日中関係の取材量は他者を寄せつけない陳言さん。日中2カ国語で書いた原稿の本数は1000本超。留学を機に日本に暮らした14年間、日本人との交流は研究や仕事に留まりませんでした。お子さんを保育園に送り迎えし、親の会では幹事役。東京と山口の大学で教鞭をとった数年間は父娘赴任をし、地元の人にすっかりとけ込んだ暮らしをしていました。中国を代表する知日派ジャーナリストが初めて書く、日本で出会った忘れられない人たちの物語です。<日文翻訳: 勝又依子>
私はこのウェブサイトで今まで出会った日本人、私の尊敬する先輩、師匠などを書きたいと思う。これは初めてのことだ。筆を執るとなると、どなたから書くべきか迷ってしまう。
今、その強烈な存在感に私がもっとも気持ちをひきつけられているのは、何といっても「フクシマ・フィフティ」だ。50人の勇士の誰一人として名前、年齢、勤める企業名などの情報はない。写真からは、いずれもその個人を識別できない。同じ色の防護服を頭から足までかぶり、大きな防護用マスクを掛け、胸に放射能の量を記録するバッチをつけている。彼らが向き合っている原子力発電所の危機もまた一つだ。
彼らができるだけ速く原発事故を処理しようとしているのは、企業のため、原子力発電所周辺の数千万人の市民のためである。また彼らは、日本周辺の国々に絶対に放射能漏えいの影響を及ぼしてはならないという気持ちで尽力している。
50人のなかには、東京電力、東電工業、導電環境エンジニアリング、東芝、日立製作所の人がいるだろうが、その会社から一人たりともその個人的な名前を知ることはできない。日本のメディアも今のところ報道していない。そもそも初めから名前を伏せていたかのようだ。おそらく事故処理が終わって初めて、彼らの名前が公になるのかもしれない。
原発事故の影響の拡大、今以上の放射能漏えいを防ぐために闘う彼らの無事の帰還を願う。次回日本に行く際にはその中の何人かにぜひ会いたい。
もし中国だったら、勇士とも闘士ともいえる彼らの名前はすでにメディアで報道されているだろう。私たちも彼らに敬意をもって、彼らの思想や仕事の中から閃いた偉大な精神を見つけだし、人々を感動させるような物語を書くだろう。しかし、日本のメディアはそうはしていないようだ。また日本の読者も、ひたすら彼らが安全に注意を払い、無事に帰ってくるのを祈っている。
私のような国外の記者が彼らと会うとすれば、彼らは仕事帰りの酒場でビールを飲んでいる普通のサラリーマンという形で姿を現すかもしれない。特定の分野には詳しいが、日本の重要な国事、世界の変化などについて知っていることはわれわれより少ないかもしれない。ほろ酔いの中で彼らは電車に揺られ帰宅していく。
日本はヒーローが出にくい国になったようだ。首相も草の根出身。官僚を支配するパフォーマンスは少なく、怒った時には朝早く首相官邸から車で東電本社に乗りつけ、大声で企業の上層部を叱る。首相もまた、普通の企業経営者がイライラするときとあまり変わりはない。
東京の街では迷彩服を着て大声で叫ぶようなタイプの人はあまり見かけなくなった。同じような黒い街宣車でいろんな旗をかかげて、そこで演説する人も背広を着ている。政治家の選挙キャンペーンとそう変わらない。
私はこれから、このような社会で暮らす具体的な日本人を書いていくが、第1回はどうしてもこの「匿名」の日本人を書きたかった。ごく普通の日本人は、時代の要請を受ければ身を挺して義務と使命とでその仕事を成し遂げる。義務や使命は名誉、金銭より価値が高い。おそらくそれは匿名の日本人の特徴ではないか。
自然災害に襲われた際の日本人は、他国の人々を驚かせるような冷静さと秩序をもって対処している。このことは、また多くの日本人の「匿名」という特質と大きく関わっているかもしれない。
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陳言
会社経営者
1960年北京生まれ。
1978年に大学に進学して日本文学を専攻した。卒業後に日本語通訳などをして、1989年に日本へ留学し、ジャーナリズム、経済学などを専攻し、また大学で経済学などを教えた。
2003年に帰国し、2010年まで雑誌記者をした。
2010年から会社を経営している。
主な著書は、「中国鉄鋼業における技術導入」、「小泉内閣以来の日本政治経済改革」など多数。