第6回 いよいよ2号店、3号店、しかし……




(写真)ピンクのリボンをしているシャオリュウ


 2007年6月、場所は、天津経済開発区に位置する某5星ホテル。
ホテル側から出店のアプローチがあった。

・ホテル側が設備投資をする。
・ 売り上げの10%をホテルに家賃として支払う。
・ ホテルで使用するパンは、すべてガンガンが製造してそれを買い取る。

以上が大まかな条件だ。

 これを見る限りではリスクが非常に少ない。自己投資も細かいものを買うぐらい。これならということで出店を決意した。
 そのコック長としてシャオリュウ(劉延民)を登用する。彼は今でもガンガンで働く優秀な幹部の1人だ。彼は、2011年12月現在、29歳で黒龍江省出身の東北人だ。2006年2月入社でほぼ設立メンバーに近い存在。東北人の男性は、男気を持った者が多いと言われていて、彼ももちろんそんな男らしさというものを持ち、非常に仕事に対して真面目で頼りになるヤツだった。頭の回転が速いという訳ではなく体を動かし結果を残すタイプだ。もちろんこんな小さな店舗のスタッフであるので頭でっかちで口だけが専攻するスタッフは、必要でなかった(現在もいらないが……)。
 シャオリュウは、文句も余言わず黙々と言われたとおりに仕事をし、岡田の信頼を勝ち取っていったのである。
 続いて北京の出店も決定。ここは、友人より紹介され、そのコンセプトに心を惹かれて出店を決意。
 藤崎さんというイタリアンレストランを経営されている方との共同経営という形での出店だった。藤崎さんのコンセプトは、ニューヨークのデリカテッセンだった。僕は、日本で働いている頃より、デリカテッセンという業態で起業してみたいというイメージがあった。実際、以前働いていた会社でひと月ほどそのような業態で研修で働いていたこともある。それがこんな形で実現することができたのである。ガンガンがパンの製造を受け持ち、藤崎さん側がお惣菜、その他物販をいうように。もちろん藤崎さんが主体の店舗である。
 このように、2007年6月に天津開発区で出店、2007年10月に北京の朝陽区への出店と続いたのである。今考えれば随分大それた行動をしたもんだと思う。当然このまま勢いにのって……とは、うまくいかない。まだまだ若すぎる僕達には、この後大きな落とし穴が待っている。
 開発区の店舗をオープンしてから半年が過ぎた頃である。もともとホテルの朝食で使用するパンを買い上げてくれるという条件のもと、出店を決断したのだが、ホテル側がその買い上げを突然断ってきたのだ。売上もやっとのこと損益分岐を迎えたところで、売上の25%を占めていた朝食代がなくなっては経営が不可能である。
 そして、デリカテッセンという業態に気を引かれて僕の足は、天津の開発区から遠のき北京にばかり滞在していた……。そして北京店の売上は日に日に伸びていき僕の時間は、ほとんど北京というようになっていった。
 ホテルとの関係作りもうまくいっておらず、僕の気持ちは即撤退という考えに傾いていった。
 原因は、僕自身にあったことも否めない。ビジネスにおいて“リスクヘッジ”というカッコイイ言葉がよく叫ばれていたことがある。しかしこれって本気を出すことの障害となるのではないかと思う……。最小限の損失で実行に移すことは、自分に甘えが出てくると恐れがある。まず、企画段階において本気にならない。このリスクなら失敗しても大丈夫だろうという思いが出店場所の市場性についての考え方が甘くなる。
 さらにその売上が伸び悩み、関係も複雑になれば、自分のモチベーションも上がっていかない。
 そんな負のサイクルが回り始めた中、シャオリュウは、このような状況の中でスタッフを管理してホテル側とやりとりし、よく頑張っていた。売り上げの上がらない店舗において一般従業員のモチベーションを保つことほど骨の折れることはない。ホテルとの関係も日々悪化していた。彼らのルールと僕達のルールは、やはり違う。文化の違う企業とそのスタッフ、そしてその中で働かなければならないシャオリュウとガンガンのスタッフ、本当に苦労をかけた。この点において支えになっていたのは、岡田の存在だ。シャオリュウと一緒にホテルの対応やらスタッフの管理、ましてや天津市内よりも娯楽が少ない土地で過ごし自ら泥をかぶってこの現場を監督していた。
 これには、今でも僕の心の中にいろいろな後悔が残る。
 2008年3月、僕らはホテルから撤退した。
 幸い決断が早かったので、累積赤字は最小限に防ぐことができたが、この始めての大きな失敗で、多くのことを学ぶことができた。しかしこの負のサイクルは、ここで終わることがなかった。




(写真)”いもんぶらん” さつまいもペーストでつくったモンブラン風ケーキ


ストライキ、コック長疾走、試練連発

 従業員ストライキ。
 開発区のホテルの店の閉店を機に、開発区内の輸入食材スーパーなどの店舗に卸していたパンの製造を天津本店に移行した。その瞬間に天津本店にてストライキが起こった。仕事量の増加により従業員の不満が一気に爆発したのである。当時天津本店のコック長は、李くんというオープニングスタッフであった。確かに仕事もできたのだが、どうも信頼ができない管理者だった。でも実力を考えると彼しかこの店舗を任せることができず、正直、岡田と2人で悩んでいた存在だった。その彼の主導の下、ストライキが起こったのである。
 早朝5時半に売り場スタッフから電話があり、製造スタッフが1人も出勤していないという連絡だった。僕と岡田はすぐさま現場に出向いた。まずは、今後どのようにするかの対策とストライキに関わったメンバーをどのように対応するか……。大変な状況ではあったのだが、同時にこの時、2人の中で、失望や喪失という感情よりもこれを機に改善に進む期待というような感情が起こっていたことに気づいた。
 まずは、ストライキメンバーが宿舎にいることが分かり、すぐさまヤオユエン(僕の第一のスタッフ)を向かわせ、辞職表のサインをさせるように言い渡した。彼らは、何の躊躇もなくサインをした。それもそれで、彼らは、まさか本当に解雇されるとは、思ってもいなかったようである。実際、その後この過半数が戻ってきたいということを言ってきた。ただ1人を除いて全ての関わったスタッフについては、いまだに再雇用していない。そのただ1人のスタッフについては、改めて書くことにして、その日から、僕達2人は、たった2人で天津本店の現場で全てのパンを作り始めた。初心に帰ったつもりで製造。同時に人材募集にヤオユエンが走り、北京のコック長であるシャオチェンにヘルプで天津にきてもらい。岡田、羽深、ジャンくん(残ったただ1人のスタッフ)、しゃおちぇんで製造を始めた。
 そして、開発区のコック長だったシャオリュウも戻すことに決めた。
 彼は、開発区の閉店と共にひとまず実家に帰り、休暇をとってからこちらから毎月の援助を与えて他のお店にケーキの修業に行かせる予定だった。それがこんなことになり、急遽実家の黒龍江省から呼び戻した。もちろん快く引き受けてくれてすぐに手を差し伸べてくれた。彼には、本当に助けられた。これが本当の信頼だろう。
 そして、少しずつスタッフが増えていき、結局シャオリュウが天津本店のコック長として収まり、結果的に2カ月間で内部強化が図れたのである。
 この経験も僕達にとってはよい機会となった。信頼できるスタッフと信頼できないスタッフ、そしてこの先どのように従業員達とつき合っていくかということ。
 さらに開発区をクローズしたことで会社の財務体質も改善されて、利益率が飛躍的に伸びた。いわゆる適正配置ができたのだろう。
 こうして、撤退の処理が終わりよい結果が生まれたのも束の間……。またまた試練が……。さてそれは、次回に……


HabukaTakeshi

投稿者について

HabukaTakeshi: 生年月日:1978年12月25日 血液型: O型 出身地: 日本国静岡県袋井市 大学卒業後、サラリーマンを2年経験、退職後中国に渡りパン屋をオープン。 趣味は、バスケットボールとボードゲーム。