そう言えば、中国の「一人っ子政策」はこれに違反すると多額の罰金を払うことになっている。中国では国家の重要な社会制度でも、お金さえあればくぐり抜けられるということだ。だから、中国には「金で解決する社会」が見え隠れする。僕も上海の会社で社員の客先訪問の遅刻や出張申請の水増しに悩んでいたとき、財務課長に「罰金制度を採用しましょう」と提案されたことがある。でも僕はそうしなかった。客先訪問に遅刻するということは営業行為に大きなマイナスをもたらすし、必要日数以上に出張することは自分の仕事の生産性を下げるはずだから、結果的に個人の総合評価の査定に響くことがみんなわかるはずだと思ったからだ。
しかし今改めて本稿を書いていて、中国企業の罰金制度には単なる個人の懲罰だけではない別の意味があるのではないかと思い始めた。例えば罰金制度は、「個人と会社の責任関係を明確化させる」制度なのだと考えたらどうだろう。10分の遅刻が罰金10元であるなら、遅刻した個人の会社への推定被害10元分を負担させるという意味になる。金額が大きければそれだけ会社への損害が大きいという意味になる。会社の器物を破損した場合などは、損害額が明確だからもっとわかりやすいだろう。
日本企業だったら、業務中に誤って例えば1,000元の壺を割ってしまっても、罰金という形で責任を個人に帰することはあまりしないだろう。日本の会社は社員に滅私奉公を求め、個人は会社に従属する感じだ。社員の過ちは組織の過ちだとみなされる。しかし中国は違う。だから職場の中国人は常に個人の生活、個人の損得も意識する。僕は第2回:「公私混同」の稿でもこれに類することを書いた。
でも中国の罰金制度には大きな弊害もある。以前、こんなことがあった。日本からの出張者と中国のレストランで食事をしているとき、若い女性の店員が誤ってテーブルから食器を落として割ってしまった。ちょっと凝った感じの高そうな食器だった。その日本からの出張者は、店員が謝ろうとしないことにひどく腹を立てた。思えば彼自身も店員の給仕を少し妨害した風でもあったのだが、日本だとともかくお客様には先に謝るのが筋だ。
「まったく、なんで中国人は謝らないんだ!」しかし僕は彼に説明した。「仕方がない、ここで謝ることでもし原因がその店員にあると明確にされてしまったら、彼女は罰金を払わされるんだよ。薄給の彼女にとってそれは耐えられないことなんだ」。つまり、中国の罰金制度は個人と会社との責任関係を明確化してしまうがゆえに、このような場面では顧客に迷惑をかけたとか、ビジネスマナー云々の問題がすべて吹き飛んでしまうのだ。
一方、罰金制度には良い面もある。ともかくお金で解決してしまうので、個人の損得はあっても感情にしこりが残らない。遅刻して罰金を払っても個人が「ああ、10元損した!」とちょっと反省し、くやしい思いをするだけだ。日本の会社だと何となく責任をあいまいなまま物事を処理し、またそのことが後々の個人評価にまで影響するから、かえって後々まででいやな思いを引きずってしまうのではないだろうか。
罰金制度は数ある中国企業の労務管理手法のひとつに過ぎない。しかし職場の中国人を理解し、中国人をマネジメントする上でこの制度は何かヒントを与えてくれそうだ。いいアイデアを思いついた。「個人の会社の給与は先に多めの金額で決めておく。そして職務上のミスなどがあるとどんどん減額されていく」という労務管理はどうだろう。こうすれば遅刻も器物破損もぐっと減るかもしれない。でも減点主義のマネジメントだと社員が前向きにならないので、良いことをすれば給与が増額される報償制度を組み合わせればよい。
常日頃中国人の拝金主義を批判していながら、日本企業がこんなマネジメントを始めたらさぞかし世間の注目を浴びるだろう。このように給与をすべて日々の行動で定量的に決めていく労務管理は会社が活気づくので結構いいアイデアだとは思うが、その会社ではおそらくみんなが延べ棒を数え合って、「毎日が賭博場」になってしまうだろう。