ところが設置したその週末、その石碑に汚い落書きをされてしまった。「中国万歳!日本××~(いわゆる日本をののしる言葉)」と書かれてしまったのだ。僕はたまたま週明けの月曜日は大学に来なかった。月曜日の晩にスタッフから電話が来た。「松野さんの会社を記した石碑にひどい落書きをされました。今それを消しているところです。設置場所を“目立たない場所”に移した方がいいと思います」
お倉入りしてしまった石碑。うっすらと落書きのあとが……
翌日火曜日、大学に行った。行く途中運転手に聞いてみた。僕の運転手はうちの研究センターの総務を兼ねていてオフィス関係のこともいろいろやってくれる。いつもなら車に乗るとすぐいろんな大学の出来事やうわさを教えてくれる運転手が、その日はなぜか寡黙だった。「うちのセンターの石碑に落書きされたんだって?」「え?ああ、そうそう。でもあの石碑デザインが悪いよ、作りなおした方がいい」「今、どこにあるの。見たい」「あ、もう倉庫に持っていってしまった」……なんか歯切れが悪い。僕に何か隠していることでもあるのかな。
大学に着いた。「石碑、見せてよ」と僕が言うと、彼はしぶしぶ保安に言って倉庫の鍵をもらい僕を案内した。小さな物置のようなところにその記念の石碑は無造作に置かれていた。落書きはかすかに跡が見えるが、丁寧に消されていた。「何て落書きされたの?」「……」なんか小声で言われたけど、よくわからなかった。言いたくないようだった。そしてまた言った。「このデザイン良くないよ」
オフィスのスタッフと協議した。「何で倉庫にしまったの?落書きを消せたんだからそのまま置いておけばいいじゃないの。ただの悪質ないたずらでしょ?」しかしスタッフは神妙な顔で言った。大学では以前にも日本企業の寄付で改修された建物に飾ったプレートにクレームがついたことがあるらしい。何とそのクレーマーはれっきとした清華大学教授で、ネットでその写真を公開しかつ学長に講義のメールを出したそうだ。だから今回の我々の石碑もネットなどで騒ぎにならないように、とりあえず倉庫にしまうことにしたそうだ。
これを「事なかれ主義」ということもできよう。清華大学は社会問題化するのを極度に恐れる体質がある。私のいるオフィスの例がそうだ。このオフィスは改装前は寮として使われており、オフィスに改造するまでは一般人がたくさん“住んでいた”。なぜ大学の寮に一般人が住んでいたかはここでは紙面の関係で触れない。そしてそうした人を立ち退かせるために大学は保証金を払ったのだが、何とその金額に納得しない人がまだ居座っているのだ。つまり我がオフィスの一部分には、まだ未改装で立ち退きを拒否した人のスペースが残っているのだ。よく新聞などに出ているように、中国では強制立ち退きは日常茶飯事なはずだ。でも大学はそれをしないらしい。事を荒立てたくないのだ。
「事なかれ主義」以外にもうひとつ気がついた。たぶん僕にひどく気を使っているのだ。つまり僕の会社は寄付をしたのだから大学にとってはお客さんだ。今回の石碑落書きはそのお客さんに大変恥をかかせた、いや、というより中国人の醜い面を見せてしまった。松野さんはとても不愉快だろう、だからできるだけ僕を刺激せずに静かに今回のことを処理したい。
中国人は個人としてつき合えば、純粋であけっぴろげだ。でも自分たちの恥となることについてはできるだけ隠したいという行動をとる。清華大学のれっきとしたエリートでも中国人はこんなことをするのか、と馬鹿にされたくない気持ちもあるのだろう。読者は意外に思うかもしれないが清華大学への寄付金合計で一番多いのは日本企業なのだ。だから日本企業は大事にしたい。僕のように中国に来てくれる日本人に不愉快な思いをさせたくはない。じゃあ堂々とこういうことはしないようにと大学に公示すればいいと思うのだけれど、そういうことはやれない。日本企業と蜜月であると思われるのは、それはそれで困るのだ。
ひとりひとりの中国人は自分の経験と価値観をもとに日本人とつき合ってくれる。もちろん日本を快く思わない人もいるし、好きになってくれる人もいる。でも職場のような団体の中の一員になると、みんな日本に対して構えてしまう。
日本人も同じ面があるかもしれない。職場で一緒に働いているのに、なぜか中国という“国家”と相対しているような気になってしまう。だから僕らは中国という“団体”とつき合うのではなくて“中国人”とつき合うべきなのだ。その心得がないとこの複雑で二面性を持つ中国を理解することはできない、僕はしみじみそう思う。