その12 山田洋次さん:あたたかい眼差しとともに

2016年8月31日 / 私の出会った日本人

北京映画資料館でのトークショーに中国の李纓監督らと登場した山田洋次監督、その髪には白いものが目立っていたが、映画人生について語るその姿は80歳近くとはとても思えない若々しさで、話も聴衆を魅了することしきりであった。
 改革開放初期の中国、山田洋次監督について多くを知る中国人は少ない一方で、「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)、「遥かなる山の呼び声」(1980年)そして「男はつらいよ」シリーズ(1969年~1995年)など、彼の作品になじみがある人は多かったろう。1980年代、中国は現代社会への一歩を既に踏み出してはいたが、一般の中国人にとって外国はまだまだ遠かった。山田洋次作品の数々から知り得たものは日本の現代的な生活スタイルではなく、郷土色豊かな日本の風景と人情味あふれる人々、そして社会の片隅にいる無名の主人公だった。何かを成し遂げたわけでもなく世の中のどこにでもいるちょっとダメな人物――映画館を後にしつつ自らの人生を振り返る時、自分自身もまた無名であり、全体では目覚ましい成長を遂げつつある経済社会の後半部分にしがみついている一人であることに気づくのだった。実際我々のほとんどが、社会の中のちっぽけな存在に過ぎないのだ。
「男はつらいよ」の主人公寅次郎もまた、日本社会で順風満帆な人生を送ったとは決して言えない人物だ。
「美人を見るとすぐに恋してしまうのになかなか成就できない、結婚もできない、そんなちょっとダメな男性を描きたかったのです」
 山田監督は言った。
 しかしそんな寅次郎にも帰る家があり、さすらいの果てにはいつでも家族や周りの人たちに温かく迎えられている、幸せな人物であると言えるだろう。
「遥かなる山の呼び声」ではロマンあふれ、純粋で素朴な日本人が北海道の大自然を舞台に描かれている。1980年代、映画はあくまで映画であり現実とは違うという意識があった。映画を見たからと言ってすぐに北海道に行き、その季節の移り変わりを自ら感じたい、感じられると思うことはなかったろう。その点では馮小剛監督の「非誠勿擾」(日本名:誠実なおつき合いができる方のみ)は北海道の美しさを完全に描いているわけではないものの、映画をきっかけに中国人観光客が多く訪れ観光業に大きく貢献している。しかし本当の意味で、北海道の四季を余すところなく描いているのは「遥かなる山の呼び声」である。北海道の美しい風景に溶け込んだ田島(高倉健)や民子(倍賞千恵子)の純粋さ、情感は山田監督だからこそ表現できたものと言えるだろう。
 2010年制作の「おとうと」は、至る所で問題を引き起こしうだつが上がらないまま年齢だけ重ねてきた主人公を描いた作品である。義兄の13回忌で酔っぱらい大暴れした「弟」鉄郎(笑福亭鶴瓶)は長い間音信不通だったにも関わらず、姪である小春(蒼井優)の結婚式当日に突然現れる。小春の父の13回忌でどんなことがあったか詳しく描かれてはいないが、結婚式でまたしても酔って大暴れしている様子から観客は過去のシーンにも思いを馳せることができる。鉄郎の自慢は自分が小春の名付け親であるということだ。それは義兄が鉄郎の姉である妻の吟子(吉永小百合)に「鉄郎はこれまで人に褒められるようなことはやってきてないだろう。ここでひとつ花を持たせるようなことをさせてやろうじゃないか」と提案したからだった。鉄郎は亡くなる直前にそのことを懐かしく思い出す。彼はその破天荒な生き方で家族から見放されてしまった訳では決してなかった。山田監督はこの作品でも所謂ダメ人間に対する理解を示していると同時に、そんな人々を受け止められるだけの寛容性を社会に求めている。
 山田洋次監督は、その映画人生50年において常に社会の片隅に生きる人々に思いを寄せ、寛容性の意味や大切さを伝えてきた。それは決して簡単なことではない。改革開放以降中国の映画監督は数字の上では大きく増えているが、山田監督のように、ヒーローとは対極にいるような人物を描いた監督は数えるほどであろう。そのうち海外でも認められた作品となれば一体どの作品があてはまるだろうか。続々と制作されているのは巨額の資金力をバックに、古代中国の歴史の一幕を壮大なスケールで撮影し、暗黒・狡猾・カンフー・インモラルを描いた中国時代劇である。でもそうした作品は観客の心に何かを残すことができるのだろうか。馮小剛、陳凱歌そして張芸謀ら中国著名監督の昨今の作品には、山田洋次作品に溢れているような人情味や寛容性を期待しない方がいいのかもしれない。


ChenYan

投稿者について

ChenYan: 会社経営者 1960年北京生まれ。 1978年に大学に進学して日本文学を専攻した。卒業後に日本語通訳などをして、1989年に日本へ留学し、ジャーナリズム、経済学などを専攻し、また大学で経済学などを教えた。 2003年に帰国し、2010年まで雑誌記者をした。 2010年から会社を経営している。 主な著書は、「中国鉄鋼業における技術導入」、「小泉内閣以来の日本政治経済改革」など多数。