地方政府で働いていることもあり、彼らとともに会社を起こすのが将来の夢。

両親から人間関係やビジネスの基本を学ぶ。「まず先に人に協力や時間を惜しみなく与えよ。そして、信頼を勝ち取れ」

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A. 父親は若い頃は玩具製造企業で働いたり、起業して会社経営をしていた。その後、父親の学生時代の友人で地方政府の市長をしている友人がおり、その友人のコネで地方政府に勤務することになった。それ以降、もう20年以上地方政府で働いている。母親は医薬品を販売する企業を設立し、小さいながらも会社経営に従事している。両親は教育に関して私に何も言わなかったが、しつけに関してはひとつだけよく言われたことがある。「友人や仕事仲間に対しては、まず自分から先に協力や時間などを惜しみなく与え、相手の信頼を勝ちとっていくことが大事だ。」特に、会社経営をしている母親からよく言われた言葉だ。

Q. 中国社会ではやっぱりコネは重要?

A. 父親は地方政府の市長をしていた友人のコネのおかげで、地方政府に勤務することができた。母親は会社経営をしていたが、地方政府に勤務する父親の協力を得てビジネスを拡大することができた。中国でビジネスを展開しようとすると、地方政府との関係がとても重要だ。

大学時代は共産党員の活動に熱心に従事。遠い将来はそのメンバーとともにビジネスをするのが夢。

Q. 中学、高校、大学時代はどんな生活だった?

A. 中学、高校ではよく勉強し、歴史や地理が大好きだった。多くのクラスメイトは清華大学、北京大学など中国でトップ15の大学に入学、20名ほどは空軍に入隊した。軍隊に入隊すると毎日忙しく危険も伴うが、20年ほど勤めた後、地方政府から生活が保証されるので会社勤めより生活は安定すると思う。
私は地元の江蘇省のトップクラスの南京農業大学社会学部に進学した。大学時代もよく勉強したが、共産党員の活動に加わり、4年間熱心に活動した。卒業時に共産党員の資格を得たが、大学卒業後は国営企業ではなく、外資系企業で働いた。そのメンバーの多くは共産党員資格を得て、卒業後は地方政府で働いている。将来地元でビジネスをする際は、強力なコネになると思う。
大学時代は経済科目を熱心に勉強したが、放課後はよく英語塾に通っていて、そこでスピーキングスキルを徹底的に磨いた。大学時代に英語は自信がつくまでになった。部活は卓球、アルバイトは全くしていない。私の頃は、大学時代にアルバイトをする人は少ない。

Q. これまでのキャリアは?

A. 大学卒業後は、上海で3社の外資系企業で働いた。1社目は世界的にも有名な米国企業、Dun&Bradstreet International Consultingでビジネスアナリストとして働いた。過去4人の米国大統領が勤めた会社だ。2社目、3社目もビジネスアナリスト、コンサルタントとして外資系企業で懸命に働いた。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A. 長江商学院、CEIBS、北京大学の中からもっとも自分に合うところが長江商学院だった。ヨーロッパの有名なMBAや日本の一橋大学にも出願しようとしたが、TOEFLがあと一歩届かず、結局長江商学院に決めた。卒業後は、金融関係の仕事に就きたいと考えており、長江商学院はファイナンスがもっとも強く、ファイナンスに強い教授陣や科目が充実している点が魅力だった。

Q. 卒業後の進路は?

A. キャリアチェンジをして、金融の仕事に就きたいと思う。アセットマネジメント会社での資産運用業務や大手企業の戦略部門が魅力的だ。母親の影響もあり、将来は地元で起業して自分の会社を持ちたい。大学時代に共産党員として一緒に活動したメンバーの多くが、現在地方政府で働いているので、遠い将来は彼らとビジネスをやりたい。地方政府とのコネは私の大きな武器のひとつだ。



第7回 長江商学院MBA Desmond(男性)28歳

(写真)北京で行われた東日本大震災チャリティイベントに参加してくれたクラスメイトたち。いち早く日本が復興できると彼らは信じてくれています。

<プロフィール>
1982年生まれの一人っ子、湖南省出身。地方企業に勤める両親のもと、比較的貧しい家庭に育つ。大学では珍しく中国農業大学で栄養学科を選択。母親の影響もあり、食品に興味があり、大学卒業後はカップ麺や飲料で有名な康師傅(カンシーフー)でプロダクトマネジャー、乳製品大手の中国蒙牛乳業でブランドマネジャー、アサツーディ・ケィ(北京支社)で広告マンを経験し、長江商学院MBA入学。クラスメイトをとても大事にし、元広告マンらしくとてもおしゃれなバーリンホー。

親から口酸っぱく言われたのは、「お金のために働くな。人を大切にし、社会に貢献せよ」

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A. 父親は印刷会社、母親は食品会社で働いていた。家庭環境は平均以下で、比較的貧しい家庭だったと思う。中国はここ10年、金持ちになることが大きなゴールと考えられているが、私の母親は「家族・人を大切にし、社会に貢献することが一番大切だ」と私によく言ってくれ、今の私の考え方に大きな影響を与えている。両親は私の教育に関しては厳しくはなかったが、独立心を持ち、責任感を持って生きるようによく言われた。

Q. 中学、高校、大学時代はどんな生活だった?

A. 中学、高校は数学が得意だったが、MBAの同級生と比べると成績はそれほどよくないと思う。田舎育ちだったので、大学はとにかく憧れの北京に行きたかった。当初は大学でエンジニアを専攻したかったが成績が届かず、結局、母親の影響で食品に興味があったので中国農業大学栄養学科を選んだ。全体で68名、男女比は1:1、ほとんどが北京以外出身で地方色豊かだった。大学でもよく勉強した。英語に関しては、同級生の多くが海外への留学を希望していたので、私も負けないようにしっかり勉強した。卒業後、女性の半分は大学院へ、男性の大半は就職、3人が大学院へ海外留学した。

若くしてブランドマネジャー、ADKで広告マンを経験。将来は急成長する中国食品市場で自らコンサルティング会社を設立するのが夢

Q. これまでのキャリアは?

A. 卒業後は、栄養学科で培った食品の知識を活かすべく、中国最大手の食品事業グループ康師傅(カンシーフー)(台湾企業)でアシスタントプロダクトマネジャー(北京担当)として働き始めた。ここの上司が素晴らしい人で多くのことを彼から学ぶことができた。上司の推薦で、その後、乳製品メーカー大手の中国蒙牛乳業にプロダクトマネジャーとして転職。あの頃の食品産業は中国の経済成長に伴い、急速に発展しておりどんどんマーケティング施策が功を奏し、とても楽しかった。蒙牛では中国全土をカバーでき、1年後にはブランドマネジャーに昇格。マーケティングの立案、予算の作成・実行とブランド全体のマネージができた。蒙牛は設立1997年で従業員が比較的若く、若手にどんどん仕事を任せてくれる元気のある企業だった。蒙牛在籍時に既に長江商学院MBAに入学が決まっていたが、入学までまだ1年あった。ちょうどその時、蒙牛の広告代理店だったADK(アサツーディ・ケィ)(北京支社)のジェネラルマネジャーから、MBAに入学するまでの間ADKで働いてみないかと誘いを受け、働くことに決めた。これまでのメーカーサイドからコンサルティング・サービスサイドへの転職はとてもよい経験になった。ADKは職場の雰囲気がよく、楽しく生き生きと仕事ができた。

Q. これまでのところ長江商学院MBAはどんな感じ?

A. とても満足している。最も貴重な財産は優秀なクラスメイトに尽きる。この家族的なつき合いが好きだ。将来は彼らと一緒に協力してビジネスを手がけていきたい。

Q. 卒業後の進路は?

A. 卒業後は、マッキンゼー、ボストンコンサルティングなどマネジメントコンサルティング会社でまずは働き、自分に箔をつけ、マネジメントに関するコンサルティング力をつけたいと考えている。なぜなら、将来は自分で会社を持ちたいと考えており、中国企業の大半を占める中小企業をターゲットに、コンサルティング、特に成長著しい食品関連やマーケティングのコンサルティングを手がけていきたいからだ。



第8回 長江商学院MBA Audrey(女性)32歳

(写真)第7回に登場したクラスメートのココと北京コンシェルジュ勤務の孫さんの結婚披露パーティー。クラスメートと北京コンシェルジュの皆さんで彼らの新たな門出を祝いました。

<プロフィール>
1979年生まれの一人っ子、北京出身。両親、祖父母ともに高等教育を受けた家庭に育ち、学生時代、勉強は常にトップ。一方、ヴィオラ奏者として北京で最も有名な楽団で演奏を6年間続けた。大学・大学院は北京航空航天大学で飛行機に応用される自動制御工学を専攻。卒業後は、ドイツ系ロジスティクス企業DHLでプロジェクトマネジャーを経験。MBAでマネジメントを学び、今度は中国企業(ベンチャー)で会社全体をマネージするのが目標。

教育熱心な家庭に育ち、勉強は常にトップ。学生時代一番夢中になったのはヴィオラ

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A. 父親は共産党員、エンジニアとして政府系通信社の新華社に勤務、母親は薬剤師として病院に勤務していた。祖父も新華社勤務で、日本で8年働いたことがある。祖母は学校の先生だった。両親、祖父母ともに高等教育を受けた家庭に育ったので、教育に関しては厳しかった。一方、母親からはバイオリンを習うように薦められ、8歳の頃に習い始めた。その後、北京で一番有名な楽団にヴィオラ奏者として参加し、度々大きな舞台で演奏できたのはとても楽しかった。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A. 親の影響もあり勉強はよくしたし、いつもクラスでトップだった。ヴィオラは、平日は自分で練習し、週末にオーケストラメンバー全員で練習した。とにかくオーケストラの先生は厳しいことで有名で、たくさん彼女に叱られ、わんわん泣いた思い出があるが、その分、厳しい環境の中でヴィオラを6年以上続けたことで忍耐強くなり、それが今の私の強い精神力につながっていると思う。それに、その先生があまりにも人に対して厳しい人だったので、私は人に対しては寛容にしようと決めたのを覚えている。仕事をしているときも顧客や同僚、部下に対しては寛容で、相手の気持ちを考えて行動できるようになった。
大学は、当時(1997年)人気があった自動制御工学(Automatic Control)を専攻するために、中国最高峰の航空宇宙分野の高等教育機関である北京航空航天大学に入学した。大学でもトップの成績で、大学院に進学するときは無試験で入れた。勉強以外に、大学時代は合唱団に入り指揮者をしたり、卓球クラブに入ったり、大学院時代は劇団に入団し、劇を演じたりして幅広く活動した。これらも小さいころからヴィオラの厳しい練習に耐え、厳しい先生の下で鍛えられたおかげだ。でも一番好きなのはヴィオラじゃなく、ダンス!大学で社交ダンスを習い、MBAに入学してからはベリーダンスを楽しんでいる。

ドイツ系ロジスティクス企業でプロジェクトマネジャーを経験するも、外資系企業に限界を感じ、MBAに入学。卒業後は、中国企業で自分の力を思いっきり試したい

Q. これまでのキャリアは?

A. 卒業後は、ドイツ系ロジスティクス企業のDHLで6年間働いた。当初はソフトウェアエンジニアとして働き始めたが、次第にプロジェクト全体を任せられるようになり、入社3年後にプロジェクトマネジャーに昇進した。とても優れた会社で大きく成長できたし、仕事内容も満足している。6年目には週1回中国全体の経営戦略会議に出席でき、上司も私のことを高く評価してくれていたが、上司は外国人が多く、戦略も他の国のものに従うことが多く、中国にある外資系企業の窮屈さを感じざるを得なかった。やりたいことができないし、自分のキャリアの天井が見えたという感じだろうか。もっと責任があり、仕事が任せてもらえるポジションに就きたいと思い、長江商学院MBAに入学し、マネジメントや戦略を学び、ステップアップしたいと考えている。

Q. 卒業後の進路は?

A. 卒業後は、私営の中国企業に勤めて(ベンチャーでもいい)、自分の力を思いっきり試したいと思っている。とにかく会社のゴールの設定から、戦略立案・実行、ファイナンスまで経営に関わることすべてに関わっていきたい。長江商学院EMBAの卒業生からはこのようなオファーはたくさん貰っているので、卒業までに自分に合う一番の企業を選びたいと考えている。



第9回 長江商学院MBA Robert(男性)30歳

(写真)授業中の質問回数はクラス一。成績、同級生と学校からの評価もクラス一のロバート

<プロフィール>
1980年生まれの一人っ子、遼寧省丹東出身。両親ともに同じ国営製紙メーカーに勤め、普通の家庭に育つ。学業は常にトップ。大学は清華大学生物医学部に入学。大学時代は、生体の機能・役割を科学的なアプローチで研究、コミュニティ活動では会長を経験。卒業後は、医療ビジネスに興味が高かったので、東芝(メディカル部門)、アメリカ系Chindex社、中国系Mindray社でマーケティングディレクターを務める。とにかくチャレンジ大好きで、クラス一の秀才。妻と子供と3人暮らし。

根っからの秀才タイプで、清華大学生物医学部に楽々入学。卒業後、渡米し博士号を取得する多くの同級生とは違って、医療ビジネス界で活躍を目指す

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A. 両親ともに国営製紙メーカーで働いていた。地方では大きな会社で、雇用は安定していた。しかし、1980年代半ばから中国が計画経済から市場経済に移行したのを機に、会社の業績は一気に悪化し、午前中だけの勤務になったり、50歳の頃に退職を強いられるなど、家庭環境はそれほどよくなかった。親の教育に関しては、私は勉強がよくできたので勉強に関して親から特に指示されたことないが、生活習慣などのしつけに関しては厳しかった。早寝早起き、礼儀正しさ、指示に従うなど基本的なことだが、徹底的に親がしつけてくれた。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A. 中学、高校は勉強一本だった。他の同級生も皆同じ。当時、中国、特に私の地方では勉強だけが豊かな人生を送れる唯一の道だったと思う。常にクラスでトップだった。大学は競争倍率100倍以上の清華大学生物医学部に入学。この学部は生物学と医学を組み合わせ、科学技術を用いて生体がどんな機能や役割を有するのか研究する学問。大学時代は生物医学にとても興味があったので勉強はよくしたが、パートタイムジョブやコミュニティ活動の会長を経験するなど積極的に勉強以外の活動に参加した。卒業後、同級生の半分は研究と博士号の取得にアメリカに行った。中国では教授やエンジニア・科学者はとても尊敬されており、私もその道に行こうと考えたこともあったが、自分はビジネス向きだと認識していたので、卒業後すぐに働き始めた。

とにかくチャレンジングな会社で働きたい!Mindray社勤務時代はタイ支社を自ら設立、20代ながら20人をマネジメントした

Q. これまでのキャリアは?

A. 大学卒業後、北京にある東芝(メディカル部門)で働き始めた。大学時代、生物医学を専攻したため医療ビジネスに興味があり、当時、中国の医療ビジネスで先頭を走っていた東芝に決めた(2002年7月)。東芝は1980年から中国でビジネスを開始し歴史が長く、GEなど欧米系大手メディカル企業は後発組だ。現場の社員はほぼ中国人、日本人は管理職が多かったので、現場で働いていた私にとっては中国企業色が強かった。入社半年は研修で、その後、山東省や河北省のセールスを担当した。東芝で1年が経ち社会人生活もようやく慣れてきた頃に、会社から中国南西部への赴任を命じられ、恋人や北京から離れるのが嫌だったので、アメリカ系Chindex社に転職した(2003年7月)。
 ここではセールスを経験後、マーケティング部に移動になり、中国国内のマーケティングを徹底的に学ぶことができた。約3年が経過したとき、医療業界で急激に業績を伸ばしていた中国企業Mindray社が国際マーケティングの職を募集していたので、得意の英語とこれまでのマーケティング経験を活かしたいと思い、Mindray社に転職した(2006年2月)。
 Mindray社は2006年にニューヨーク証券取引所に上場、年率50~80%の成長率を達成、数少ない中国企業でグローバル化に成功した企業だ。コアコンピタンスは、日米欧に比べて安い労働力(研究開発費)と日米欧が積極的ではない新興国にターゲットを絞った点だ。1991年設立と比較的新しい企業だが、品質面もようやく日米欧企業に劣らない水準まで来ていると思う。私はアジア全域を担当し、よく日本にもビジネスで行ったが、結局、日本の当局の販売許可が下りず、日本は断念したのを覚えている。タイでは自ら支社を開設し、そこのトップを務めた。ローカル人材も採用し、20名をマネジメント、とてもやりがいと責任のある仕事をできとても満足している。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A. きっかけは、ここ数年会社の成長速度が落ちてきて、以前ほどチャレンジングな仕事ではなくなった点だ。長江商学院は英語で行われ、ビジネスにフォーカスした学校なので、とにかく教授の質が高い。ここに集まるクラスメイトの質も高く満足している。8月から交換留学でコロンビアビジネススクールに3か月ほど行くので、アメリカの医療ビジネス業界を研究してきたい。

Q. 卒業後の進路は?

A. 卒業後は、とにかく勢いのある医療ビジネスを行う企業で会社全体をマネジしていくポジションに就きたい。私はとにかくチャレンジングな仕事が好きなので、どんどんチャンレンジさせてくれる企業がいい。将来は(40歳以降)、小さい頃の夢だった教授になるか、チャンスがあれば自らビジネスを立ち上げる予定だ。



第10回 長江商学院MBA Penny(女性)31歳
出産もキャリアアップのチャンスに。MBA取得めざすアラサーママ

(写真)留学生にとことん親切なペニー。チューリップ満開 の北京森林公園で

<プロフィール>
1979年生まれの一人っ子、江蘇省出身。父親は軍事医、母親は中国語の教師で、高等教育を受けた両親のもとに育つ。学生時代は英語が大好きで、度々英語スピーチコンテストに出場し、賞を獲得。大学卒業後は、中国系、米系のソフトウェア企業でマーケッター、特にPRスペシャリストとして勤務。既婚で、子育てと勉強を両立させつつMBA生活を送っている。

中学1年時で早くも留年を経験し、人生の大きな転換点に。学生時代は度々英語スピーチコンテストで賞を獲得

Q. 子供の頃、両親はどんな人だった?

A. 父親は共産党員、軍事医として長い間軍隊で勤めていた。退役後は国営病院を経営するポジションに就いた。母親は中国語の教師だった。両親ともに普段は教育、しつけは厳しくなかったが、私が小学校では遊んでばかりであまり勉強せず、中学に入っても勉強に集中していなかったので、母親が教師と相談し、私を2年生に進級させず、1年生をもう一度させることに決めた。私はとてもショックで、同級生に対しても恥ずかしかったが、この時から勉強に一気に集中するようになり、その後はずっと成績はトップクラスだった。これは人生の大きな転換点だった。それと、両親は医者や教師として勤めた経験から人に対する思いやりや責任感が強く、私の個性によい影響を与えてくれている。

Q. 学生時代はどんな生活だった?

A. 前述の中学1年時で出会った人生の転換点から、中学、高校ではよく勉強した。特に英語が好きで、よく英語のスピーチコンテストに出場し、多くの賞を取った。これは小学校の時にコーラス部に入って歌を歌うのが大好きで、人前で披露するのが得意だったことも影響していると思う。大学は中国語と英語をさらに深く勉強したかったので、北京第二外国語学院に進学し、国際コミュニケーション学を専攻した。中国語クラスは中国文化、文学、歴史など、英語クラスは総合英語で幅広い教養を勉強した。大学でも引き続き英語スピーチコンテストに度々出場し、学内コンテストで2番の賞を取ったときはとても嬉しかった。

得意の英語とコミュニケーションスキルを活かし、外資系企業のマーケッターに。ただし、外資系企業の昇進基準に不満を抱き、MBAで人生ひと休み

Q. これまでのキャリアは?

A. 英語でのコミュニケーションが得意だったので、マーケティングが自分に合っていると思い、大学卒業後、中国系ソフトウェア企業Beyondsoft社でマーケティング担当として働き始めた。1年後、もっと英語を活かしてマーケティングをやりたいと思い、米系大手ソフウェア企業Sybase Software社にPRスペシャリストとして転職した。ここでPRに関わる仕事をひと通り経験できたのは良かったが、PRエージェンシーに頼ることも多く、主体的にビジネスを回せていたとは言いがたい。社員はとても優れており、いい人が多かったので、不満に思いつつも4年間も働いた。ちょっと後悔。その後、米系半導体ソフトウェア企業ALTERA社でシニアマーケティングコミュニケーションスペシャリストとして働いた。ALTERA社は世界中でビジネスを展開しており、マーケティング担当として常に海外オフィスと連絡を取りながら仕事をし、グローバルな環境の中、得意の英語とマーケティングをフルに活かせ、とてもやりがいがあった。ここでも約4年間働き、多くの経験が蓄積でき、満足している。

Q. なぜ長江商学院MBAを選んだの?

A. Sybase社やALTERA社でも同じことが言えるが、外資系企業の場合、どうしてもキャリアに天井が見え、かつ、昇進の尺度が不明確で、昇進に関して不満があった。それと、2009年に子供が生まれ、大学卒業後9年間働き続けひと休みしたかったので、MBAで人生の休息を取りつつ、新たな道を探そうと思い、ビジネスでは有名な長江商学院MBAに入学した。

Q. 卒業後の進路は?

A. 卒業後は、マーケティング部門のマネジャーポジションにまずは就きたい。遠い将来は子ども教育のビジネスを自分でやりたい。具体的にはこれまでも英語が得意だったので、小学入学前の子どもに対する英語教育に力を注ぎたいと考えている。