第一回『Beijing Calling』

2016年8月23日 / Let it Beijing



(写真)音楽雑誌の取材にて


2013年10月18日、25歳の誕生日に私は北京に来ました。

北京に来るまでは日本で作曲家として活動しており、幸いにも大好きな音楽に携わりながらご飯が食べられる、充実した日々を過ごしていました。自分が書いた楽曲がドラマやアニメ、歌番組などで流れるというのは何事にも代え難い喜びであり、誇りでもあります。新聞や雑誌の取材を受けたり、専門学校で特別講義をするなど、沢山の貴重な経験をさせていただきました。

「なぜ北京に来たのか?」

北京でクリエイティブな仕事をしている多くの人が聞かれるフレーズだと思います。「海外で自分を試してみたい」「海外での音楽教育がやりたい」「これからは文化を世界に発信する時代だから」etc…。
私も嘘偽りのない本心を答えているのですが、どれもこれも本当の正解ではない気がしています。「なぜ北京に来たのか?」なんて一言二言では言えるものではないのかもしれませんが、もしかしたら私自身もまだ探している途中なのかもしれません。このビリオンビーツの記事を書いてみたいと思ったのも日々の出来事や北京での暮らしをまとめていくうちに何かが見えてくると思ったからです。

「なぜ北京に来たのか?」

もちろんこの言葉にはいくつかの解釈があると思います。
基本的にはクリエイターとしての精神的な部分であったり、ビジネス的なマーケットの部分であったり、作曲家としての意見を求められることが多いですが、経緯という意味では1冊の本が書けるくらい素晴らしい出来事が重なっています。

そんな北京に初めて訪れたキッカケから、現在の生活や音楽を通じた活動などを書いていけたらと思っています。



第二回『Separate Ways』

2016年8月23日 / Let it Beijing



(写真)レコード会社のパーティーに出席


全ての始まりは2013年6月末のことです。
私は海外に活動の場を求めるため、お世話になっていたマネジメント事務所を離れる決断をしました。それは同時に日本ではなく海外に活動の場を求めるという意思表示でもありました。



実はその頃北京に来るなどとは全く考えておらず、アフリカや南米なども含めた全世界の中で拠点を探そうと思っていました。音楽で言えば一般的にアメリカやヨーロッパなどが選択肢に挙がると思いますが、むしろ自分はアジア(東南アジア)・アフリカ・南米といった国々での活動を考えていました。どうせ海外に出るのならば制作だけではなく『文化途上国での音楽教育がしたい』という気持ちがあったからです。



私自身17歳と決して早く音楽を始めていなかったのですが、それでも音楽をしてご飯を食べるという自分にとって最高の暮らしをすることができました。



しかし、それは日本には音楽の大学や専門学校だけでなく身近な近所にも音楽を習える環境があったことは大きな要因だと思っています。



まだまだ音楽教育が盛んではない地域で音楽を教えるということは世の中に何か貢献ができるような気がしたこと、そして私自身が更に音楽家として成長するために必要だと思ったことでもありました。



中国は遥か昔から世界の文化を牽引してきた国であり素晴らしい文化を持つ国ではあるものの、私のやっている分野においてはまだまだ途上国であると思っています。



前々からボランティア活動には興味があり、青年海外協力隊(JICA)などの説明会や興味のある分野の報告会に定期的に足を運んでいました。あくまで自分が海外赴任をするというよりも今後音楽をしていく中でボランティア活動にも参加したいと思っていたので、その貴重な体験談を参考にしたいと思っていたからです。その中で僕の心を掴んで離さない、本当に素敵な活動がありました。



ウガンダの中等学校での音楽プロジェクトです。



まずはこの動画を是非見ていただきたいと思います。ウガンダの子供達が描いた未来が音楽になっています。



http://www.youtube.com/watch?v=MqHOHJ_R674

この動画を見て大きな衝撃を受けました。テーマやクオリティの素晴らしさはもちろんですが、同世代の発起人がスグにこのプロジェクトの発起人にコンタクトを取り、メールでのやり取りを経てお会いする運びになりました。メールをした時点ではまだ現地での活動をされていたため、少し時間が空いてのご対面となりました。


新宿の駅で待ち合わせをしたのですが、慣れない駅での待ち合わせに15分程電話を片手に走り回ったのを覚えています。たどり着いた先に少し年上の好青年という雰囲気のOさんが笑顔で迎えてくれました。言葉は覚えていないのですが、最初の一言二言でグっと心を引き寄せる大きな人だな、という印象を受けました。限られた東京滞在の中で貴重な時間を割いてくれたこともあり、現地での活動や今後のこと など駆け足でお話していきました。今後も海外に関わろうとする強い意思とウガンダでの苦労を楽しそうに話す彼に何か大きな魅力を感じていました。



この日を境に私は人生の次の選択を考えるようになりました。



日本で音楽を続けるのか、海外に出て何かをするのか。



このまま日本で続けていけば一般的には幸せな人生かもしれませんが、この先結婚して子供がいて…となってからは一人で海外に出ていけるわけがないこともなんとなく感じていました。チャンスは今しかないかもしれない、ここで決断しないと後で後悔するのではないか…。



考えれば考えるほどに止まらなくなっていく中で、6月には完全に抑えきれなくなっていました。世界中の子供達と音楽をしてみたい。こんな素敵な笑顔をみてみたい。僕自身もこんな笑顔になってみたい。


私はまだ音楽を学ぼうと思っても簡単には学べない人が存在する国での活動を決めました。もちろん作曲家としての活動も平行して続けていく中で、その国の最前線を支える作曲家として活躍していける よう一層の努力を誓いました。



私はフリーランスになったその日に多くの家族や仕事の仲間、友人など多くの人に近い将来日本を離れて活動していく旨の電話をかけました。そしてFacebookに強い意志を持って『海外に活動の場を求めます』というような文章を書き込みました。



この書き込みが私が北京に来るキッカケになるなど、その当時は思いもしませんでした。


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第三回『Musicman from Beijing』

2016年8月23日 / Let it Beijing



(写真)名古屋にて専門学校へ進学希望の学生対象の講義をしました


Facebookに書き込みをした後、まだ電話が繋がらなかった友人達から何本も電話が入ってきました。誰もが信じられないというような反応ではありましたが、強い意思を持って丁寧に説明することである程度は理解してくれました。


もちろん日本での仕事を続けながら活動の場を広げるという選択肢もあったと思います。しかし、海外を行き来して活動の場を広げながら作品をリスナーに届けるような生活よりも、真っ先に必要としてくれる地域で生活することを望んでいました。



もちろん誰の目にも順風満帆の若手作曲家が全てを捨てまで海外に出ていくということは阿呆なことであり、贅沢なことだとはわかっていました。



実際「日本での活動を停止する」などと言っても日本で完成させなくてはならない仕事がまだまだ沢山残っていました。そのためまずは目の前の作品を全力で世に送り出すことに集中して、時間が許す範囲で海外を視察しようと考えていました。



そんなことを考えていた矢先、運命の電話が鳴りました。唐突にかかってきた電話の主はレコーディングエンジニアのIさん、僕が日本を離れるという話を聞いて電話をくれたそうです。



「海外に行くって聞いたんだけど…?」「中国で音楽をやっている人と一緒に飲んでいるんだけど、来る?」散歩していた駒沢公園をいつもの半分の時間で走り抜け、急いでタクシーに乗り込んで向かったのを覚えています。



都心の洒落た居酒屋に40~50代の音楽業界の方々が7~8人集まっていました。皆さんは某レコード会社で働いていた先輩後輩というような関係で、何年ぶりかの集まりというような少しアウェイな環境でした。業界人というのはどちらかと言えば見た目も派手な傾向なこともあり、普段人見知りでない私も少し引っ込み思案になりがちです。しかし、既にある程度出来上がっている状態だったこともあり(?)遅れて来た若者を快く迎えてくれたので、すんなり入っていくことができました。
そこで「中国で活躍されているレコーディングエンジニア」と紹介されたKさんはとても気さくな雰囲気で話してくれました。



「日本でどんな作品をやっているの?」「なんでわざわざ海外に出たいと思ったの?」



いろいろお話をする中で少しだけ中国の音楽事情もうかがうことができましたが、この日まともにお話できたのは20~30分程でした。



結局その日の飲み会は朝まで続いていて私も半分くらい覚えていないのですが、「中国にまずは一回来てみるといいよ」と言ってくれたことは今でも覚えています。いただいた連絡先に早速「中国に行きたいのですが…」というような内容でメールのやり取りが始まりました。



第四回『Communication Breakdown』

2016年8月23日 / Let it Beijing



(写真)北京の最初の食事は羊の串焼き


KZさんのスケジュールの都合で7月中は難しいとのことだったため、まずは台湾への視察に行くことに決めました。
台湾の片道切符のバックパッカー状態の珍道中も後日まとめて書ければいいと思っていますが、10日程経過した頃にKさんから「○○日~なら大丈夫ですが、来ますか?」という連絡が来ました。



もちろんその日のうちに帰国の航空券を取得して翌日には日本に戻り、中国行きのチケットを購入しました。
一週間の滞在期間中はKZさん宅に泊めていただくことになりました。



酔いながら隣で20~30分程話した人の家に泊まる、まして海外で一週間というのは警戒心が無いのかもしれません。
しかしIさんに紹介していただいたことはもちろん、東京でお会いした印象なのか不思議と不安はありませんでした。



飛行機に乗り込む前にお土産…ということでジョニーウォーカーの青ラベルを購入しました。
今考えてみると最高のチョイスしたが、当時は中国ではウイスキーが日本の2倍~3倍の価格も当たり前だということはもちろん知りませんでした。



それと日本っぽいものがいいと思ったので、菓匠 菊家でお菓子を買っていきました。個人的にこのお店が大好きで、少し洒落たものを持っていきたいときに使っています。



無事に中国に着くと入境審査などを進んでいき、タクシー乗り場に向かいました。
向かう途中清掃員にカタコトの英語で道を尋ねても通じないことに驚きながら、ジェスチャーで(車を運転する仕草をして)伝えたのを覚えています。



当時は日本の携帯電話しか持っていませんでしたが、タクシー乗り場で海外ローミング機能を使ってKZさんに電話をかけることができました。Kさんに運転手さんと話してもらうことで無事にKZさんの住むマンションまでたどり着くことが出来ました。



マンションの中に入ろうとすると、管理人のおばさんが何やら話しかけてきました。
表情を見る限り怒っているわけでもなさそうなので、思いついたままにノートに漢字を書いていきました。



「日本人」「友人」「住」「家」「旅行中」…など合っているかもわからずに書いたのですが、だいたい伝わったようで安心しました。



これをきっかけにおばさんと日に日に仲良くなっていくのですが、私にとって中国に来て最初の友人です。(今でも仲良しです)
この体験をしたことで根気よくわかってもらえるまで書けば、ある程度のコミュニケーションがとれるということを実感しました。
最初の頃は文字だけでなく絵を描いてみたり、矢印のような記号を使ってみたり、ありとあらゆる方法を使って意思疎通をしていました。



そんなことをしているうちに「やぁ、よく来たね」そういってKZさんが迎えてくれました。
他愛のない会話をしながらKさんの住むマンションのエレベーターを上っていきました。
「今ちょうど奥さんがいるから…」と言いながら、KZさんは鍵を開けてくれました。


第五回『Any Way You Want It』

2016年8月23日 / Let it Beijing



(写真)初めての北京の夜


ドアを開けてると、リビングで奥さんのNさんがお仕事をされていました。
KZさんが私のことを紹介してくれましたが、私とKZさんでさえも実質初対面のような状態です。
普段人見知りをしない性格ではありますが、さすがに緊張しないわけがありません。
Nさんは淡々と仕事を続けながらも「(部屋を)自由に使っていいからね」「荷物はその辺に置いていいよ」と、優しく言ってくれたのを覚えています。
Nさんは少し話しただけで心を許せてしまうような不思議な方で、翌日には自然体で生活していたように思います。


Nさんは仕事があるということで、KZさんと二人で夕食に行くことになりました。

「何が食べたい?」と、聞かれて『庶民的な食べ物がいいです』とだけ答えると、家からそう遠くない路地に入っていきました。
「美味しい串が食えるところがあるから…」と進んでいき、「冬は外で食べられないからね、せっかくだし外にしよう」と、店外のテーブルに座りました。
当たり前のことではあるのですがメニューが全て漢字で書かれていることにすら、ある種のカルチャーショックを感じていました。

まだ夏の日の明るい夕方ではありましたが「ビール、飲めるでしょ?」とKZさんに勧められるがままに乾杯しました。
羊の肉など日本では滅多に食べないものを食べながら、どれもこれも美味しくて感激していました。(ビールの安さにも感激していました笑)
同じ業界なこともあり共通の話題も多く、食べ終わる頃にはKZさんともかなり打ち解けていた気がします。

食事が終わると近所を散歩しながら案内してくれました。
そこで路地にある公衆トイレに入ったのですが、人生で初めての溝が掘ってだけの便器でした。
少し異臭が漂う感じではありましたが、「なんか中国に来た気がする」と、妙にテンションが上がっていたのを覚えています。

結構ディープでローカルな環境にいきなり放り込まれていたのですが、その日はわけもわからず「北京ってもっと都会のイメージだったけど…」なんて思っていました(笑)

でも、この環境が最初だったからこそ、北京を好きになれた気がしています。

あると便利だからということで交通カード(PASMOのようなカード)をKZさんに買ってもらい、初めての中国のバスに少し緊張しながら乗りました。
北京の交通システムは日本と近いこともあり、旅行期間中から一人でも電車もバスも問題なく移動ができました。

マンションに戻ってからNさんも一緒に3人で雑談をしながら、初日の夜は更けていきました。



第六回『Livin’ On The Edge』

2016年8月23日 / Let it Beijing



(写真)北京の音楽スタジオ


2日目はKZさんは仕事があるということで、一緒にバスでスタジオのある草場地という場所に向かいました。
見るもの全てが新鮮な私はKZさんに沢山の質問をしながら、KZさんも「ここの辺りは外国人が多い地域だよ」「この公園は朝暘公園と言って…」など、北京について教えてくれてました。

スタジオは都心部から少し離れた小さな芸術区の中にあり、オシャレな建物が立ち並ぶ素敵な地域です。
観光地としても有名な798芸術区からそう遠くない場所ですが、こちらは日本人はあまり訪れないエリアです。

建物の中に入ると、日本の音楽スタジオとほぼ変わらない環境がありました。

建物にはスタジオがいくつかあって2Fでは中国人のミュージシャン達が何やら作業をしていました。
KZさんに簡単に紹介してもらって、一緒に5~6人でご飯に行くことになりました。
ほとんど何を言ってるのか全くわからないのですが、音楽の専門用語(例えばドレミファソラシドも立派な専門用語です)だけはわかるという奇妙な状態で会話を聞いていました。

KZさんが通訳してくれる会話の中でメタリカ(アメリカを代表するスラッシュ•メタルバンド)が中国で非常に人気があるということがわかりました。
もちろん日本でも夏フェスのヘッドライナーを務めるなど非常に人気が高いのですが、中国での人気はそれを越えるもののように感じます。
以前中国ではロックが禁止されていたという話を知っていたので、ヘヴィなサウンドを奏でるバンドの代表格が圧倒的な人気がある言われると少し意外にも感じました。

そしてメタリカがいかに人気があるかという引き合いに「中国ではエアロスミス(アメリカを代表するハード•ロックバンド)も人気はあるが、間違いなくメタリカのほうが人気がある」と言っていたのは正直驚いてしまいました。(もちろん彼の趣味もあるので一概には言える話ではないのですが)
もちろん年代もスタイルも大きく違う偉大なバンドを比べる必要もないのですが、一般的にアジアではバラードが需要があると言われています。実際、ここ中国でもその傾向はとても強いです。
エアロスミスはアルマゲドンの主題歌「I Don’t Want To Miss A Thing」などバラードのキラーチューンを数多く持っており、当時の私のイメージではメタリカよりもずっと中国人に受けそうに思えたのでとても意外に感じました。
食事が終わってスタジオに戻りました。
その日のKZさんはマスタリングと呼ばれるもので、録音された音楽の最終調整をするものです。
仕事が一段落するとKZさんが「今夜はお友達のGoさん達とライブを観に行くんだけど…」というので一緒に行くことになりました。

バスと電車で移動をして、日本人カメラマンのGoさん、そして同世代くらいの中国人の女の子2人と合流しました。
もちろん日本人カメラマンのGoさんはBillion Beatsで「Slice of Life」「The Edge」を連載しているGo Takayama氏です。
まずはお店に入ってから…ということで、餃子を食べることにしました。



第七回『25 or 6 to 4(長い夜)』

2016年8月23日 / Let it Beijing



(写真)前海の夜景


中国に来て初めて食べる餃子。
ということで中国のお約束ではありますが、蒸し餃子をいただきました。焼き餃子以外の餃子を食べるのは久しぶりでしたが、とても美味しかったです。

当時は中国語は全く話せなかったのでKZさんとGoさんに通訳してもらいながら中国人の女の子達ともお話をしていました。
ここでGoさんと出会ったことがBillion Beatsで記事を書く大きなきっかけになっていますが、これも何か強い縁を感じています。
(もちろんまだこの頃は北京に住むという考えは持っていませんでした。)

中国人の女の子達はミュージシャンらしい派手な雰囲気を持っていて、

派手な金髪の子は香港のスター歌手のバック演奏などもしているの若手ギタリストでかなり売れっ子なようでした。
パーマのかかった黒髪とタトゥーが印象的な少女はドラマーで、北京で主に活動をしているようでした。

彼女達と他愛のない話をしている中で時々「ワンピース読んでる?」というような話が出るたびに、日本のコンテンツのパワーを感じました。

食事が終わると后海にある「东岸酒吧」というライブ•バーに向かいました。
その日は海外のジャズミュージシャンが演奏するということで、ライブにはまだ少し早過ぎる時間にも関わらず満席に近い状態でした。

小さなライブ•バーなので期待はしていなかったのですが、演奏のレベルも非常に良かったのを覚えています。
ドラムは日本人ドラマーで長く中国で活躍をしているコガ•イズミ氏で、軽快なビートを叩いていました。
私自身はコガ氏と直接の面識は無いのですが、来る直前に恩師が「中国で長年活動している音楽家」として名前を挙げていました。
まさかこの旅行で演奏を聞けるとは思っていなかったので、妙な偶然もあるものだな…と思いました。

ライブが始まると会場は盛り上がり、オシャレなJAZZが始まりました。
ドラム、ベース、ピアノ、そしてメインの黒人トランペッターという編成で、割とモダンなジャズを演奏していきました。
どんどんお酒が進んでいき、私は知らないうちに床に眠りこけてしまいました。
そのまま気持ちよく床で寝ていると、気づけば1~2時間程経っていてライブが終わっていました。

北京に来るまでは治安の面など少し心配していた部分もあったのですが、酔いつぶれている自分を放置しておけるくらいの環境に「日本と大して変わらないくらい治安がいいなぁ…」と感じたのを覚えています。

3日目はKZさんが同じくスタジオで仕事があるというので、私は近所にある798芸術区でアートの鑑賞をしていました。
そして、マンションに戻って「明日北京にいる日本人の団体の集まりがあるけれど、来る?」と聞かれたのですが、「ワイナリーで開催する」という一言に思わず即決しました。

今にして思えば旅行中の人間が現地の日本人コミュニティーの会合に出るというのは場違いな気もするのですが、人生初のワイナリー見学&美味しい食事を楽しもう…とかなり気楽な気持ちで決めてしまいました。

もしこのワイナリーに行かなかったら、隣に座った人が違っていたら、私がAKB48に楽曲を提供していなかったら…etc。私は北京に住んでいなかったかもしれません。


第八回『Do you have the time to listen to me while?』

2016年8月23日 / Let it Beijing



(写真)ワイナリーの葡萄


4日目はワイナリーで行われる北京に住んでいる日本人の会合に向かいました。

この数日は中国人と筆談や通訳をしてもらって交流をしていたので、誰とでも日本語が通じる環境にホっとしながらバスに乗り込みました。ワイナリーに到着すると豊かな自然が広がっていて、とても同じ北京とは思えないほど美しい景色でした。立派な建物に入って施設の見学をして、50人以上ゆったり座れるような少し広めの部屋でプレゼンテーションやディスカションが始まりました。

当時旅行者だった自分にはあまり関係のない分野も多かったので、「早くワインが飲みたいなぁ…」なんて思っていました(笑)

会合が終了して、食事会が始まりました。中国に来てから最初の円卓の食事に感動しながら、美味しいワインをいただきました。

その席で偶然隣に座ったOさんと名刺交換をしました。そこでKZさんが「ミネは若いけど、AKB48とかの作曲もしていて…」と言ってくれたのですが、Oさんは何かひらめいたようで

「明後日とても素敵な友人の家に行くんだけど、あなたも来る?」と誘ってくれました。

特に予定もない自分は「いいんですか…?」と、ぼんやりとした返事をしました。



(写真)ワインの貯蔵室


Oさんはとてもパワフルで姉御肌のお姉さん、早速友人に電話をかけてくれました。Oさんいわく友人は大富豪の夫婦で様々な事業で成功されているのですが、新たに中国でアイドルを仕掛けるというアイディアを持っているとのことでした。電話をしたら私にとても興味を持っていただけたようで、是非連れてきてほしい。という運びになりました。
私としては旅行に来ているだけなので少し躊躇する気持ちもあったのですが、特に予定もないこともありKZさんと一緒に大富豪の家に行くことになりました。

そしてこの席で「エリートバーリンホーのリアル」を連載されている大内さんとも知り合うことが出来ました。当時はBillion Beatsで記事を書くなどと思ってもいませんでしたが、不思議な縁を感じています。



第九回『Eat the Rich』

2016年8月23日 / Let it Beijing



(写真)とある一室。何十部屋あるのでしょう?


KZさんと、前回の会合で知り合ったOさんと一緒に大富豪夫婦の家に遊びにいくことになりました。

この連載に書いていない中でも一人で地下鉄やバスで移動したり食事をしたり自由に過ごしていたのですが、とても快適に感じました。

地下鉄で移動して駅に降りると車が迎えにきてくれていました。運転してくれていたのは大富豪の友人で音楽をやっているようでした、自分と年齢はそんなに変わらないように見えました。

車に乗ってスグに家に着いたのですが、思わず「どれがお家ですか?」と言ってしまうくらい広い敷地と大きな家に驚きました。

家にお邪魔すると綺麗な奥さんが迎えてくれて、家の案内をしてくれました。(日本語も上手な方でした)

お家にはエレベーターがあり、高級そうな家具が並んでいて、化石や剥製が飾ってあったり、数えきれない程の名酒も置いていて…etc。

金ピカで派手…という感じではなく非常に一つひとつオシャレで歴史的に価値のあるものなどあって、素敵なお家でした。
でも、「このテーブルは5000万円くらい」と言われてしまうと、どうリアクションしていいのかわからないですよね(笑)

回るだけで1時間なんて簡単に経ってしまう程の広さでした。



(写真)この他にも化石がありました


旦那さんは少し遅れて仕事から帰られたのですが、非常にラフで庶民的な格好だったのが意外に感じました。
旦那さんは日本に留学経験があって日本語もペラペラ、普通に話していて気づかないほどです。

夕食頃合いになったので奥さんが料理を振る舞ってくれたのですが、餃子など庶民的な料理。これが本当に美味しかったです。

そして食事を済ませてから仕事の話も少しだけしました。事前に自分の経歴や楽曲などもしっかりチェックしているようでした。
まだ案件自体が構想段階だったこともあり「もし実際にやることになったら連絡したい」というような形だったのですが、「北京にまた来るなら絶対遊びにおいで」「泊まっていっていいからね」など、帰りの見送りまで本当に親切にしてくれました。

仕事云々関係なく、夫婦の人柄が素敵だったのでまた遊びに行きたいと思いました。
日に日に北京に住むのも面白いかなぁ~…とも思い始めていました。生活は問題無さそうだし、何より毎日が楽しいな…なんて。

そして、そんな帰り道にOさんが「借り手を探しているいい家があるけど、見学に行く?」と、提案してくれました。
特に予定もない自分は「いいんですか…?」と、今度はとても前向きに返事をしました。
「明日朝7時30分に○駅の×口に…」なんて約束をして、KZさんのマンションに戻りました。

もう既にこの時には、「(どんな家かわからないけれど)まずは北京に住んでみよう」と、気持ちが固まっていました。



第十回『The House Of The Rising Sun』

2016年8月26日 / Let it Beijing



(写真)四合院のイメージ図


朝、とある駅でOさんと待ち合わせをして「借り手を探しているいい家」の見学に向かいました。
「四合院」という中国の伝統的なスタイルの家で、四つの家に囲まれた真ん中には庭があって…という形式なのですが、イメージ図を見ていただいたほうがわかりやすいと思います。

もちろん当時は「四合院」など知らなかったので、勝手に頭の中でイメージが膨らんでいました。
(どうしても住むことが難しいと感じた場合は)現地にいれば次の引っ越し先も見つかるだろう…と難しく考えていなかったこともあり、「ここで決めないといけない」というような重圧感はありませんでした。

少し目的の家まで離れた場所に待ち合わせをしたこともあり早足で向かったのですが、Oさんが何度も「無理に決めなくていいから」と言っていたのを覚えています。

旅行で観光をほとんどしていなかった自分はこの早足で歩いている間も全てが新鮮に感じていました。
中国で最も有名な繁華街「王府井」を通過して、かの有名な「故宮」の壁が見えてしまいそうな程近い場所に四合院がありました。
この場所は北京のど真ん中、つまり中国のど真ん中に位置します。

当時の自分はこの価値をよくわかっていなかったのですが、本来旅行者が飛び込みで借りられるような家ではありません。
まして、買えば何億、何十億とも言われるある意味「北京で最も優雅な暮らし」です。
今思えば、一生の運を使い果たしてもおかしくないような出会いだったんだな…と思っています。

四合院には必ず門があるのですが、門を開けて見えた景色がとても美しいと思いました。
お家の中もとても素敵な家具が揃っていて、少し見ただけで本当に気に入りました。

貸し手の方とも殆ど話もしないまま、即決で「この家を貸してください」と伝えました。
まさか一週間の旅行で引っ越すことが決まるとは思っていませんでしたが、躊躇いはありませんでした。
それは、自分の知っている北京はとても暖かくて人情味があって、本当に住んでみたい街だと思ったからです。

今回の旅行で北京にいられる時間も限られているので、具体的な引っ越しの時期などはメールでやりとりすることになりました。

そして残ったわずかな時間もあっという間に過ぎていきました。

日本に戻る当日、今回呼んでくれたKZさん夫婦と泣きながら挨拶をして「一ヶ月後くらいに帰ってきます」と伝えました。
そして私にとって中国に来て最初の友人であるマンションの管理人のおばちゃんに帰ることを告げると、抱き合いながら別れを惜しんでくれました。

私もこのおばちゃんと明日から筆談できなくなるのが本当に寂しくて、ずっと泣いていました。

飛行機が離陸するとき、北京で出会ったたくさんの人達への感謝の気持ちがこみ上げてきました。