その26 安藤裕康さん : 外交官から転身して

2016年9月1日 / 私の出会った日本人

 日本国際交流基金の理事長である安藤裕康さんは、2011年10月まで駐イタリア大使を務めていた。場所や肩書きは大きく違っても、仕事内容はほとんど変わりないようだ。
「外国人に日本の外交政策を説明する、日本文化をより多くの人に理解してもらう、これが私の仕事です」
 安藤さんは国際交流基金の応接室で言った。

 今回私は就任後2ヶ月の安藤さんと東京で再会した。初めてお会いしたのは震災被災地の仙台で、挨拶を交わす程度だったため、後日改めて東京でお会いする約束をしたのだった。
 応接室で握手を交わした時、私は安藤さんの手が少し冷たいように感じた。
震災後の日本各地での節電励行を知っていた私は、安藤さんのオフィスでも暖房を入れていないのかもしれない、と思った。12月の東京とはいえ、少し道に迷ってしまった私は小走りで移動し汗ばむ程だった。だから安藤さんの手の冷たさと節電を心がけていらっしゃることが一層感じ取れたのだろう。

「3月11日の震災後、多くのイタリア人や外国の友人からお見舞いをいただきました。日本に対する友情を深く感じました」
 話が海外での仕事に対する感想に及んだ時、大震災があったことで安藤さんにより強い印象を残したことを知った。
 まさにそうした経験があったことで、大使の任期を終えた安藤さんがまず考えたことは、国際交流基金の理事長という公募ポストに応募することだった。1970年から2011年までの41年間の外交官経験は、他の応募者の誰よりも国際交流を心得ていることを示していた。
 国際交流基金はちょうど安藤さんが外交の世界に入った頃設立されている。そして安藤さんご自身もその設立に関わっており、思い入れも深かった。基金の主な活動は海外交流のネットワーク作りと文化・芸術の交流、日本語教育の推進や日本研究・学術交流に対するバックアップ等である。
「2012年は日中国交正常化40周年です。国際交流基金も多くの記念活動を企画しています。民間交流も一層盛んになるでしょう」
 安藤さんは言った。具体的には青少年交流や民間交流、日中サマーキャンプ等が予定されているとのことだ。

 安藤さんは私の取材に答える以外にも、70年代に関わっていた教育分野の日中交流について、当時の写真を見せながら話してくれた。安藤さんの誠実なお人柄や話し振りが感じ取れた。文化交流の使者でもある外交官は安藤さんのような人であるべきだと感じた。イメージ豊かで具体的な言葉を使って沈着冷静に日本を伝え、全く文化の異なる人にも日本への理解を深めてもらう———安藤さんの手は冷たいかもしれないが、彼の言葉とアクションには人を温かくするパワーがある。


ChenYan

投稿者について

ChenYan: 会社経営者 1960年北京生まれ。 1978年に大学に進学して日本文学を専攻した。卒業後に日本語通訳などをして、1989年に日本へ留学し、ジャーナリズム、経済学などを専攻し、また大学で経済学などを教えた。 2003年に帰国し、2010年まで雑誌記者をした。 2010年から会社を経営している。 主な著書は、「中国鉄鋼業における技術導入」、「小泉内閣以来の日本政治経済改革」など多数。