第1回 中国でパン屋。無謀なる冒険の始まり

2005年7月27日にベーカリーショップ「ガンガンデリカテッセン」を天津にオープンしてから約6年が経つ。現在は、北京、天津と併せて3店舗を経営している。これまでの経緯をザッと振り返りたい。
僕の大学時代は、どのように形容したらそれは正確なのかうまく言えないが、平凡と言えば、平凡。変わっていると言えば変わった生活を送っていた。共同経営者である岡田信一とは1997年に大学に入学して以来のつき合いで、理系(私)文系(岡田)、学部、学科も違う間柄だが、なんだかウマが合うという関係だった。退屈な毎日を埋めるために、僕達は“何か”をしていた。学祭でキャバクラをやってみたり、荒川をゴムボートで下ってみたり……。そんなクダラナイ充実した日を送り、2001年に大学を卒業すると、僕達はそれぞれ違った進路を歩み始めていった。1人はアパレル(岡田)、1人は外食(羽深)へと。
それから2年ほどが経ち、僕は、古い体質の会社と変わらない日々に嫌気がさし、何も目標もないまま会社をやめてしまった。

「中国にはおいしいパンがない」

そんな時に父親からある噂を聞いたのである。「中国にはおいしいパンがない」と……。
目標もなく、仕事もなく、独身だった僕は、このちょっと変わったことに心を強く惹れてしまい、深い考慮もないまま決断。
パンを作るには、パンの技術が必要で、そのためには……と、頭によぎったのが岡田の存在。いつも行動をともにし、パンが大好きだった岡田と一緒に事業を始めれば、楽しく過ごせるんじゃないかと……。
案の定、彼も即座に決断。そこから岡田はパンの修業に。2003年、25才の僕は先に中国に乗り込み、市場調査と語学習得に。
ここで僕の中国の父親とも言うべき存在のワンさん(王偉)に会う。彼は、父親が経営する会社の取引先の総経理であり、中国のことが何もわからなかった僕に世話を焼いてくれた人だ。毎日のように食事に連れて行ってくれて、時には中国式のホステスさんの入るカラオケにも連れて行ってくれた。友人も知人もいない僕には、かけがえのない存在となった。
僕の父は電子部品関係の経営者であり仕事も忙しく、母親とは離婚もしているので、小さい頃から父親の存在というものをあまり感じずに育った。僕は、父親の子どもに対する愛情、献身というものを王偉さんとの関わりから初めて感じたのである。これは、ガンガンの考え方に大きく影響を与えたと思う。

なぜか、カレー屋

そして、日本人をできるだけ避けて語学の習得に専念した1年が過ぎて、2004年に僕は天津理工大学の学内にある学生食堂でカレー屋さんをオープンする。
ここでガンガンのスタッフ第1号となるヤオ・ユエン(姚媛)に会う。彼女は前述のワンさんの紹介で入社(当時会社と呼べるような規模ではないけれど)してきた女の子だ。
なぜカレー屋さんなのか……という微妙な疑問を持たれるかと思うが、まずは実験的に何かをしなければならないということで、鍋1つでできるカレー屋さんをと始めたのである。そんなカレー屋さんは、1年で閉店に追い込まれる。




(写真)13人の中国人幹部と、筆者(中央・グレーのTシャツ)、その向かって右隣りがパートナー・岡田信一


パン屋、内資でスタート、そして独資へ

そしていよいよ、2005年に現在も存続するベーカリーショップ「ガンガンデリカテッセン」がオープンする。どんなに小さな規模でも、独立すれば周りのつき合いも変わり、いろいろな話が出てくる。そんな中でつかんだのがこの店舗だ。ここからは、正式に会社登記にはいる。
資本金の問題により中国の内資企業を立ち上げたのだが、僕と岡田のビザが出ない。会社登記上に僕達2人の名前はない。いずれ正式に外資を含んだ会社にする必要があった。
そして、行政手続き、財務コンサルティング会社を経営するジャンさん(張誕)と出会う。僕が七転八倒していた手続きを、彼は魔法のように凄いスピードで片づけてしまったのである。正式に合弁会社が立ち上がり、経営も軌道にのりだし、いよいよ支店の話が上がったのである。
2007年6月、場所は、天津経済開発区に位置する某5星ホテル。
そのコック長としてシャオリュウ(劉延民)を登用する。彼は今でもガンガンで働く優秀な幹部の1人だ。そして、そのまま同じ年の10月に北京にて共同経営という形をとり3店舗目となるお店を出店する。このまま勢いにのって……とは、うまくいかない。まだまだ若すぎる僕達には、この後大きな落とし穴がまっている。

開発区の店舗をオープンしてから半年が過ぎた頃である。もともとホテルの朝食で使用するパンを買い上げてくれるという条件のもと、出店を決断したのだが、その買い上げを断ってきたのである。売上もやっとのこと損益分岐を迎えたところで、売上の25%をしめていた朝食代がなくなっては経営が不可能である。ホテルとの関係作りもうまくいっておらず、僕はすぐに撤退を決断した。
決断が早かったので、累積赤字は最小限に防ぐことができたが、この出来事で、改めて仕事の進め方を学んだ。ビジネスをする中で、避けるべきことは、自分自身がコントロールできない領域を多く持ってしまうことだ。

ストライキ、コック長疾走、試練連発

さて、そんな撤退という苦渋を舐めた僕達には更なる試練が待っているのである。
従業員ストライキ。
開発区の閉店を機に、開発区内の輸入食材スーパーなどの店舗に卸していたパンを天津本店にて製造することに移行した。その瞬間に天津本店にてストライキが起こった。仕事量の増加により従業員の不満が一気に爆発したのである。
ただ、この経験も僕達にとってはよい機会となった。信頼できるスタッフと信頼できないスタッフ、そしてこの先どのように従業員達とつき合っていくか。
さらに待っていたのは、北京のコック長を勤めていたしゃおちぇん(陳遅来)の失踪事件。
僕達は、このような経験の中で、組織をどのように運営していったらよいかを学んできた。そしてその大きな一助となったのが小島庄司さん。会社の基礎となる就業規則、そして昇給制度の確立。人事労務のプロとしてわが社の骨組みの設計に携わってもらった。

そして、2010年7月30日に4店舗目となるお店を天津にてオープンさせる。この設計を受け持ってもらったのが東福大輔さん。北京で活躍する建築家だ。この新店舗、パン屋でなく、レストランと輸入品を主体とした食品を取り扱うスーパーを含んだ新しい業態をスタートさせたのである。

ここで、キャッシュ不足を経験。内装費の支払いを一括でなく、分割支払いを行い、その支払い根拠を毎月の会社のキャッシュの増加に頼るという計画で始めたのである。
計画通りに行く訳もなく、このまま新店舗を続ければ会社にキャッシュが足りず倒産してしまうという危機に陥ってしまった。ここで僕の父・羽深英勝にお金の工面を頼む。投資ではなく借金という形で。

現在、僕達はよきスタッフとよき協力者に囲まれ、苦しくも楽しく会社を運営している。僕はこの場を借りて、ガンガンの文化とは、僕達がなすべき事はなにか?ということを自分自身に問いただしながら、これから筆を進めていくつもり。


第2回 中国の父・ワンさん、そして天津

さて、僕が知っている範囲でものを言うのだが、中国での留学は大まかに二通りある。語学だけを学ぶ進修生と本格的に学部で学ぶ本科生だ。
さらに、その本科生の中には留学生コースと現地の学生達と一緒に学ぶコースとがある。
多くの学生は、進修生として半年から1年、語学勉強を終えたあとにHSKという中国語の試験(英語で言うTOFEL,TOEICのようなもの)を受験し、ある基準まで達すると(この基準は、僕の時と違うので割愛)本科に移る。
会社から語学研修のために派遣されてきている人や、日本ですでに社会経験があり中国で就職や起業を考えている人は、半年から1年間進修生として語学勉強をして、それぞれがその進むべき道に就いていく。その学費は半年間で5000元から10000元、日本円にして約7万円から14万円(2011年7月現在)。

僕の場合は、天津大学にて進修生を1年間経験してから仕事を始めた。
当時、幸いにして僕には、中国の父親というべき人が存在していた。大学の入学手続きから住処の手配、そして日々の生活用品の買い物から食事まで、さらには、夜の遊びというところまでお世話になった。彼は、父親が経営する電子部品関係の会社の取引先の総経理(中国では、社長のことを総経理とよぶ)で、僕は、ワンさん(王偉)と呼んでいる。父親との関係からこのような世話をしてくれていたということもあると思うのだが、僕にとっては、かけがえのない存在だ。父親の愛をそれほど知らない僕は、この献身という愛情を心から感じることができた。
「中国人とはどのような考え方をするのか」という問いをすること自体があまりグローバルな考え方ではないと僕は思うのだが、少なくともこのワンさんは、とても人情に熱い人である。ワンさんは、午年で僕よりも24歳年上。初めて会った当時は、49歳であった。年齢の差をみても実際に父親でもおかしくない年の差でそのようなことを感じたのかもしれない。
 僕が天津という町に降り立った当時は、まだまだ発展した都会とは言えず、常に靄がかかったような天気で衛生的とは言えない場所だった。
このような外国の町の感覚というものは、日本にだけに住む日本人にとっては、想像が難しいかと思う。田舎といえば綺麗な自然がのこった町並みを期待するのが日本人だが、なぜか中国では、地方都市の方が汚い。もともと中国の北方地区は、砂漠に近くさらに乾燥している場所が多い。天津北京も年間を通して、雨が少なく砂埃が多い。当時の天津は、それに加えて至る場所で開発が行われており、空気は酷いものだった。洗濯物を外で干すことができない状態と言えば言葉だけで実感できると思う。当然町にもゴミが多く、夏は生ゴミの臭いが町中ただよったような感じがした(現在、その衛生状態は、非常に改善されている)。




(写真)中国の父のような存在、王偉さん


食事、買い物、時々、カラオケ

 そんな状況ではあったが、生活に嫌気が差すことはなかった。なぜなら毎日学校が終われば、ワンさんが僕を迎えにきて食事に連れて行く。ワンさんの仕事の関係もしくは、友人達と食事をするときにも招待してくれる。欲しいものがあれば休みの日でも一緒に買い物に来てくれて、僕の手助けをしてくれた。さらに週に2,3回は、夜の街に一緒に出かけていた。食事の時は、中華料理の注文の仕方を勉強させられ、夜の街ではホステスさん達との遊び方、中国語のカラオケと本当に教科書にない中国を教えてくれたのである。
僕の留学時代は、こんな王偉さんとの出会い、そして、中国語の習得に集中した。
外国に住むということは、一筋縄ではいかない。信頼の置けるガイドとなる人がいること自体で大きな差がでる。ただ、ここで間違えてはいけないのは、人任せにしてしまうことである。
天津や北京で起業をしている人の大部分は、このガイドとなる人に面倒なことを押しつけ、騙されて失敗をしている。あくまでも援助を求めるだけであって、当然のことながら自分で理解をして自分で勉強をして自分で判断をくださなければ、成功の道は、開かれない。信頼をすることと丸投げすることは、違う意味だ。自分自身で切り開くということが起業である。




(写真)パリッとした皮が人気のバケット


すぐれたガイドに出会えるかが分かれ道

 企業家は、自分の理想とする企業のあり方について、輪郭のハッキリとしたイメージを持たなければない。丸投げという仕事の仕方では、そのイメージづくりを他人や従業員に任せてしまうことになってしまう。ガイドとなる人間がもしも優れた人間であれば、彼の力量によってある程度はうまくいく。それに刺激され、状況を学んでいけば自分自身も成長できる。しかし、それでは企業家ではない。甘えが出てくる。そこから起こる不信感は、埋めることのできない溝となる。[時によっては、裏切りも起きる。僕は、そのようになっていく日本人を何人も見てきた。
 日本語ができるスタッフが通訳をすること自体は当然だ。でも実際に従業員を管理したり、人間を面接したりする能力があるということではない。それを中国語ができないからという理由で、通訳に任せてしまう。しかし、そのスタッフのする仕事に文句を言い続ける。なぜならイメージを伝えずに仕事を任せているからだ。
立場を置き換えて考えてみるとあることに気づく。もしも中国人が日本で起業して、日本人が彼のパートナーとなるとしよう。そして、その中国人が日本人に同じような問いかけをしたり、仕事を丸投げしたり、気持ちを踏みにじったりする。それにも関わらず出した結果が彼のイメージと違い、罵声されたりしたら、日本人は中国人のパートナーを信頼できるだろうか?忍耐強く、彼の優秀なガイドとしてついていけるだろうか?
それが、中国で失敗を重ねる日本企業の実態だと思う。
 僕が今でも倒産せずに会社を運営できている要因の1つは王偉さんという優秀なガイドがいたこと。そして、王偉さんという存在に依存しすぎることなくひとつひとつ自分で勉強をして、彼がやってくれていた仕事や手続きを消化していったことにあると思う。
そんな僕は、1年の語学留学の後、ついにカレー屋さんをオープンする。
さてそれは、次回に。


第3回 大学の学食でカレー屋。従業員第1号ヤオ・ユエンは天津女子




(写真)何度もピンチを救ってくれたヤオ・ユエン


外国人が中国で起業する場合、以下の4つの方法が実際行われている。
僕がここで書くことは実際に行われている事であって、それが合法か非合法かということはそれぞれの個人の判断による。
 1つめ、完全なる外貨による独資企業。
 2つめ、外資と内資(中国人が投資する人民元)の出資による合資企業。
 3つめ、完全内資の国内企業と個人商店。
 4つめ、人が登記した会社や団体を使って行う起業。
 それぞれに、制約やメリット、デメリットが存在する。
 僕は、天津大学の1年間の語学留学を終えた後の2004年、カレー屋を天津理工大学にてオープンする。ここでは4つめの方法、人が登記した会社を使って起業という方法を選んだ。
 さて、なぜここでカレー屋さんなのか?という疑問を持たれると思う。実は、パン屋を始めようと企画していた時からワンさんと僕の父親の間で「カレー屋もいけるのでは?」という話が持ち上がっていた。なぜなら、カレー屋は極論を言えば、鍋1つでできる。少ない投資で始められるということである。
 さてさて、安易な考え方で始まったのかと思われるかもしれない。
 その通りで非常に安易な考え方である。
 前回の“中国での留学時代”で登場したワンさんが、大学内の食堂に面白い立地があると紹介してくれたのだ。

 中国内の大学食堂というと想像が難しいかもしれないが、日本の大学のそれとそれほど大きな差はない。入り口から入って四方の壁側にパーテーションで区切った場所があり、それぞれが異なる経営で異なる料理を提供する。フードコートのような形態。その約10平米くらいの売り場と10平米くらいのキッチンを借りてカレー屋をオープンした。
 もちろん大学内の食堂であるから価格も設定しなければならない。ということで材料コストをさげながらそれなりの物を出さなければならいという条件だ。
 もちろん、日本のカレー・ルーなんてつかっていたらコストを抑えることはできない。なにせ、周りのお店は、2元(当時で26円くらい)で中国式のラーメン1杯とかそんな世界である。1人前5元以下の商品は、この場所にはない。コストを抑えるためにスパイスやらなにやら全て中国産でカレーを仕込み、それなりに手間隙をかけて作っていた。
 さて、このオープンの時に人生初めて僕の従業員となったのがヤオ・ユエン(姚媛)である。彼女は、ワンさんの紹介で出会った天津人で、1980年代以降に生まれたいわゆる都市籍の中国人。7年経った今でも会社に残っている唯一の存在だ。
 僕のひとつの幸運は、彼女が辞めずにずっとついてきていることだ。今では会計や労務など現場以外の仕事を担当している。彼女の家族もそれほど裕福ではないけれど都市に住む中間層といったところで、それほど不自由もなく育ってきたのだと思う。性格も非常におっとりしていて、ぽっちゃりとした体型が愛らしい。この7年間でも何人かの彼氏がおり、けっこうモテる。頭の回転が速いタイプというよりゆったりとした感じが男を惹きつけていると思う。現在は、ものすごい男前を捕まえて結婚したのでひと安心。
ただ、この場所のほかのブースで働いていた人たちは、中国でも貧困層に入る人たちばかりで、中国語も地方訛りが強く、なかなか聞き取れない。さらに、中国での仕事の第一歩ということで何もわからない。頼みは、標準語を話すヤオ・ユエンだけ。さらに日本人という先進国から来た人間がこの環境で働くこと自体があり得ない状態。収入面、環境面、すべてにおいて自尊心を全て壊していかなければ、日々仕事に立つことができなかった。決して裕福に育ったというわけではない僕だし、かれらを卑下していたわけでもない。ただ、今までの生活レベルを考えると、どうしても僕の芋みたいな自尊心にヒビを入れたのである。
 そこで働いている人々は、中国の農村部の人ばかり。小学校すらまともに卒業しておらず、外国人の僕の方が中国の歴史や政治についてわかっている状態。そして、その大学に通う日本人留学生と中国人学生が主なお客さん。日本で裕福とは言えない程度の生活水準ではあったけれど、貧乏でもない僕は、このような生活は初めてで、精神的に辛い日々は続いた。




(写真)創業当時天津を走っていた黄色い四角いタクシー「面包車」にちなんでニックネームは「食パンタクシー」


給料1000元(1万2500円)で24時間

 半年間は自分の給料(月給/1000元)を差し引くと赤字だった。人力資源和社会保障局が定めた当時の最低賃金が月給で600元(約8000円)。そして、この食堂内で働く従業員のほぼ全てがこの給料で24時間という拘束時間で働いていた。この24時間と言う数字っは僕達日本人の想像を超えてしまうかもしれない。これには、仕事の価値観のズレがある。食堂内には、日本人から見れば劣悪な環境であるけれど宿泊する施設がある。そして、賄いがあるから食事にも困らない。娯楽を知らないまま育った中国の農村出身の若者は、その環境が決して酷いものとも感じるわけでもない。さらに仕事の取り組みという面で見れば、緊張した状態が続くわけでもない。日本人、そして都会の生活のように厳しい時間管理、早いリズムで進むわけではない。価値観とはおかしなもので、知らなければ不幸と感じない幸福もある。
 比較対象のない状況が強みとなり、ガムシャラに事を成すのかもしれない。

話を経営に戻すと、前半の半年は、先にも話した通り赤字を出していた。その反省を生かして、後半の半年は「カレー屋」という枠を取り払い、丼屋というコンセプトのもと、いろいろなメニューを出して運営を始めた。その結果、自分自身の給料・1500元(約2万円)を差し引いてなんとか赤字なしの状態まで持っていくことができた。
 その時のメニューは、カレーライス(トッピングで6種類ぐらいのバリエーション)、ハヤシライス、カツ丼、親子丼、ビピンパ、タコライスなど。予想できなかったのは、親子丼とカツ丼がものすごく人気があったこと。日本のダシの味は、中国人の人たちにもうけいれられることがわかった。
 そして、1年後、大学食堂全体の改装を機に僕達は撤退を決意した。もともと実験店舗というような位置づけで始めたので、ちょうどよい機会だった。
 さて、これからパン屋へのオープンへと入っていくのである。


第4回 念願のパン屋、パートナー・岡田信一とスタート

 カレー屋を始めた2005年、大学時代の友人、岡田信一が中国にくることになり、その半年後から自宅でパンを作り始めた。自分で食べるためのパンではないので、設備も相応の材料も必要である。僕達が思い描いていたパン屋とは、ハード系、デニッシュなど欧米を意識した“おしゃれ”なパン屋である。そもそもなぜ岡田とパンなのかというと、彼との出会ったきっかけまで遡る。かれは、大学一年生の時に某大手コンビニエンスストアーで働いていた。いまだから言えることだけれども、その廃棄弁当やパンを“あさり”に僕が行くことになってからの付き合いだ。彼がパンを食べて僕が弁当を食べる。ようするに岡田は、パンが好きだったのだ。実際、修行中でもその店舗の廃棄パンなどを1人で食べていたそうだ。(実際の職人の多くは既に飽きていて食べません)。
 さて、話を元に戻すと、カレー屋さんを始めた当時は、岡田とルームシェアして140平米の広さの家に住んでいた。もちろん、外国人が住むような高級マンションではなく、ローカルアパート。そこに家庭用よりもほんの少しだけ大きなオーブンを買って、岡田が毎朝手捏ねでパンを焼いていた。食パン、デニッシュ、フランスパンなど、カレー屋の店先にパンを置いて販売を始めたのだが、まったく売れない。自宅で作るパンの品質における限界、そして1杯2元で中国式のラーメンが食べられる中で、デニッシュ1個3〜4元という価格設定と大学の構内という立地では、売れるはずもなかった。ここで考えられるのが、日本人のお客さん。それも家族を持った女性達。天津にはトヨタや伊勢丹などの日系企業があり、平成22年 外務省発表の統計だと、天津の長期滞在者(三ヶ月以上滞在予定であるもの)の邦人は、2983人である。天津は、出張者が非常に多く、ビジネスビザでない者も合わせると実際の人口は、この倍になるとも言われている。
 そんな中、焼肉屋を経営している日本人の友人の店で委託販売をさせてもらうことが決まった。そこからの口コミで徐々に日本人の中で話題になり、配達の申し込みを受けるようになった。
 岡田のパンを売り始めて2ヶ月後には、日本人やその他外国人が多く居住するアパートメントの中でお客さんを集めて試食会を行うという販促活動まで行うこともあった。
 その頃になると自宅で作るパンには限界を感じ始めていた。家庭用のオーブンよりもほんの少しだけ大きなオーブンやその他素人レベルの設備で手捏ねで作るとなると、商売になるほどの品質と生産量を確保できないと判断したのである。




(写真)左端が相棒、岡田


ワンさんの力を借りて、内資でスタート

 それは、店舗を探し始める動機となった。
 事業には、多岐にわたる思慮が必要だ。材料を探し、試作をする。内装計画をたてて、設備を発注し、人材を募集して面接を行い、採用をする。それから……、というようにお店をひとつ作るのは簡単なことではない。それはこんな小さなカレー屋さんでもいえること。勇気を持って行動することで、チャンスが落ちている荒野へと進んでいくことができる。今となっては、北京でも天津でも多くの日本人が起業をして働いているが、2004年当時はまだ少なく、このような規模の企業でも様々な人々が興味を持ってくれて、つき合う人も変わっていった。
 カレー屋さんは、決して金銭的によい結果を生むことができなかったけど、新しい人間関係と新しい経験を積むことができた。そして、その培った人脈のおかげで、2005年、天津の中では日本人人口が最も多い「オリンピックタワー」というアパートメントの1階に出店することができたのである。
 僕の経営センスというものがもしも天才的であれば、最初から中国人市場に飛び込んで成功したかもしれない。しかし、起業経験のない僕には、取っかかりとして日本人を含めた外国人市場から始める方が比較的簡単だったと思うし、それでよかったと今も思っている。
 こうして、2005年7月28日にパン屋のオープンを迎えたのだが、幸先のよいスタートではなかった。
 行政手続は、すべて王偉さんに任せてほぼノータッチ。しかも、会社は表向き王偉さんの会社という形を取った。第2回「中国の父・ワンさん、そして天津」で提起した問題である丸投げ状態である。当然、これは小さな失敗につながっていった。
 こちら中国の新規オープン店の大部分が、営業許可が工商局という政府機関から批准される前に試営業を始める。
 もちろん、何もわからない僕達は、多くの店と同様、営業許可が下りる前に営業を始めた。そして、誰が報告したのかそれは藪の中だが、オープン2日目で工商局の査察が入り営業停止。「オリンピックタワー」との相談のもと、ビルの2階にある朝食会場でコッソリと営業を再開したら、また査察があり再営業停止。結果、1万元の罰金というスタートだった。
 再スタートは、営業許可が下りた8月28日。オープンを目論んだ日からちょうど1ヶ月後だ。その後は少しずつではあるが売上も上がっていく。約二ヵ月後、1日の売上が2000元(当時の約3万円)に達した日は岡田と2人でキリン一番絞りを飲んだ。あの時は、本当に嬉しかった。




(写真)低温長時間発酵フランスパン


コソコソしなきゃならないストレス

 経営というものは上手くいかない。最初に計画した試算は、まるであてにならないことがほとんどだ(単に僕の能力が足りないという噂もあるが……)。
 たとえば、事前に想像することのできなかった経費がどんどん発生してくる。そして買った備品が壊れまた経費がかさむ。僕自身、当時よりも経営感覚の精度は上がっているが、今でも新規店舗や新規事業を始める際に作成する試算書はあまりあてにならない。当時の損益計算は今見直してみると非常にお粗末なもので、僕達の給料は1500元(当時約1万円)からスタートさせたのだが、1年間は昇給させることはできなかった。
 それでも、赤字を出すことなく経営ができて、給料も少しずつあげていくことができた。
 天津市内のカフェやレストランなどパンの卸先も増えていき、2007年頃には事業として成り立つ気配が出てきたのである。そこでひとつの問題に不自由を感じ始める。
 前述したように、僕達の会社は王偉さんの名義を借りて国内企業からスタートさせた。当時の中国の法律だと、製菓、製パンの製造、販売という経営範囲で国内企業を立ち上げるのに必要な資本金は30万元(現在のレートで日本円約360万円)だった。一方、同じ企業を外資で始めるとなると10万米国ドル(現在のレートで日本円約760万円)相当の人民元が必要だった。僕達の事業が一体成り立つかどうか分からなかった当時は、まずは国内企業からスタートさせよういうことになり、王偉さんに助けてもらったのだ。だが、国内企業だと外国人に対してビザをおろすことが難しい。5つ星クラスの国内ホテルなど、大きな規模の会社ならビザを発行できるが、それでもある程度の基準を満たさなければならない。そんな訳で、僕達のビザは王偉さんが経営する電子部品関係の会社で発行してもらって、登記上は王さんの会社に所属という形になっていた。
 それは、政府関係の手続きや査察の対応などを僕達が行えないということを意味する。厳密に言えば、パン屋で働くこともできない。実際に政府機関の査察があるときなどは、コソコソと隠れていたのだ。それは、従業員にとってもよい影響を与えない。
 そして、ついに合資企業の設立へ入っていくのである。


第5回 合資企業立ち上げに七転八倒。救世主ジャンさん現れる




(写真)出会いはパーティ。今はなくてはならない人、ジャンさん


会社を設立するには、資本金が必要である。
 もちろん僕達2人に貯金はない。お決まりのパターンであるが親からの投資を期待する。この中国ベーカリー出店計画を立案した1人の中に僕の父親もいるので、もちろんそれを期待する。
 ということで、まずは資本金登記額の少ない国内企業でスタートしてみようとなった。法廷代表人には日本人の名前を使えないので、本稿第2回で紹介した王偉さんに法廷代表人になってもらい、国内企業を立ち上げた。
 さて、これは、王偉さんの力でほとんどの手続きが終わり、少々問題もあったのだが無事お店をオープンすることができた。その後、試行錯誤を繰り返して順調に売上を上げていき、それそろ本格的に事業として考えられるところまで来た。そして、その1つとしてこの会社に外資を入れて実際に僕達の名前を登記していかなければならないという話になった。
 そもそも国内企業は、外国人や外国の企業が投資した企業でなく、中国人が人民元で投資をして設立した企業という定義だ。僕達2人や実際に投資した羽深、岡田の父親の名前は表向きは出ていない。
 この国内企業に外資を投資するという形で合資企業を立ち上げる手続きに入っていった。
 さてこの手続き、僕とスタッフで始めてみたのだけどこれがなかなか進まない。
 どのような手続きが必要で、どこに行くのか、というところから始めたので資料ひとつ作成するにもひと苦労。このあまりにも進まない作業に嫌気をさしていたところで知り合ったのがジャンさん(張誕)だ。




(写真)クリスマスのチョコケーキ


天津人っ子気質であっという間に危機から救ってくれた

 彼は、天津出身の天津人で天津大学卒業である。ガンガンのスタッフ、ヤオ・ユエンと同様に一般的な中間層の家庭で育ち、その後奥さんと共に現在の会社を立ち上げた。外資の会社を多く扱っており、最近では、H&M天津店の税務報告代理なんかもやっている。
 彼との出会いは、パンの卸し先であるフランス料理店でのオープニングパーティーだった。なんとなく話をしていて気が合うというか、今後もつき合って行きたい相手だなと感じていた。その後、そのフランス料理店のイベントなどで何回か会っているうちに、僕は彼に合資企業の手続きが進まないことを話した。
 そこで初めて、彼の仕事が行政関係の手続きを主とした投資コンサルティングだとわかったのである。
 ここは、天津出身の中国人(以下、天津人と略す)の長所でもあり短所でもあるのだけど、一度友人となれば、金銭設定を低くして仕事を請け負い実行する。ただ、これが甘えとなって適当に実行する人間が多いことも確かだ。彼は、そんな中でもその仕事基準が比較的高いところにあり、僕が2ヶ月もかかって終わらなかった合資企業手続きをわずか2週間足らずで終えてしまった。その後、現在でも彼には、毎月の税務報告など行政関係の手続きをお願いしている。
 合資企業登記の手続きの流れは、大きくわけると四段階にわかれる。

第一段階 プロジェクト提案書等の審査
第二段階 F/S報告等の審査
第三段階 合弁契約書・定款等の審査
第四段階 設立登記等

 合弁企業とは、中国の国内企業が外国の外資企業とある比率にて投資を行い、設立する企業のことだ。
 まず、そのプロジェクト内容を中国政府に報告する。外国企業の情報や出資比率、合弁期間、そして、導入する技術や内容、条件。中国政府から営業許可が下りてから、F/S報告の作成。F/Sとは、フィージビリティースタディー(feasibility study)という舌を噛みそうな発音をする略語で、日本語だと採算可能性調査が一番近しいと思う。これも審査と許可が必要だ。
 その後、会社の定款を定め、批准を得て、各役所での設立登記手続きへと進んでいく。営業許可書をおろす工商局、衛生許可をおろす衛生局、その他、税務署や環境局、消防局等々である。これらは、業種によって申請する場所は多少異なる。




(写真)ドイツ発祥のクリスマス伝統菓子、シュトレン


 さて、中国の行政手続きは、面倒であると同時に賄賂やコネクションがなければうまくいかないという誤解がある。さらに賄賂さえあれば何でもできるという大きな誤解もある。賄賂やコネクションは当然役に立つツールだが、あくまでもツールである。やるべき手続きをやらずにまかり通ることなんてことはありえない。賄賂や関係は、問題処理や手続きの速度を速めるときに役に立つのであって、それ自体に使うのではない。この点を誤解している人が多い。自分が勉強もしないで事柄がうまくいけば誰でも成功者だ。なぜ、世の中、成功者と失敗者がいるのかを考えれば簡単である。頭や体、人間関係すべてのことに最適な配分で実行できる者が成功するのだと思う。
 経営者たる人は、絶え間ない学習と実践の繰り返しにより経験を積んで、その結果を人に伝えていく。そして、トップは常に会社内で圧倒的な知識や実力を持っていなければならない。それができなくなった時は引退だ。そもそも苦労と思うのか、それとも自分の使命と思うのか、その差は激しい。この手続きにしても、コンサルタントに仕事を依頼することの意味は何か。それは、自分で手続きをするよりも速度を速めることができるというのが趣旨である。もちろんどのような手続きがあり、どのように進めて何が必要なのか、提出する資料は何に使用されるものなのか、すべてを把握することは当たり前だと思う。


第6回 いよいよ2号店、3号店、しかし……




(写真)ピンクのリボンをしているシャオリュウ


 2007年6月、場所は、天津経済開発区に位置する某5星ホテル。
ホテル側から出店のアプローチがあった。

・ホテル側が設備投資をする。
・ 売り上げの10%をホテルに家賃として支払う。
・ ホテルで使用するパンは、すべてガンガンが製造してそれを買い取る。

以上が大まかな条件だ。

 これを見る限りではリスクが非常に少ない。自己投資も細かいものを買うぐらい。これならということで出店を決意した。
 そのコック長としてシャオリュウ(劉延民)を登用する。彼は今でもガンガンで働く優秀な幹部の1人だ。彼は、2011年12月現在、29歳で黒龍江省出身の東北人だ。2006年2月入社でほぼ設立メンバーに近い存在。東北人の男性は、男気を持った者が多いと言われていて、彼ももちろんそんな男らしさというものを持ち、非常に仕事に対して真面目で頼りになるヤツだった。頭の回転が速いという訳ではなく体を動かし結果を残すタイプだ。もちろんこんな小さな店舗のスタッフであるので頭でっかちで口だけが専攻するスタッフは、必要でなかった(現在もいらないが……)。
 シャオリュウは、文句も余言わず黙々と言われたとおりに仕事をし、岡田の信頼を勝ち取っていったのである。
 続いて北京の出店も決定。ここは、友人より紹介され、そのコンセプトに心を惹かれて出店を決意。
 藤崎さんというイタリアンレストランを経営されている方との共同経営という形での出店だった。藤崎さんのコンセプトは、ニューヨークのデリカテッセンだった。僕は、日本で働いている頃より、デリカテッセンという業態で起業してみたいというイメージがあった。実際、以前働いていた会社でひと月ほどそのような業態で研修で働いていたこともある。それがこんな形で実現することができたのである。ガンガンがパンの製造を受け持ち、藤崎さん側がお惣菜、その他物販をいうように。もちろん藤崎さんが主体の店舗である。
 このように、2007年6月に天津開発区で出店、2007年10月に北京の朝陽区への出店と続いたのである。今考えれば随分大それた行動をしたもんだと思う。当然このまま勢いにのって……とは、うまくいかない。まだまだ若すぎる僕達には、この後大きな落とし穴が待っている。
 開発区の店舗をオープンしてから半年が過ぎた頃である。もともとホテルの朝食で使用するパンを買い上げてくれるという条件のもと、出店を決断したのだが、ホテル側がその買い上げを突然断ってきたのだ。売上もやっとのこと損益分岐を迎えたところで、売上の25%を占めていた朝食代がなくなっては経営が不可能である。
 そして、デリカテッセンという業態に気を引かれて僕の足は、天津の開発区から遠のき北京にばかり滞在していた……。そして北京店の売上は日に日に伸びていき僕の時間は、ほとんど北京というようになっていった。
 ホテルとの関係作りもうまくいっておらず、僕の気持ちは即撤退という考えに傾いていった。
 原因は、僕自身にあったことも否めない。ビジネスにおいて“リスクヘッジ”というカッコイイ言葉がよく叫ばれていたことがある。しかしこれって本気を出すことの障害となるのではないかと思う……。最小限の損失で実行に移すことは、自分に甘えが出てくると恐れがある。まず、企画段階において本気にならない。このリスクなら失敗しても大丈夫だろうという思いが出店場所の市場性についての考え方が甘くなる。
 さらにその売上が伸び悩み、関係も複雑になれば、自分のモチベーションも上がっていかない。
 そんな負のサイクルが回り始めた中、シャオリュウは、このような状況の中でスタッフを管理してホテル側とやりとりし、よく頑張っていた。売り上げの上がらない店舗において一般従業員のモチベーションを保つことほど骨の折れることはない。ホテルとの関係も日々悪化していた。彼らのルールと僕達のルールは、やはり違う。文化の違う企業とそのスタッフ、そしてその中で働かなければならないシャオリュウとガンガンのスタッフ、本当に苦労をかけた。この点において支えになっていたのは、岡田の存在だ。シャオリュウと一緒にホテルの対応やらスタッフの管理、ましてや天津市内よりも娯楽が少ない土地で過ごし自ら泥をかぶってこの現場を監督していた。
 これには、今でも僕の心の中にいろいろな後悔が残る。
 2008年3月、僕らはホテルから撤退した。
 幸い決断が早かったので、累積赤字は最小限に防ぐことができたが、この始めての大きな失敗で、多くのことを学ぶことができた。しかしこの負のサイクルは、ここで終わることがなかった。




(写真)”いもんぶらん” さつまいもペーストでつくったモンブラン風ケーキ


ストライキ、コック長疾走、試練連発

 従業員ストライキ。
 開発区のホテルの店の閉店を機に、開発区内の輸入食材スーパーなどの店舗に卸していたパンの製造を天津本店に移行した。その瞬間に天津本店にてストライキが起こった。仕事量の増加により従業員の不満が一気に爆発したのである。当時天津本店のコック長は、李くんというオープニングスタッフであった。確かに仕事もできたのだが、どうも信頼ができない管理者だった。でも実力を考えると彼しかこの店舗を任せることができず、正直、岡田と2人で悩んでいた存在だった。その彼の主導の下、ストライキが起こったのである。
 早朝5時半に売り場スタッフから電話があり、製造スタッフが1人も出勤していないという連絡だった。僕と岡田はすぐさま現場に出向いた。まずは、今後どのようにするかの対策とストライキに関わったメンバーをどのように対応するか……。大変な状況ではあったのだが、同時にこの時、2人の中で、失望や喪失という感情よりもこれを機に改善に進む期待というような感情が起こっていたことに気づいた。
 まずは、ストライキメンバーが宿舎にいることが分かり、すぐさまヤオユエン(僕の第一のスタッフ)を向かわせ、辞職表のサインをさせるように言い渡した。彼らは、何の躊躇もなくサインをした。それもそれで、彼らは、まさか本当に解雇されるとは、思ってもいなかったようである。実際、その後この過半数が戻ってきたいということを言ってきた。ただ1人を除いて全ての関わったスタッフについては、いまだに再雇用していない。そのただ1人のスタッフについては、改めて書くことにして、その日から、僕達2人は、たった2人で天津本店の現場で全てのパンを作り始めた。初心に帰ったつもりで製造。同時に人材募集にヤオユエンが走り、北京のコック長であるシャオチェンにヘルプで天津にきてもらい。岡田、羽深、ジャンくん(残ったただ1人のスタッフ)、しゃおちぇんで製造を始めた。
 そして、開発区のコック長だったシャオリュウも戻すことに決めた。
 彼は、開発区の閉店と共にひとまず実家に帰り、休暇をとってからこちらから毎月の援助を与えて他のお店にケーキの修業に行かせる予定だった。それがこんなことになり、急遽実家の黒龍江省から呼び戻した。もちろん快く引き受けてくれてすぐに手を差し伸べてくれた。彼には、本当に助けられた。これが本当の信頼だろう。
 そして、少しずつスタッフが増えていき、結局シャオリュウが天津本店のコック長として収まり、結果的に2カ月間で内部強化が図れたのである。
 この経験も僕達にとってはよい機会となった。信頼できるスタッフと信頼できないスタッフ、そしてこの先どのように従業員達とつき合っていくかということ。
 さらに開発区をクローズしたことで会社の財務体質も改善されて、利益率が飛躍的に伸びた。いわゆる適正配置ができたのだろう。
 こうして、撤退の処理が終わりよい結果が生まれたのも束の間……。またまた試練が……。さてそれは、次回に……


第7回 コック長・シャオチェンの失踪、そして気づいたこと




(写真)オープン当時。真ん中の男の子がシャオチェン


 開発区のクローズ処理、天津のストライキ、それぞれの問題が解決され、北京店の売上も伸びていった。2008年3月頃から利益率も伸びていき、やっとのことで僕達2人の給料もそれなりに取れるようになってきた。(日本での新卒社員額面ぐらいですが……)
そして、内部固めということで、幹部達への教育をもっとやっていこうという矢先に、今度は北京のコック長が失踪したのである。
 彼は、カレー屋さん時代からのスタッフ・シャオチェン(小陳)。真面目な性格で、経験も長いということでコック長に抜擢したのだが……。
 さて、彼のことを語る上で中国における問題と思える、農民戸籍と都市戸籍(非農民戸籍)という区別を僕の知っている範囲で説明したいと思う。
 中国では、農民と呼ばれる人が単純に農業に関わる人というわけではない。農民戸籍の人々は、都市生活において制限がある。社会主義計画経済を推し進めるために人々の職業選択や移住の自由を制限する必要があると考えられたと聞いている。当時の状況では、これが国家としてのイメージで国民もこの方法が理想社会を実現するために必要なことだと納得していたのだと思う(あくまでも私的推測。)。僕達資本主義の経済の中で育った人間には理解しがたいことだけど、国家を第一と考えればそれも必要だったのかもしれない。しかし、現在の状況は、1958年にこの戸籍登記条例が制定された当時とは、まったく違う。経済が開放されて貧富の差が出始め、農民は豊かさを求めて都市に出稼ぎに。そして出稼ぎ先で安定した仕事を得て子供を作り生活をする。その中で歪みが生まれてきた。
 都市での生活を基本的に認められていないということは、ある農民が天津で生活、仕事をした時に社会保険に差がある。もしも社会保険に加入したとしてもそれは、意味のないことになりかねない。天津で契約された労働契約のもと社会保険に加入ということであれば、天津の社会保険基金に課金される。しかし、彼らが出身地に帰った時にこれが適用されるのかがまず不明だ。しかも労働法にも農民は社会保険に加入する必要はないという規定(このように明文化されているわけでは、なくそのような意味)になっていて、企業側はコストを軽減するために彼らを社会保険に入れていなかった、さらにその本人も社会保険の加入によって自己負担があるくらいならそんな還ってくるかもわからない保険にも入りたくないというのが大部分で国家としてもそれでよしとする風潮があった。(あくまでも個人的見解であり、その状況は、その当時のことである。)
 そして、子供が都市で義務教育の学校に通いたければ費用が必要である。
 農民戸籍は、確かに不利なことが多い。しかし、農民には土地の所有権が与えられている。そのため社会保険などの国家としての福利がないという理解もある。実際、土地があれば農作物を作れるしまたその使用権も貸付もできるし、権利を売ることもできる。
 でも、都市に出ることで不平等に感じられる。同じ国の市民に対し2つの異なる制度があると、有利不利があるのと同時に不公平、不平等という感覚は起こるものだと僕は思う。
 実際、中国の80%の市民は農民であり貧乏が多いのは農民である。一部の土地使用権の売買などで儲けた農民以外は貧困であり、文化的生活を送れず、日本人の僕の視点から見れば制限されている。
(現在、この問題に対して国家は、統一化の方向で向かっており、改善されつつある。)
 
 ガンガンでは、いまでも約90%の社員が農民戸籍である。敢えて選んでいるということではなくて、結果このようになってしまっただけだ。現場仕事は、けっして楽なことではない。そして多くの都市戸籍の人間達は、少なからず心の中で農民戸籍の人間とは、違うと思っているところがある。これは、仕方のないことで、農村に育った人たちは、ビジュアルでもやはりどうしても田舎くさいし教育の水準も低いのが否めない。一部のエリートは別として全体として見た目でわかるのである。ただ、雑草根性とかハングリー精神、向上心をもっているのは、どちらかと言えば、農民戸籍の人間であるこては、明らかだ。
 これが全ての人間に当てはまるのではなく、実際に僕が接して来た人間、友人、社員を見ての結論である。そして、ガンガンではその農民戸籍の人間ばかりが結果として残ってしまった。シャオチェンも当然農民戸籍。そして、北京のコック長になるまでにもいろいろなドラマがあった。もしも時間があればこの部分を書きたいが話をメインストリームに戻したいと思う。




(写真)ガンガンセラー(天津の店舗)で出しているガンガン黒毛牛ハンバーガー


重圧に耐えきれず消えたシャオチェン

 そんな農民戸籍のシャオチェンが失踪した理由は、責任の重圧に耐えられなかったということだろう。失踪を知ったその日は、ストライキの時とは違い、失望が大きかった。紆余曲折を経て彼と一緒に仕事をしてここまで来た。もちろん僕達の力でここまで来たということもあるが、もちろん彼が支えていた部分だって少なくない。現在考えるとかなり未熟だった僕達は、まだ経営者、指導者としての魅力が無いのかという惨めな気持ちにもなった。
 あくまでも推測で物を言うのだけれど、失踪するまでいくつかのサインは、彼から出ていたと思う。頭の回転は遅い方で、常に消極的な性格だった。彼をコック長にしたのは、社歴が長く、技術的にみてもその他のスタッフよりも良かったというということが理由だ。しかし、リーダーや管理者はその他の能力も必要とする。
 スタッフを管理するには、人間を動かさなければならない。人を動かすには、それなりの能力が必要だ。みんなから慕われなければ彼が指し示すことに従うことはない。徹底的に会社の要求を現場においてスタッフに言い続けて習慣化させる必要がある。
 管理というものは、管理者になって初めて経験することで、実際に直面しなけれなば習得することが難しいスキルだと思う。
 これは、まじめだけが取り柄である人間には少々厳しい要求だ。
 そして彼は、まじめだけが取り柄だった。出世欲というものがまったくなく、以前から新しいことに挑戦することに躊躇して現状維持であればよいという彼。僕は起業している身であるためこの感覚は理解しがたい。そして会社としてもその存在の位置を決めることは難しい。
 社員のモチベーションをあげるには昇給制度が必要な一方、現状維持でよいという人間ほど仕事に目的をもたせるのも難しい。そういうタイプ人間のシャオチェンを、前もって管理職としての教育を与えないまま管理職の位置に移行した結果がこれだった。プレッシャーに打ち勝つ精神というものは程度というものがそれぞれある。極論を言うとサッカーをやったことないのに国の代表に選ばれてワールドカップに出場する。そんなの怖くてできない。プレッシャーに押しつぶされても当然なことだ。僕自身も起業したわけだが、それなりの準備とちょっとした勝算があって始めたのである。
 新店舗の準備を始めてその初期投資の支払が始まると、僕自身そのプレッシャーから逃げ出したくてどうしようもないこともある。朝起きてお店に行ったら1人もお客さんがこなかったらどうしよう……なんてことも考えることもある。それを考えれば、このシャオチェンが失踪した理由も理解できる。
 僕達は、新たな問題に直面し、新たな変化を必要とする状況に追い込まれ、新たなステップを踏まなければならかった……


第8回 人事制度づくりに、悩む!




(写真)ガンガンの就業規則の礎をつくってくれた、人事労務のプロ・小島庄司さん


僕達の問題は、非常に簡単なことだった。

 人材をうまく活用できない。
 物事は全て、その本質と真理を解き明かせばおのずと解決策が見えてくる。
 シャオチェンの失踪や天津店のストライキ全ては、人によって起きた出来事。 これは、従業員管理の問題から生まれた結果だった。
 当時、恥ずかしながら大した就業規則や体系だった昇給制度が確立しておらず、問題が起こったらこれこれというような対応でしかなかった。これは、店舗が1店舗で岡田と僕が現場にずっといれば僕達が決まりなので問題が起ころうと対応できる。皆辞めてしまったとしても2人がいれば何とか継続できる。しかし、組織が拡大して2店舗、3店舗となればスタッフを管理する店長やコック長を登用しなければならない。その店長達がスタッフを管理する際に体系だった規則がなければ彼らも判断できない。無理やり判断した結果がもしも道理に合っていないことであれば、その下にいるスタッフがその店長にケチをつける。
 さらに大きな問題は、その下にいるスタッフがこの管理職を店長やコック長として認めて指示に従うのか?ということだ。
 組織の管理職は辛い立場に置かれる。上からの圧力と下からの圧力の板ばさみ。もしもスキルがない人がいきなり管理職になれば、その仕事は、大きなプレッシャーとなり押しつぶされてしまう。前回の記事に書いたようにシャオチェンが恐らくこれに当てはまってしまったと僕は思う。
 店長の人事権は非常に大きな力になる。彼自身がもしもその他スタッフの考査や採用に対して権利がなければ、その下の者は、自分自身がボスと認めない人間に対しては、同等かそれ以下と思い、指示には従わない。
 組織に対して人がついていくのではなく、人に対して人がついていく。だから管理職には人事権が必要なのだ。
 昇給に対して影響力を持つ管理職の指示には、従わなければならない。そして、2店舗目をオープンした2007年秋ごろより、頑張っている人間をより評価したいという思いが僕にはっきりと芽生え、初めて経営に対する考え方がぼんやりと固まってきた時期でもあった。
 そこでこの会社の骨組みである就業規則と昇給制度の体系化にお手伝いいただいたのが、小島庄司さんだ。僕が師匠と慕う人物で人事労務のプロである。コンサルタントという肩書きは似合わず、ご本人自身で会社を経営・実践されていて、マニュアルを作成するというやり方ではなく、何が真理なのかを見極め経営者に的確なアドバイスを与え情況にあわせた施策を考え、その会社に応じた本当の仕組みを作るというスタンスだ。




(写真)ガンガンセラーで出している、カスタードクリームがなめらかなシュークリーム


根気なくして、社員教育なし

 小島さんとの出会いは、パン屋を出店した2005年当時まで遡る。共通の友人を介して知り合い、その丁寧な物腰と鋭い眼光に凄みを感じた。その当時からメールでのやり取りの中から勉強させていただいたことがあった。日本での社会人経験の少ない僕は、手紙やメールの書き方も知らない。諸先輩方のメールを参考に真似をして覚えて言った。メールの書き出しに相手の名前を書いて最後に感謝の言葉を添えて自分の名前を署名する。恥ずかしながら、小島さんよりメールをいただいて初めて知ったことだった。
 開店前の2005年に知り合いその後何度か小島さんの会社が主催するセミナーに参加して何度か食事をしたりしていた。そして、北京店を出店した2007年10月頃に昇給制度の相談をする。そして2009年3月に就業規則をお手伝いいただいた。
 半年に1回、従業員考査を行う。昇給は考査の結果によって決まる。その考査内容は、予め従業員に知らせておき、半年の間で何度か面談を行い途中結果も話し合い最後に自己評価と上司の評価をつけてそのフィードバックも行う。内容について、大きく分けると7つの項目がある。態度、コミュニケーション、知識、技術、実績、出勤状態、身だしなみ。新入社員は、態度やコミュニケーション、出勤態度、身だしなみとこれらの仕事人としての基本的項目を重視して、幹部などは、実績、知識、技術といったことのウエートを高くする。この考査の肝は、面談というコミュニケーションの機会を設けることとフィードバックによる本人の基準と会社の基準とのズレを是正することにある。
 何でも同じことが言えるのだが、このコミュニケーションというのが非常に鍵だ。人間同士の誤解は、コミュニケーション不足から起こる。友だちとの喧嘩、恋人同士の不和、夫婦の別居、そして国と国との戦争。ちょっと話を大きくしすぎたが、これらも相互理解がしっかりとあればおのずと解決策は望めるし心にしこりを持ったままの決裂というものはない。そして人間は本当に他人のことを理解しづらいようにできているようだ。
 自分にできて彼にできないこと。これってなかなか理解できない。ここで僕得意の極論をもち出すと……。
 小さな子供が公共の場で騒いでることを想像してみる。大人からしたら理解しづらいし、子供だからここで騒いではいけないことがわからないのだろうと思うだろう。むしろ、親は何をしてるんだ?と思えてくる。でも実際その子供はしてはいけないこととわかって敢えてしているかもしれない。親の気を引くために、もしくは、アニメのキャラクターがこのようなことをしているので真似しているとかなんとか……。この親にはある偏った教育方針があってただ甘やかしているからではなく信念があってのことかもしれない。
 ちょっと意味のわからない例をとりあげたけれど、結局他人は、真相はわからないのである。この子供に勇気をもって注意すれば、親からの説明があり、お互いの理解はできることもあると思う。結局コミュニケーションをとらなかったり悪いものを悪いと言わなければ、事の真相は推測でしかないのである。
 僕自身、自分の意見や感情を表に表すことが苦手で、他人に何かを言うことも好きではない。でもこれを怠れば仕事は、劣化していく。
 定期的に購読しているメールマガジンにこんなことが書いてあった。教育というものは、根気である。例えば、社内でテーブルの真ん中にコップを置くと規定したとする。それでも次の日に一部の従業員は、まだ理解しておらず、テーブルの真ん中から5センチ離れた場所にコップを置く。これをまたその従業員に言い聞かせ真ん中に置く。そしてその次の日にその従業員がテーブルの真ん中から3センチ離れた場所にコップを置く。そしてまた言い聞かせて真ん中に置く。その次の日は、やっと真ん中にコップを置くものの放っておくと1週間後には、なんとテーブルの端に置き始める。これで諦めてそれを許していると会社の経営は傾いていく。
 これこそが、教育であり経営の本質かもしれないと思う。イメージは、相手がわかるまで伝え続けてさらに定期的に確認をしてさらに是正する。その理解が早い者やそれを継続できる者、そしてそれをその他の者にも伝えることができそのルールの本質まで理解した者が多くの給料を取る。その有名経営博士の言葉を借りれば“真摯”であることが重要である。
 ガンガンの昇給制度は、このような思想のもとに成り立っている。
 この昇給制度は、現在も進化中で幹部については、自分で目標設定をさせてそれに基づき行動計画を立て実行させている。従業員に、かならずゴールをみせることでモチベーションがあがる。自分のイメージをはっきりと言葉や文章にしてそれをできるだけわかりやすく根気強く実行する。
 そして就業規則は、法にもとづいて制定しなければ現在の中国では意味のないものとなる。これは、コンサルタントや弁護士の力をかりなければ難しいことだ。なぜなら中国の法律は凄い速さで変化しており、それに追いつくには、本業の傍ら情報を集めて分析検討していくというのは、無理な話だ。経営者が本業を考える時間が少ないのは、問題だ。
 ここだけの話、僕も以前辞めていった従業員と労務関係の裁判になりそうになり、仲裁にかかったことがある。結構な額を支払った。これは、手続き上にミスを犯しておりその穴を抜かれてしまった結果だ。ここで詳しいことを書くと不利を被る人が出てくる可能性があるので割愛するが、このように重箱の隅をつつくような訴訟が中国で頻発しており、対策を打つ必要があるのだ。それには、やはりプロの手を借りるのが確実だ。
 現在ガンガンでは、行政手続、財務コンサルの張さんと人事労務のプロの小島さんという協力なサポーターに支えられて運営している。これからも多くの人達にお世話になりながらガンガンは伸びていくのだろう。また、お世話になっている人のためにも伸びていかなければならない。それがガンガンの使命のひとつだ。


第9回 建築も経営も、コンセプトがイノチ




(写真)小売りとレストランを一体化させるというイメージを具現化して設計してくれた東福大輔さん


 僕は、田舎者である。
 静岡県袋井市という都市に生まれ育ち埼玉の大学へ進学した。
 小さい頃から都市の憧れをもち自分の小さなコミュニティーへの閉塞感を感じ育ってきた。中学の時は、早く袋井市というコミュニティーから抜け出したくて、高校の時は、早く静岡というコミュニティーから抜け出したくて、関東の大学に進学してやっと閉塞感という感覚から抜け出した記憶がある。それでも就職をしてからまたその閉塞感という感覚が戻ってきた。そんな感情が僕を中国に仕向けさせた要因でもあると思う。
 中国で仕事を始めて、ちょっとずつ規模が大きくなるにつれて気づいたことがある。僕が求めていたのは、大きな土地ではなく、充足できる仲間を持つことだったということ。自分自身が成長するに従い、様々な人に出会うことができた。僕の本来の能力では到底会うことができなかったであろうという人との出会いが出てきたのである。それが現在の人間関係である。
 ワンさん、ジャンさん、小島さん、そして現在僕の周りにいて支えてくれている人々。すべて自分自身で行動をしてきたから出会えた人々だ。その中に東福大輔さんという建築家の友人がいる。
 東福さんとは、ひょんなことから出会った。天津の1店舗目のベーカリーを改装した時、そのアドバイスを求めて出会った人を介してのことだ。名前だけを知っていてその後2007年に北京店をオープンしてしばらく経ってから、友人の誕生日会で実際に出会うことになった。
 東福さんは、現在38歳。有名大学の大学院を卒業後、超有名ゼネコンの設計部に入り、さらにそれを捨てて、世界的超有名建築家の設計事務所で働き、北京事務所の担当者となって中国入りをした人だ。現在は、独立して北京に事務所を構えておられる。音楽なんかの話をしているうちに意気投合して、今でも仲よくさせていただいている。




(写真)人気の一品、エクレア


 僕は、ここで知り合い自慢をしたいということではなく、自分の能力以上のことは、自ら行動することによって生み出されるということ思うのである。そして今の中国には、そのチャンスが広がっている。
改めて僕の文章をみるとものすごく頑固で人の意見に耳を傾けない堅物のように感じられるが、実は、ものすごく人や本に影響されやすい性格だ。
 東福さんの影響を受け建築に興味を持つことができた。実のところ僕の大学時代の専攻は、土木工学で建築と近い学問を学んでいた。建築に憧れていた時期もあったけどそれは、ただただかっこいいからという理由であり、大学に編入する勇気も独学で建築を勉強する勇気もなかった。それでも今でも僕の心の中で憧れがあるらしい。実際、東福さん曰く建築やってる人かっこ悪い人多いですよなんて冗談半分でいってますが……。へへ
 そして東福さんに設計を依頼したのが、僕らにとって4店舗目となるレストランと食品スーパーを融合させた新店舗『ガンガンセラー』である。
 この店舗は、2005年に出店した1店舗目のオリンピックタワー店から約200mほどの近距離に位置していて、ディベロッパーからの働きかけで出店を決めた。
 犀地という高級アパートのテナント部分であり、いわゆる路面店だ。日本人も含めた外国人も住んでいて中国人の富裕層も多い。まだまだ開発が全て終わっているわけではなく、さらなる発展はありそうだ。
 出店した当時には、空き店舗ばかりで閑散としていた。しかし目の前には小学校があり、すぐ近くの大通りは、交通量も多く、天津の商業中心からもタクシーで初乗りでいけてしまう位置。だからといってものすごく賑やかで雑多な場所ではなく、ある程度の高級さも兼ね合わせた場所である。近くには、オフィス棟もあり、住居と混在しているという立地は、現在のガンガンにとっては、立地のセオリーでもあった。お店に面した通りは、並木通りとなっており秋口には、その紅葉と閑静な雰囲気がなんとも素晴しい。
 この条件を踏まえて出店を決断した最大の理由は、家賃の安さだ。ディベロッパーに日系の店舗を入れたいという考えがあり、特別価格で借りることができた。
 立地ありきで業態を考えることからスタートしたのである。
 ベーカリーを出店するにはオリンピックタワー店が近すぎるし、少々面積も大きい。オリンピックタワー店が74平米であるのに対して、この犀地店は120平米の2階建て。合計で240平米である。




(写真)Gang Gang Cell-ar2階のレストラン


コンセプトは「食品備蓄庫」

 そこで考えたのが小売りとレストランだ。精肉の需要も考えられたので、知り合いの精肉店に社員2人を研修に行かせた。さらに岡田がケーキを開発して製造、小売りには、ケーキと精肉、さらに野菜やその他調味料などの食品を販売するという形式。これが1階で2階がレストランだ。
 食品の売り場(スーパー)、加工場(キッチンフロアー)、消費場(レストランフロアー)、この順番で店が構成されている。食材が一階に備蓄されてキッチンで加工され2階に料理が上がっていく。この食品の流れが視覚的にも実現されたこの店を、食品備蓄庫という意味も含めて『ガンガンセラー』と名づけた。そして英語名は、the Gang Gang Cell-ar。
 なぜ、CellarではなくCell –arなのか?ここに内装設計のコンセプトが見え隠れする。備蓄庫としてこのスペルに細胞という意味のCellが含まれており、2階レストランは、開放的でありつつ天井を細胞のように区切りその一つ一つの細胞に対応してテーブルを配置。このテーブルと天井が対応していることによりそれぞれが独立した空間に感じられる。言葉では、なかなか上手く伝わらないけど、非常に面白い構造となっている。デザイナーである東福さんが作り上げたコンセプトだ。僕は小売りとレストランを一体化させた業態を考えており、それを東福さんが噛み砕いてデザイン案としてまとめ上げた。
 設計でも教育でも日々の仕事でもなんでもかんでもどうやらこのコンセプトを固めるというのは、とっても重要らしい。全ての行動は、達成したい目標の為に行われることで、この目標やコンセプトがしっかりと固まっていないとアヤフヤな結果となってしまう。
 その目標を常に意識することが非常に大事だ。常にゴールとは何かを考え行動をして判断をすれば、最初のコンセプトが徐々に近づいてくる。判断を迫られる時にまず本能的に浮かぶ基準が楽なのか苦なのかということ。しかしそれでは、うまくいかない。目標に対して、コンセプトに対してどちらが近しいか?という基準で判断しなければならない。そうしなければ同じ目的で仕事をしているスタッフが迷うだけである。一貫性のない行動とは、このことだ この新店舗は、2010年7月28日に開店を迎える。期待をもってのオープンだったがやはり簡単にはいかなかった。今までなら労務問題だけで四苦八苦していたが、今度はそこに加えて財務問題。さらに景気がよいという現象は、人事労務とって不利な条件となることがあると分かった。人材が売り手市場になることは、待遇や福利厚生などの条件が少しでも好ましくなければ募集をすれど人材が集まらない。現場に100%使ってしまいその他の仕事に手が回らなくなって世の中の変化に気づくことが鈍感になった僕は、判断が遅れてしまった。その結果、極端な人手不足に陥っていった。僕は、開店してからの1年間は、肉体的にも精神的にもどん底を味わい、心がどんどん病んでいった。
 そして、経営判断という仕事が遅れ勝ちになり、時間の余裕と心の余裕が無い僕は、たいした分析もできないまま一貫性のない判断をとるようになり、状況は悪化していく一方だった……


第10回 資金の余裕、時間の余裕、そしてリーダーシップとは……




(写真)自社で生産するケーキ、パン、自社で仕入れをしている精肉、有機野菜。外国人向けの価格の高いスーパーマーケットとは違い、手ごろな価格で高品質を提供。


 疲労とは、どこから来るのか。
 フィジカルとメンタル、日本語にすると心と体。

 2010年7月28日に4店舗となる食品スーパーとレストランの併合店舗をオープンしてからの約半年間、僕は心身ともに疲れていた。
 人手不足のために労働時間が多くなり、目の前のシフトをこなすだけで精一杯で改善ができない。やってもやっても理想に近づかない店舗に落胆し始め、負のイメージばかりが頭を一杯にさせていた。
 そして、追い討ちをかけたのが資金不足である。
 ここの内装工事費を月賦で支払うことにし、その資金は毎月のキャッシュの増加(=売上額のアップ)を見込み、それを充当するという方法をとったのである。
 しかし、そんなに上手いこといくわけもなく、計画よりもそのキャッシュの増加ができず、オープンしてから3カ月たった頃から、このまま行くと2011年の1月、2月頃には資金がショートする可能性が出てきた。これが僕の疲れを一層大きくした。
 さらに、人材も思ったように機能せず、ストレスがたまるばかりだった。
 会社の社長が経営判断をするための時間が確保できないことは、大きな問題である。
 最終的な判断が全てゆだねられる存在がその判断ができない。部下達は、迷走するばかりで機軸を失ってしまう。このままでは、状況が悪化してしまうということがわかっていながら改善が進まない毎日ということが僕の一番悩ましいことだった。




(写真)スーパーは午前10時から夜10時まで営業、レストランは11時半からのランチタイムと17時半からのディナー。いつも満席


人事にメス、自分にも改革のメス

 僕は、経営判断の時間をつくるために、まずは新店舗の月曜日休業を決めた。 
 そして人事にメスを入れて、考え方が共有できない人達には退職してもらうことにした。 考え方が違う人間、向上心がない人間、努力をしようともがくことすら放棄する人間は、集団にとってはマイナスに働いてしまう。
 管理者側の問題に、スタッフが辞めてさらにシフトが厳しくなることを恐れて、問題スタッフに強く指摘できない、解雇できない、ということがある。実は、これが一番よくない。つまり、「現場シフトは人数が多ければよい」という考え方は誤っている。
 思い切ってその人の問題点を指摘したり人事異動をすることによって、組織は急速に改善されていく。たとえ人数が少なくなっても同じ意識の人間の集団であれば、作業上の問題はたちまち改善されていき、精神的に余裕が生まれる。そして、なぜか人が集まり始めて、体力的にも余裕が生まれてくる。逆に言うと、負の影響を与える人間がいることは、人件費の無駄以上の無駄が起こるのだ。そうした環境は、稼働日数や営業時間を減らしてでも改善するべきだと実感した。人事にメスを入れたことにより人手不足は進んだが結果的に精神的余裕が生まれた
 さらに必要と思えたことが自分改革だった。
 だらしない自分を脱却することが会社を飛躍させる重要なポイントであると。




(写真)地元の食材を使い、日本料理を基本に中華やイタリアン、フレンチの要素をとりいれた料理。食に興味のある地元の人に向けて低価格の料理に加えて食の情報も提供する楽しいレストラン


 常に奢ることのないように行動しようと心がけていたが、自分の本質も改善してしまうほどの勇気はなかった。
 もがき苦しむ状況があってこそ飛躍的な成長が望める。そのためには自分自身が考え実行しなければならない。人から言われたことは、なかなか身につかない。なぜなら自分自身が感じて実践しないと本質的な理解はできないから。現在読む本や以前聞いていた諸先輩方の言葉が、実際に自分の身体を通り抜けることによってよくわかる。自分自身の苦悩は、自分自身でしか解決できないし、その苦悩を招いた原因は、過去に行ってきた自分自身の判断によるものだ。
 その改革の取り組みとして、簡単なことを毎日継続しようと考えた。
 それは、非常に簡単なことからである。

 毎日ゴミを捨てる。
 朝起きたらベットをきれいに整える。

 こんなことから始めたのである。
 人の能力の差は、それほどはっきりと現れない。例えば101の能力の人間と100の能力の人間であれば、瞬間の結果において大差ない。
 しかし、どちらかがひとつのことを365日続けた後にはどのような差が生まれるのか。その差は、歴然である。
だからこそ継続が大切なのだ。現在でも僕の『継続して行うリスト』の項目は増えている。なかなか達成できないこともあるけど、継続する習慣が少しずつ身についてきた。自分にも多少自信が出てきて、新たな自分に生まれ変わっている実感がある。

 精神的に余裕が生まれた僕は、徐々にその他のことにも眼がいくようになった。また、月曜日の休業によって経営判断の時間が確保できて、やっと資金について頭が回り始めた。 そして資金を借用しようと考えた時、最初に頭に浮かんだのが、僕の父親




(写真)レストラン新作の娼婦風スパゲッティーとまとアンチョビ味。プッタネスカというパスタで、セロリの葉っぱを散らしています


父に恐る恐るかけた電話

 他の人の顔も頭によぎったが、やはり身内に頼むことが一番と考えた僕は、2010年10月末のある夜、僕の使い古した携帯電話から父の電話番号を検索してカーソルをそこにあわせて恐る恐る電話をかけたのである。

 父は、いつものように『もしもーし』と冗談めいた声で電話にでて、僕は世間話から会話を始めた。
当然、僕は、本題に踏み込めずただただ父親の会社のことを聞いたり、重要でない近況を話したりと。
しかし、ここで電話を切ってしまえば、僕と一緒にすすんできている従業員達の希望を踏みにじるということが頭によぎり、思い切って話を『借金』の話題に踏み込んだ。父の声色が一変すると思ったのだが、、、
 父は、これまで波乱万丈の人生を歩いてきた。大学で電子工学を学び、技術者として電子部品メーカーに就職した。そして、若い頃に独立して現在の僕と同じような歳で会社を潰した。その後、僕が高校生の時に再度起業して特殊電源の設計メーカーの経営を始め、今に至る。
 苦労をしているため、僕が子供の時から余分な小遣いをもらったこともない。父にものをねだっても無駄なことだし怒られるだけだというのが僕の父に対する印象である。そのイメージが頭に浮かぶだけにお金の話をするのが億劫になる。そのため、恐る恐るの電話だった。。




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 しかし、父は経営者として大先輩である。こんなことは当然お見通しで、むしろこれまで資金不足に陥らずにきたこと、資金不足が起こりそうな事態を予測し事前に準備をし始めていることを褒めてくれた。
 もちろん、父と子という関係であっても、資金借用にあたっては、借用書をつくること、利子をつけて返済すること、といった一連の手続きを踏むことを要求された。ただ、これも父親として僕に学んで欲しいというところから甘くしなかったのだろうと思う。
 そして急遽、父が天津に来ることが決まった。
 2010年11月13日、やって来た父から、借用書のサインと、代わりに現金を受け取った。
 リーダーシップを発揮するには、切羽詰った状況を回避しなければいけないことを、この時、身をもって感じたのである。事を成すには、緊急でないもっとも重要なことを考える時間が必要であると。

 ここで僕の心は軽くなり、いよいよ新店舗を本格的に改革していくことになる……