ほかの団員の衣装と比べて森下さんの衣装はずいぶん古めかしく感じられた。
「40年以上前、周恩来総理に頂いた衣装です。それに相応しい舞台のときだけ袖を通します」
森下さんはうつむいて衣装を見やり、受け取ったのがつい最近であるかのように語った。
1955年、松山バレエ団によって世界で初めてバレエ化された『白毛女』は、58年に中国公演を果たしている。歌劇としての『白毛女』は多くの中国人にとってなじみ深く、京劇としても58年に上演されているが、そのことを覚えている中国人は少ないかもしれない。映画『白毛女』さえもその印象を薄くしていく中で、バレエの『白毛女』だけが人々の心の片隅に残り続けたと言えるかもしれない。
文化大革命の時代、8作品ある革命模範劇がたびたびテレビで放映されていたが、そのうち『白毛女』の放映回数は他の作品よりも少なかったように思う。大春と喜児の再会シーンが印刷されたパンフレットを古本市などでたまに見かける以外、『白毛女』は私たちから徐々に遠ざかっていった。
一方日本では『白毛女』がバレエの世界で生き続けていた。2011年10月、松山バレエ団の13回目の訪中公演でも再び『白毛女』が上演された。新版『白毛女』の音楽は歌劇の特徴を残し、歌も原版の王昆によるものが採用された。現代の歌謡曲を聞き慣れているであろう観客も『白毛女』の音楽とともに文革前のあの中国灯が色濃かった時代に舞い戻ったようだった。王昆の歌声には金持ちや地方の軍隊、悪政に対する深い憎しみが込められていた。そして現代の人々の心にも深い共鳴を覚えさせるような強い芸術的生命力を持ち合わせていた。
新版『白毛女』では、悪政をはたらく黄世仁と対抗する村民との戦いのシーンが以前よりも激しく残酷に描かれている。また、旧暦の12月30日に黄世仁が扇子を手にして武装した手下とともに揚家(喜児の家)に借金を取り立てに行くシーン(中国北部の農村で扇子を使うことはほとんどない)や、粉を挽く際に下女4人が石臼を回すシーン(通常は1人で回す)などは、新版に取り組んだ日本の脚本家が中国北部の農民生活をそう深く理解していないことがわかる。しかし一方でこうした中国人の常識を超越した舞台設計があったことで、この作品がまさに日本のバレエ団による『白毛女』だと強調できたのかもしれない。
森下さんは心を込めて全幕を踊りきった。20歳の喜児役を踊っているのがまさか63歳のバレリーナだとはとても想像できないような力強さだった。
『白鳥の湖』のオデット、『ジゼル』の村娘ジゼル、『くるみ割り人形』のクララ――森下さんが演じてきた世界的に有名な主役だ。今回喜児も仲間入りを果たしたのかもしれない。東西文化の懸け橋とも言える森下さんのバレエは、その鮮やかな色彩と無限に広がる表現とともに今もなお輝きを増している。
ChenYan: 会社経営者 1960年北京生まれ。 1978年に大学に進学して日本文学を専攻した。卒業後に日本語通訳などをして、1989年に日本へ留学し、ジャーナリズム、経済学などを専攻し、また大学で経済学などを教えた。 2003年に帰国し、2010年まで雑誌記者をした。 2010年から会社を経営している。 主な著書は、「中国鉄鋼業における技術導入」、「小泉内閣以来の日本政治経済改革」など多数。