第1回 中国でパン屋。無謀なる冒険の始まり

2005年7月27日にベーカリーショップ「ガンガンデリカテッセン」を天津にオープンしてから約6年が経つ。現在は、北京、天津と併せて3店舗を経営している。これまでの経緯をザッと振り返りたい。
僕の大学時代は、どのように形容したらそれは正確なのかうまく言えないが、平凡と言えば、平凡。変わっていると言えば変わった生活を送っていた。共同経営者である岡田信一とは1997年に大学に入学して以来のつき合いで、理系(私)文系(岡田)、学部、学科も違う間柄だが、なんだかウマが合うという関係だった。退屈な毎日を埋めるために、僕達は“何か”をしていた。学祭でキャバクラをやってみたり、荒川をゴムボートで下ってみたり……。そんなクダラナイ充実した日を送り、2001年に大学を卒業すると、僕達はそれぞれ違った進路を歩み始めていった。1人はアパレル(岡田)、1人は外食(羽深)へと。
それから2年ほどが経ち、僕は、古い体質の会社と変わらない日々に嫌気がさし、何も目標もないまま会社をやめてしまった。

「中国にはおいしいパンがない」

そんな時に父親からある噂を聞いたのである。「中国にはおいしいパンがない」と……。
目標もなく、仕事もなく、独身だった僕は、このちょっと変わったことに心を強く惹れてしまい、深い考慮もないまま決断。
パンを作るには、パンの技術が必要で、そのためには……と、頭によぎったのが岡田の存在。いつも行動をともにし、パンが大好きだった岡田と一緒に事業を始めれば、楽しく過ごせるんじゃないかと……。
案の定、彼も即座に決断。そこから岡田はパンの修業に。2003年、25才の僕は先に中国に乗り込み、市場調査と語学習得に。
ここで僕の中国の父親とも言うべき存在のワンさん(王偉)に会う。彼は、父親が経営する会社の取引先の総経理であり、中国のことが何もわからなかった僕に世話を焼いてくれた人だ。毎日のように食事に連れて行ってくれて、時には中国式のホステスさんの入るカラオケにも連れて行ってくれた。友人も知人もいない僕には、かけがえのない存在となった。
僕の父は電子部品関係の経営者であり仕事も忙しく、母親とは離婚もしているので、小さい頃から父親の存在というものをあまり感じずに育った。僕は、父親の子どもに対する愛情、献身というものを王偉さんとの関わりから初めて感じたのである。これは、ガンガンの考え方に大きく影響を与えたと思う。

なぜか、カレー屋

そして、日本人をできるだけ避けて語学の習得に専念した1年が過ぎて、2004年に僕は天津理工大学の学内にある学生食堂でカレー屋さんをオープンする。
ここでガンガンのスタッフ第1号となるヤオ・ユエン(姚媛)に会う。彼女は前述のワンさんの紹介で入社(当時会社と呼べるような規模ではないけれど)してきた女の子だ。
なぜカレー屋さんなのか……という微妙な疑問を持たれるかと思うが、まずは実験的に何かをしなければならないということで、鍋1つでできるカレー屋さんをと始めたのである。そんなカレー屋さんは、1年で閉店に追い込まれる。




(写真)13人の中国人幹部と、筆者(中央・グレーのTシャツ)、その向かって右隣りがパートナー・岡田信一


パン屋、内資でスタート、そして独資へ

そしていよいよ、2005年に現在も存続するベーカリーショップ「ガンガンデリカテッセン」がオープンする。どんなに小さな規模でも、独立すれば周りのつき合いも変わり、いろいろな話が出てくる。そんな中でつかんだのがこの店舗だ。ここからは、正式に会社登記にはいる。
資本金の問題により中国の内資企業を立ち上げたのだが、僕と岡田のビザが出ない。会社登記上に僕達2人の名前はない。いずれ正式に外資を含んだ会社にする必要があった。
そして、行政手続き、財務コンサルティング会社を経営するジャンさん(張誕)と出会う。僕が七転八倒していた手続きを、彼は魔法のように凄いスピードで片づけてしまったのである。正式に合弁会社が立ち上がり、経営も軌道にのりだし、いよいよ支店の話が上がったのである。
2007年6月、場所は、天津経済開発区に位置する某5星ホテル。
そのコック長としてシャオリュウ(劉延民)を登用する。彼は今でもガンガンで働く優秀な幹部の1人だ。そして、そのまま同じ年の10月に北京にて共同経営という形をとり3店舗目となるお店を出店する。このまま勢いにのって……とは、うまくいかない。まだまだ若すぎる僕達には、この後大きな落とし穴がまっている。

開発区の店舗をオープンしてから半年が過ぎた頃である。もともとホテルの朝食で使用するパンを買い上げてくれるという条件のもと、出店を決断したのだが、その買い上げを断ってきたのである。売上もやっとのこと損益分岐を迎えたところで、売上の25%をしめていた朝食代がなくなっては経営が不可能である。ホテルとの関係作りもうまくいっておらず、僕はすぐに撤退を決断した。
決断が早かったので、累積赤字は最小限に防ぐことができたが、この出来事で、改めて仕事の進め方を学んだ。ビジネスをする中で、避けるべきことは、自分自身がコントロールできない領域を多く持ってしまうことだ。

ストライキ、コック長疾走、試練連発

さて、そんな撤退という苦渋を舐めた僕達には更なる試練が待っているのである。
従業員ストライキ。
開発区の閉店を機に、開発区内の輸入食材スーパーなどの店舗に卸していたパンを天津本店にて製造することに移行した。その瞬間に天津本店にてストライキが起こった。仕事量の増加により従業員の不満が一気に爆発したのである。
ただ、この経験も僕達にとってはよい機会となった。信頼できるスタッフと信頼できないスタッフ、そしてこの先どのように従業員達とつき合っていくか。
さらに待っていたのは、北京のコック長を勤めていたしゃおちぇん(陳遅来)の失踪事件。
僕達は、このような経験の中で、組織をどのように運営していったらよいかを学んできた。そしてその大きな一助となったのが小島庄司さん。会社の基礎となる就業規則、そして昇給制度の確立。人事労務のプロとしてわが社の骨組みの設計に携わってもらった。

そして、2010年7月30日に4店舗目となるお店を天津にてオープンさせる。この設計を受け持ってもらったのが東福大輔さん。北京で活躍する建築家だ。この新店舗、パン屋でなく、レストランと輸入品を主体とした食品を取り扱うスーパーを含んだ新しい業態をスタートさせたのである。

ここで、キャッシュ不足を経験。内装費の支払いを一括でなく、分割支払いを行い、その支払い根拠を毎月の会社のキャッシュの増加に頼るという計画で始めたのである。
計画通りに行く訳もなく、このまま新店舗を続ければ会社にキャッシュが足りず倒産してしまうという危機に陥ってしまった。ここで僕の父・羽深英勝にお金の工面を頼む。投資ではなく借金という形で。

現在、僕達はよきスタッフとよき協力者に囲まれ、苦しくも楽しく会社を運営している。僕はこの場を借りて、ガンガンの文化とは、僕達がなすべき事はなにか?ということを自分自身に問いただしながら、これから筆を進めていくつもり。


HabukaTakeshi

投稿者について

HabukaTakeshi: 生年月日:1978年12月25日 血液型: O型 出身地: 日本国静岡県袋井市 大学卒業後、サラリーマンを2年経験、退職後中国に渡りパン屋をオープン。 趣味は、バスケットボールとボードゲーム。