第4回 念願のパン屋、パートナー・岡田信一とスタート

 カレー屋を始めた2005年、大学時代の友人、岡田信一が中国にくることになり、その半年後から自宅でパンを作り始めた。自分で食べるためのパンではないので、設備も相応の材料も必要である。僕達が思い描いていたパン屋とは、ハード系、デニッシュなど欧米を意識した“おしゃれ”なパン屋である。そもそもなぜ岡田とパンなのかというと、彼との出会ったきっかけまで遡る。かれは、大学一年生の時に某大手コンビニエンスストアーで働いていた。いまだから言えることだけれども、その廃棄弁当やパンを“あさり”に僕が行くことになってからの付き合いだ。彼がパンを食べて僕が弁当を食べる。ようするに岡田は、パンが好きだったのだ。実際、修行中でもその店舗の廃棄パンなどを1人で食べていたそうだ。(実際の職人の多くは既に飽きていて食べません)。
 さて、話を元に戻すと、カレー屋さんを始めた当時は、岡田とルームシェアして140平米の広さの家に住んでいた。もちろん、外国人が住むような高級マンションではなく、ローカルアパート。そこに家庭用よりもほんの少しだけ大きなオーブンを買って、岡田が毎朝手捏ねでパンを焼いていた。食パン、デニッシュ、フランスパンなど、カレー屋の店先にパンを置いて販売を始めたのだが、まったく売れない。自宅で作るパンの品質における限界、そして1杯2元で中国式のラーメンが食べられる中で、デニッシュ1個3〜4元という価格設定と大学の構内という立地では、売れるはずもなかった。ここで考えられるのが、日本人のお客さん。それも家族を持った女性達。天津にはトヨタや伊勢丹などの日系企業があり、平成22年 外務省発表の統計だと、天津の長期滞在者(三ヶ月以上滞在予定であるもの)の邦人は、2983人である。天津は、出張者が非常に多く、ビジネスビザでない者も合わせると実際の人口は、この倍になるとも言われている。
 そんな中、焼肉屋を経営している日本人の友人の店で委託販売をさせてもらうことが決まった。そこからの口コミで徐々に日本人の中で話題になり、配達の申し込みを受けるようになった。
 岡田のパンを売り始めて2ヶ月後には、日本人やその他外国人が多く居住するアパートメントの中でお客さんを集めて試食会を行うという販促活動まで行うこともあった。
 その頃になると自宅で作るパンには限界を感じ始めていた。家庭用のオーブンよりもほんの少しだけ大きなオーブンやその他素人レベルの設備で手捏ねで作るとなると、商売になるほどの品質と生産量を確保できないと判断したのである。




(写真)左端が相棒、岡田


ワンさんの力を借りて、内資でスタート

 それは、店舗を探し始める動機となった。
 事業には、多岐にわたる思慮が必要だ。材料を探し、試作をする。内装計画をたてて、設備を発注し、人材を募集して面接を行い、採用をする。それから……、というようにお店をひとつ作るのは簡単なことではない。それはこんな小さなカレー屋さんでもいえること。勇気を持って行動することで、チャンスが落ちている荒野へと進んでいくことができる。今となっては、北京でも天津でも多くの日本人が起業をして働いているが、2004年当時はまだ少なく、このような規模の企業でも様々な人々が興味を持ってくれて、つき合う人も変わっていった。
 カレー屋さんは、決して金銭的によい結果を生むことができなかったけど、新しい人間関係と新しい経験を積むことができた。そして、その培った人脈のおかげで、2005年、天津の中では日本人人口が最も多い「オリンピックタワー」というアパートメントの1階に出店することができたのである。
 僕の経営センスというものがもしも天才的であれば、最初から中国人市場に飛び込んで成功したかもしれない。しかし、起業経験のない僕には、取っかかりとして日本人を含めた外国人市場から始める方が比較的簡単だったと思うし、それでよかったと今も思っている。
 こうして、2005年7月28日にパン屋のオープンを迎えたのだが、幸先のよいスタートではなかった。
 行政手続は、すべて王偉さんに任せてほぼノータッチ。しかも、会社は表向き王偉さんの会社という形を取った。第2回「中国の父・ワンさん、そして天津」で提起した問題である丸投げ状態である。当然、これは小さな失敗につながっていった。
 こちら中国の新規オープン店の大部分が、営業許可が工商局という政府機関から批准される前に試営業を始める。
 もちろん、何もわからない僕達は、多くの店と同様、営業許可が下りる前に営業を始めた。そして、誰が報告したのかそれは藪の中だが、オープン2日目で工商局の査察が入り営業停止。「オリンピックタワー」との相談のもと、ビルの2階にある朝食会場でコッソリと営業を再開したら、また査察があり再営業停止。結果、1万元の罰金というスタートだった。
 再スタートは、営業許可が下りた8月28日。オープンを目論んだ日からちょうど1ヶ月後だ。その後は少しずつではあるが売上も上がっていく。約二ヵ月後、1日の売上が2000元(当時の約3万円)に達した日は岡田と2人でキリン一番絞りを飲んだ。あの時は、本当に嬉しかった。




(写真)低温長時間発酵フランスパン


コソコソしなきゃならないストレス

 経営というものは上手くいかない。最初に計画した試算は、まるであてにならないことがほとんどだ(単に僕の能力が足りないという噂もあるが……)。
 たとえば、事前に想像することのできなかった経費がどんどん発生してくる。そして買った備品が壊れまた経費がかさむ。僕自身、当時よりも経営感覚の精度は上がっているが、今でも新規店舗や新規事業を始める際に作成する試算書はあまりあてにならない。当時の損益計算は今見直してみると非常にお粗末なもので、僕達の給料は1500元(当時約1万円)からスタートさせたのだが、1年間は昇給させることはできなかった。
 それでも、赤字を出すことなく経営ができて、給料も少しずつあげていくことができた。
 天津市内のカフェやレストランなどパンの卸先も増えていき、2007年頃には事業として成り立つ気配が出てきたのである。そこでひとつの問題に不自由を感じ始める。
 前述したように、僕達の会社は王偉さんの名義を借りて国内企業からスタートさせた。当時の中国の法律だと、製菓、製パンの製造、販売という経営範囲で国内企業を立ち上げるのに必要な資本金は30万元(現在のレートで日本円約360万円)だった。一方、同じ企業を外資で始めるとなると10万米国ドル(現在のレートで日本円約760万円)相当の人民元が必要だった。僕達の事業が一体成り立つかどうか分からなかった当時は、まずは国内企業からスタートさせよういうことになり、王偉さんに助けてもらったのだ。だが、国内企業だと外国人に対してビザをおろすことが難しい。5つ星クラスの国内ホテルなど、大きな規模の会社ならビザを発行できるが、それでもある程度の基準を満たさなければならない。そんな訳で、僕達のビザは王偉さんが経営する電子部品関係の会社で発行してもらって、登記上は王さんの会社に所属という形になっていた。
 それは、政府関係の手続きや査察の対応などを僕達が行えないということを意味する。厳密に言えば、パン屋で働くこともできない。実際に政府機関の査察があるときなどは、コソコソと隠れていたのだ。それは、従業員にとってもよい影響を与えない。
 そして、ついに合資企業の設立へ入っていくのである。


HabukaTakeshi

投稿者について

HabukaTakeshi: 生年月日:1978年12月25日 血液型: O型 出身地: 日本国静岡県袋井市 大学卒業後、サラリーマンを2年経験、退職後中国に渡りパン屋をオープン。 趣味は、バスケットボールとボードゲーム。