その17 渡辺日出夫さん:展覧会場を避難所に

2016年8月31日 / 私の出会った日本人





 福島県産業交流館に置かれていた避難所が8月31日に閉所したことを新聞で知ったとき、そこに避難していた2294名の姿が目に浮かんだ。地震から約半年、それぞれが何とか新しく生活する場を得て、救援活動も一段落したのだろう、と私も少し安堵する。

我眼中的日本人 – 渡边日出夫:让会展中心变成避难所

 私はその産業交流館(Big Palette Fukushima)を7月25日に訪ね、館長の渡辺日出夫さんとお会いしている。中肉中背で肌つやは良く、ユーモアがあり良く通る声の持ち主だ。
 3月11日以来、渡辺館長は産業交流館ではなく避難所の責任者として多忙を極めた。私は日本貿易振興機構(JETRO)福島事務所長の紹介で、渡辺館長を取材することになった。7月25日、非常門から入った私は、数十人が大部屋に固まって忙しく事務作業をしている様子を目にした。そして渡辺館長に感謝の意味も込めて言った。
「裏口から入れていただきありがとうございました」
「その裏口は今では立派な正面玄関ですよ!」
 と笑顔で渡辺館長。
 産業交流館が避難所になってから正面玄関ロビーはもちろん、廊下もすべて人でいっぱいになっている。忙しい中取材に応じる時間をとってくれた館長は、私の言った“裏口”の意味も察してくださったようだ。
 そして館内地図を示しながら地震後の状況を語ってくれた。
「3月30日には2294名を収容していました」
 館内至るところ、人が横になれる場所はすべて人で埋め尽くされていたという。原発事故の後は発電所付近の住民が着の身着のままに近い状態でやってきたとのこと。
「あの頃はこの会議室も人でいっぱいで足の踏み場もないくらいでした」
 渡辺館長は続けた。
 館内には大きな掲示板が掛けられ、人探しや無事を知らせる伝言が次々に貼られていった。家族・親戚などと連絡を取り合うため、無料の電話も設置された。
「日が経つにつれ避難している人々のプライバシーが重視されるようになってきました」

我眼中的日本人 – 渡边日出夫:让会展中心变成避难所




 渡辺館長はまず段ボールで仕切られた空間に案内してくれた。高さ1メートルほどの段ボールの壁、少なくともその内側は自分の空間として使用できる。ふと目を向ければ、ペットボトルに百合が活けられていた。こんなときでも、いやこんなときだからこそ、なのかもしれない。花を飾る心を忘れない人がいる。
「しばらくすると、ボール紙素材でフレームを作り始める人が出てきました。高さを出すことで、よりプライバシーが保たれます」
 渡辺館長は続いて人の背丈ほどの紙製フレームと水色の布で仕切られた空間に私を案内して言った。
「視線を遮ることはできますが音は無理ですね」
 地震から1,2カ月が過ぎると、しばらく帰宅が許されない原発付近の住民のため、今後長期にわたって住み続けられる場所と仕事を探す必要がでてきた。一方で避難所を出て行く人も出始め館内スペースに余裕ができた。そのスペースには仕事を紹介する窓口や被災地の役所機能などが置かれた。大勢のボランティアが館内で活動し始めたときはボランティア情報センターも設置された。
 私を案内しながら渡辺館長は避難所にいる人々に次々と声をかける。産業交流館の館長はつまり福島県に勤める地方公務員だ。地震が起きる以前は様々なイベントや展覧会を企画・実施していたわけだが、一夜にして避難所の責任者となりその仕事を着実にこなしてきた。二千を超える人の避難生活を支え続けて半年、渡辺さんは再び産業交流館の館長となり通常営業に向けて準備を始めている。


ChenYan

投稿者について

ChenYan: 会社経営者 1960年北京生まれ。 1978年に大学に進学して日本文学を専攻した。卒業後に日本語通訳などをして、1989年に日本へ留学し、ジャーナリズム、経済学などを専攻し、また大学で経済学などを教えた。 2003年に帰国し、2010年まで雑誌記者をした。 2010年から会社を経営している。 主な著書は、「中国鉄鋼業における技術導入」、「小泉内閣以来の日本政治経済改革」など多数。