第七回 知己(1)

2016年8月17日 / 留学のすゝめ

(写真)1997年の北京商学院サッカー部

私には生涯の知己と呼べる中国人の親友が3人います。その一人が、「北京商学院」にルームメイトの黄くんを通じて知り合った天津人、盛くんです。

彼は毎日の様に私の宿舎に遊びに来ては一緒に勉強し、食事を共にし、時には杯を酌み交わし合いました。

午前中の授業が終わると宿舎に集合。学食に行って昼ご飯を食べたら、午後から勉強。私は漢語班、彼は本科生。勉強している内容は全く違いましたが、ほぼ毎日自習室に通って一緒に勉強していました。晩御飯でよく食べに行った学校近くの『肉饼(中華風牛肉包み焼き)』は今でも語り草になっています。

私と盛くんには共通の趣味がありました。サッカーです。私は彼の誘いで大学のサッカー部に入部する事になりました。実は、授業が忙しかったので、あまり乗り気ではありませんでした。しかし、単なる気晴らし程度にしか考えていなかったこのサッカー部への入部こそが、私の口語能力向上に絶大な影響を与えることになります。

小学校二年から始め今現在も続けているサッカーは私の特技。学校に部活動などが無い環境で育ったチームメイトとのレベルの差は歴然としていました。当時の中国人監督は私の技術を認め、私を「選手兼コーチ」に抜擢、中国人にサッカーを教える事になったのです。練習中における技術トレーニングは然る事ながら、毎週水曜日の夜に開いていたミーティングでは戦術面までレクチャーする羽目に。

「中盤で相手の選手にボールを奪われたら……」
「オフサイドトラップのかけ方は……」

私はサッカーの専門用語を勉強し、知っている知識のすべてを正確に伝えるよう必死でした。そのサポートをしてくれたのがやはり盛くんでした。サッカー用語を一つ一つ紙に書いてくれ、時には身振り手振りで説明してくれました。チームは強くはなりませんでしたが、私の口語能力は随分鍛えられたものです。

私の帰国後、盛くんとは手紙で連絡を取り続けました。彼からの手紙や同封してくれた卒業写真は、今でもアルバムに大切に保管してあります。大学卒業後一旦就職した彼は、2001年10月よりドイツに留学。2002年9月に北京再訪した私とはちょうど入れ違いになってしまい、残念ながら再会することはできませんでした。

彼と別れて12年後の2009年3月20日、ついに運命の再会(!)を果たします。8年間一度も帰国しなかった彼ですが、実家天津にどうしても帰らなければならなくなり、その際にわざわざ私に会いに北京まで来てくれたのです。

12年という歳月を経たにもかかわらず、まるでいつも顔を合わせているかのようななんとも自然な感覚。その日は、大学時代によく飲んだ「燕京ビール」を酌み交わしながら、語り尽きない思い出話に花を咲かせました。

1997年7月1日、一緒に天安門に行き、共に祝った香港返還。50周年記念も一緒に!と約束しています。


Yusaku Nishimura

投稿者について

Yusaku Nishimura: 対外経済貿易大学副教授  2010年6月に中国の経済金融系重点大学である対外経済貿易大学で経済学博士を取得し、同大学国際経済研究院で専任講師として採用される。  2013年1月より同大副教授。日中両国でのコラム執筆や講演活動も精力的におこなっている。  中国の外国人の大学教員の立場は、自国の言葉で教える非常勤講師か、海外の大学教員でありながら中国でも講義する客員教員が一般的。日本人を中国人枠での専任講師として採用するのは極めてまれで、人民日報やChina Dailyなどでも大きく紹介された。