第3回 大学の学食でカレー屋。従業員第1号ヤオ・ユエンは天津女子




(写真)何度もピンチを救ってくれたヤオ・ユエン


外国人が中国で起業する場合、以下の4つの方法が実際行われている。
僕がここで書くことは実際に行われている事であって、それが合法か非合法かということはそれぞれの個人の判断による。
 1つめ、完全なる外貨による独資企業。
 2つめ、外資と内資(中国人が投資する人民元)の出資による合資企業。
 3つめ、完全内資の国内企業と個人商店。
 4つめ、人が登記した会社や団体を使って行う起業。
 それぞれに、制約やメリット、デメリットが存在する。
 僕は、天津大学の1年間の語学留学を終えた後の2004年、カレー屋を天津理工大学にてオープンする。ここでは4つめの方法、人が登記した会社を使って起業という方法を選んだ。
 さて、なぜここでカレー屋さんなのか?という疑問を持たれると思う。実は、パン屋を始めようと企画していた時からワンさんと僕の父親の間で「カレー屋もいけるのでは?」という話が持ち上がっていた。なぜなら、カレー屋は極論を言えば、鍋1つでできる。少ない投資で始められるということである。
 さてさて、安易な考え方で始まったのかと思われるかもしれない。
 その通りで非常に安易な考え方である。
 前回の“中国での留学時代”で登場したワンさんが、大学内の食堂に面白い立地があると紹介してくれたのだ。

 中国内の大学食堂というと想像が難しいかもしれないが、日本の大学のそれとそれほど大きな差はない。入り口から入って四方の壁側にパーテーションで区切った場所があり、それぞれが異なる経営で異なる料理を提供する。フードコートのような形態。その約10平米くらいの売り場と10平米くらいのキッチンを借りてカレー屋をオープンした。
 もちろん大学内の食堂であるから価格も設定しなければならない。ということで材料コストをさげながらそれなりの物を出さなければならいという条件だ。
 もちろん、日本のカレー・ルーなんてつかっていたらコストを抑えることはできない。なにせ、周りのお店は、2元(当時で26円くらい)で中国式のラーメン1杯とかそんな世界である。1人前5元以下の商品は、この場所にはない。コストを抑えるためにスパイスやらなにやら全て中国産でカレーを仕込み、それなりに手間隙をかけて作っていた。
 さて、このオープンの時に人生初めて僕の従業員となったのがヤオ・ユエン(姚媛)である。彼女は、ワンさんの紹介で出会った天津人で、1980年代以降に生まれたいわゆる都市籍の中国人。7年経った今でも会社に残っている唯一の存在だ。
 僕のひとつの幸運は、彼女が辞めずにずっとついてきていることだ。今では会計や労務など現場以外の仕事を担当している。彼女の家族もそれほど裕福ではないけれど都市に住む中間層といったところで、それほど不自由もなく育ってきたのだと思う。性格も非常におっとりしていて、ぽっちゃりとした体型が愛らしい。この7年間でも何人かの彼氏がおり、けっこうモテる。頭の回転が速いタイプというよりゆったりとした感じが男を惹きつけていると思う。現在は、ものすごい男前を捕まえて結婚したのでひと安心。
ただ、この場所のほかのブースで働いていた人たちは、中国でも貧困層に入る人たちばかりで、中国語も地方訛りが強く、なかなか聞き取れない。さらに、中国での仕事の第一歩ということで何もわからない。頼みは、標準語を話すヤオ・ユエンだけ。さらに日本人という先進国から来た人間がこの環境で働くこと自体があり得ない状態。収入面、環境面、すべてにおいて自尊心を全て壊していかなければ、日々仕事に立つことができなかった。決して裕福に育ったというわけではない僕だし、かれらを卑下していたわけでもない。ただ、今までの生活レベルを考えると、どうしても僕の芋みたいな自尊心にヒビを入れたのである。
 そこで働いている人々は、中国の農村部の人ばかり。小学校すらまともに卒業しておらず、外国人の僕の方が中国の歴史や政治についてわかっている状態。そして、その大学に通う日本人留学生と中国人学生が主なお客さん。日本で裕福とは言えない程度の生活水準ではあったけれど、貧乏でもない僕は、このような生活は初めてで、精神的に辛い日々は続いた。




(写真)創業当時天津を走っていた黄色い四角いタクシー「面包車」にちなんでニックネームは「食パンタクシー」


給料1000元(1万2500円)で24時間

 半年間は自分の給料(月給/1000元)を差し引くと赤字だった。人力資源和社会保障局が定めた当時の最低賃金が月給で600元(約8000円)。そして、この食堂内で働く従業員のほぼ全てがこの給料で24時間という拘束時間で働いていた。この24時間と言う数字っは僕達日本人の想像を超えてしまうかもしれない。これには、仕事の価値観のズレがある。食堂内には、日本人から見れば劣悪な環境であるけれど宿泊する施設がある。そして、賄いがあるから食事にも困らない。娯楽を知らないまま育った中国の農村出身の若者は、その環境が決して酷いものとも感じるわけでもない。さらに仕事の取り組みという面で見れば、緊張した状態が続くわけでもない。日本人、そして都会の生活のように厳しい時間管理、早いリズムで進むわけではない。価値観とはおかしなもので、知らなければ不幸と感じない幸福もある。
 比較対象のない状況が強みとなり、ガムシャラに事を成すのかもしれない。

話を経営に戻すと、前半の半年は、先にも話した通り赤字を出していた。その反省を生かして、後半の半年は「カレー屋」という枠を取り払い、丼屋というコンセプトのもと、いろいろなメニューを出して運営を始めた。その結果、自分自身の給料・1500元(約2万円)を差し引いてなんとか赤字なしの状態まで持っていくことができた。
 その時のメニューは、カレーライス(トッピングで6種類ぐらいのバリエーション)、ハヤシライス、カツ丼、親子丼、ビピンパ、タコライスなど。予想できなかったのは、親子丼とカツ丼がものすごく人気があったこと。日本のダシの味は、中国人の人たちにもうけいれられることがわかった。
 そして、1年後、大学食堂全体の改装を機に僕達は撤退を決意した。もともと実験店舗というような位置づけで始めたので、ちょうどよい機会だった。
 さて、これからパン屋へのオープンへと入っていくのである。


HabukaTakeshi

投稿者について

HabukaTakeshi: 生年月日:1978年12月25日 血液型: O型 出身地: 日本国静岡県袋井市 大学卒業後、サラリーマンを2年経験、退職後中国に渡りパン屋をオープン。 趣味は、バスケットボールとボードゲーム。