4月、古くからの友人の家に孫娘が誕生した。名前は“光”あかり。
一昔前の日本人女性には“光子さん”がたくさんいた。私でもすぐ何人か思い浮かべることができる。たとえば女優の森光子さん、ピアニストの内田光子さん、政治家なら東京都議の西崎光子さん、など。しかし私のその友人は彼女たちの例には習わず、最後に“子”を加えずに“光”と名付けた。
光ちゃんは友人の家に大きな喜びをもたらした。とてもおりこうさんでほとんど泣くことがないとのこと。生まれてまだ1カ月にも満たないから、起きている時間よりも眠っている時間の方が長いわけだが、一度その瞳を見開けば、家族みんなが光ちゃんの周りに集まり、その顔をいくら眺めても飽き足らないといった様子のようだ。
友人は数年前に還暦を迎えている。彼が昔聞いた、父親世代に起きた出来事を私にも話してくれたことがある。
「父は、1945年に終戦を迎え、やっと家の灯りを点せるようになった当時の話をしてくれました。戦争中は空襲があるので家の灯りは厳禁で、戦争が終わってやっと明るくなったと。だから父の世代はみなその明るさがとても幸せなものに感じたのです。彼らにとって光とは家の灯りのことであり、その灯りは平和や幸せの象徴のようにも見えたのでしょう」
一方で、友人自身にとって電気はあって当たり前のものであり、夜の停電なども経験したことがなかった。買い物の際にレジでバーコードを読み取って価格を計算できるのも電気があってこそ、もし電気がなければそんなことさえできなくなる。今の東京について、そんな些細な一場面からも多少のことが見てとれる。もともと値段の駆け引きもなければ、レジの計算を間違えることもない東京での便利な生活、だか一方でそのぜい弱さがここに表れている。停電は、灯りを点せないのはもちろん、エレベータに乗って帰宅することも、交通手段を利用することも不可能にしてしまう。ちょっとした買い物さえ満足にできなくなるのだ。
至るところで蛍光灯が消されたり外されたりし、お店も早々と閉店するようになった。眩しいばかりの不夜城を誇っていた東京は、今はこうしてその姿を薄暗く変えてしまっている。道行く人々は依然として足早だが、その顔には曇りの表情が見え隠れしている。
1868年から1945年の77年間、日本は封建的な後進国から世界の列強に肩を並べるまでになったが、第二次大戦に再び廃墟と化してしまう。そして1945年から2011年の66年間、その三分の二近くの期間をGDP世界第二位という栄誉ある立場にあり続けた日本。今回の大地震と原発事故によって再び陰りの中にあるこの国は、今一度新しい光を追い求め、自分たちがどこに向かうべきなのかを考えなくてはならない。
心の中に点したその灯りで日本の未来を探し求める――友人はそんな希望を孫娘の“光”に託したのだった。光ちゃんの人生はまだ始まったばかり、自分が生まれた数週間前に日本が大地震と原発事故に襲われたこともまだ知らない。しかし今後生きていく中で、友人が父親から第二次大戦後の灯りへの思いを受け継いだのと同様に、友人自身の思いをもきっと繋いでいってくれるだろう。私たちは日本がそう遠くない将来必ず復興すると信じている。そう、涅槃の鳳凰のように。
光ちゃんに託された友人の希望、それはすべての日本人の願いでもあるだろう。
ChenYan: 会社経営者 1960年北京生まれ。 1978年に大学に進学して日本文学を専攻した。卒業後に日本語通訳などをして、1989年に日本へ留学し、ジャーナリズム、経済学などを専攻し、また大学で経済学などを教えた。 2003年に帰国し、2010年まで雑誌記者をした。 2010年から会社を経営している。 主な著書は、「中国鉄鋼業における技術導入」、「小泉内閣以来の日本政治経済改革」など多数。