長かった冬休みを終えて大学に戻ってきた私を待ち受けていたのは、信じられない知らせだった。
その知らせを受け取ったのは、大学の授業が始まって間もない2月の終わり。午前中の授業を終えて、中国人の友達と喫茶店で話していた私に、仲の良い先生が電話をくれたのだ。
「Dさんが亡くなった。自殺みたいだ」
中国語だったこともあり、意味がとっさには理解できなかった。ただ、相手の声のトーンが非常に深刻だったことだけは強く脳裏に焼き付いている。
Dさんと初めて知り合ったのは、大学に来た翌日だった。留学生はまず病院に行って健康診断を受けなければならないのだが、その際たまたま隣に並んだのが、Dさんだった。長い待ち時間の間に、彼女のお母さんがもともと中国人で、日本人のお父さんと結婚したこと、北京におじいさんとおばあさんが今も住んでいることなど、いろいろな話をした。私たちは意気投合し、もう一人の日本人留学生と一緒に、お昼ご飯を食べることとなった。
「北京に着いたばかりなんだから、おいしい中華料理を紹介しますよ!」
日本人留学生とはいえ、北京に土地勘のある彼女は、地元の食堂のような場所で、次々と手際よく料理を頼んでくれた。また、食べきれなかった分は、「打包」(持ち帰り)にして、私たちに渡してくれた。非常に気が利く、優しい子だなあというのが、彼女の第一印象だ。
私たちが留学している中国伝媒大学は、日本語に直すと「中国メディア大学」だ。卒業生の多くはテレビ局や新聞社など、メディア業界に就職する。なかでもアナウンス学部は一番の名門で、一説によるとCCTV(中国中央テレビ)のアナウンサーの8割が、伝媒大学の卒業生だという。彼女もそんな名門のアナウンス学部に合格し、研究生としての一歩を踏み出したばかりだった。別れ際、彼女は私の手を握って、力強く声をかけてくれた。
「お互いに頑張りましょう!」
その後も、Dさんとは大学などで会うたびに色々と話をした。Dさんのお母さんはもともと中国語の先生だったので、お母さんに中国語を教えてもらったこともある。私が会う時の彼女はいつも明るく活発で、とても自殺するような子には思えなかった。
一報によると、彼女は飛び降り自殺をしたという。とても信じられなかった私は、彼女が飛び降りたという場所に行くことにした。「デマであって欲しい」、現場に行くまでの道すがら、私は一心に祈り続けていた。しかし、そんな私の願いは、現場に着いた途端にすぐ打ち消された。遺体はすでに別の場所に運ばれた後だったが、現場には物々しい警戒線が張られ、たくさんの警官が駆けつけていた。多くの野次馬がいたが、その中に、ひときわ大きな声を上げて泣いている彼女のお母さんの姿があった。もちろん、私は何も声をかけられなかった。
その後、彼女の自殺の原因について、色々な噂が飛び交った。恋人との関係で悩んでいたという話、学業で悩んでいたという話、国籍のアイデンティティに悩んでいたという話…でもそのうちのどの一つも、私にはピンと来なかった。実は私は、彼女が死ぬ3日前にも、たまたま彼女と世間話をしていたのだが、悩んでいる素振りは微塵もなかった。それだけに、私の頭の中の混乱は広がるばかりだった。
そしてその混乱は「どうして彼女を助けることができなかったのか?」という後悔に変わっていった。あとで知ったことだが、彼女の死の一報を私が聞いた喫茶店には、まさにその当日の午前中、彼女も来店していて、コーヒーを飲んでいたのだ。彼女はどんな思いでコーヒーを飲んだのだろう?もし万が一、その時私が居合わせて、世間話の一つでもしていれば、彼女の自殺を食い止めることができただろうか?しかし、歴史にイフはない。数日後、私たち日本人留学生は共同で花束とチョコレートを買い、彼女がなくなった現場で手を合わせた。10人以上はいただろうか。
どうして? どうして? どうして?
どれだけ考えても、結局答えは見つからなかった。
自分で自分の命を断つ行為は、非常に勇気のいる行為だ。自殺する人間は弱い人間ではなく、強い人間だ。きっと彼女は死ぬことで、何かを伝えたかったのだろう。でも生きていても、自分の思いを伝えることはできる。一番つらいのは残された人たちだ。この話を書くかどうか迷ったが、結局書くことにしたのは、自分も思いを伝えたかったからだ。
死なないで下さい。
残された私達にできることは、彼女のためにも精一杯毎日過ごすことくらいだろう。それができているかどうかはわからない。ただ今でも目をつぶると、彼女の笑顔が浮かんでくる。
Noriaki Tomisaka: 1976年8月27日福井県生まれ(辰年、乙女座、B型) 1994年 京都大学法学部入学 1999年 テレビ朝日入社 朝のワイドショー(「スーパーモーニング」)夕方ニュース(「スーパーJチャンネル」)などのAD・ディレクターを担当 2007年〜 経済部にて記者職を担当 農林水産省、東京証券取引所、財務省などを取材 2011年9月〜 北京・中国伝媒大学にて留学生活を開始(〜2012年夏まで)