第11回:コンプライアンス

2016年9月11日 / カイシャの中国人



(写真)日本本社のコンプライアンス遵守体制は、こんなに重層的だ


 「コンプライアンス」。中国でビジネスをする日本企業にとっては、これを聞くといつもドキッとするし、絶対避けて通れない言葉だといったら大げさだろうか。この言葉の日本語訳は「法令遵守」ということになっているが、実はあまり使われていない。“法令”と言う言葉がピンと来ないのだ。中国語では、「遵守法律」とか「合規性」、「規範性」といった言葉が使われているようだ。アメリカでも何らかの「法令」や「規範」に従うという意味で用いられる。アメリカと中国は意外とコンプライアンスの概念が似ていると思う。
 日本企業にお勤めの方は分かると思うが、日本でのコンプライアンスという意味はかなり広く深遠だ。「ビジネスにおける基本倫理観」とでも表現したらいいのだろうか。つまり法令のような何か拠り所となるものに頼らずに、絶対的な価値観、倫理観で行動することを要求されている。これが正しい解釈かどうかは別にして日本企業ではそうなのだ。僕の会社は特別なポジションにあったから、インサイダー防止規程を特別に定めていたが、普通の中国の日系企業はそこまで文章化はされていないだろう。

 しかし日系企業は、どこもコンプライアンスにはうるさい。例えば、納入業者から贈り物をもらったり接待を受けること、業務上の物品購買でもらった優待券で自分の私物を買うこと、他の物品購入で入手した領収書を別の購買申請で使うこと、時間外に会社のパソコンを使ってネットショッピングをする等々、どの日系企業でもみんな見られることだろう。でも日本企業の論理で言えば、これらはみんなコンプライアンス違反なのだ。

これは職場の中国人には理解不能だと思う。なぜなら依って立つ社規社則にはそんなことはどこにも書いてないからだ。規則に書いてないものまで何で要求されるのか。要するに上述の例は、会社のカネを横領したり会社に損害を与えているわけではないのに、なぜコンプライアンス違反になるのか、というわけだ。もっとも中国企業の社規社則では、社員の“してはいけない”行動や罰則などの細かい日常の規則をいちいち書いておかなければならないから、コンプライアンスの領域までは手が回らないというのが本音だろう。

 僕の会社は、日本では金融関係でもあるので、コンプライアンスを守ることにかけてはとても厳しい規程がある。僕は上海での会社設立時に各種規程を作ったが、そのなかに「インサイダー防止規程」というのがあった。これは企業の機密情報に触れる機会の多い当社社員にとっては絶対的に守らなければならない規程だ。だがこれを設立間もない上海で社員に説明したとき、みんなはぽかんとして聞いていた。「何で我々は株を買うのに会社に届けなければいけないのですか?だいたい株というものは、まだ知られていない情報を友だちに教えてもらって買うものでしょ?」僕は空いた口が塞がらなかった。

 コンプライアンスに関連した話では、僕には過去にショックを受けた経験もある。上海のとある超一流大学の教授のもとに共同研究の相談に行ったときのことだ。我々が研究テーマと進め方を説明し、委託研究費の相談に入ろうとしたときのことだ。その教授は何と、今進めている他の日本企業との共同研究契約書を引出しからいくつも取り出して僕らに見せたのだ。「ええっと、O社からは××分野のテーマで、1200万円で委託されています。K社とは△△方面の研究開発を...」。僕らは丁重にお礼を言いつつ席を立った。これでは我々との共同研究も他社に全部筒抜けになってしまうと思った。

 要するにこの教授にとっては、ご自身の研究遂行能力や体制を説明するのに、実際の契約書を見せることが最も近道だと思ったのだ。しかも研究の中身を開示しているわけではないので、機密保持条項にも違反はしないと思われたのだろう。しかし日本企業の論理で言えば、自分たちと共同研究をしているという事実がコンプライアンス事項になる。中国では大学と企業の共同研究、いわゆる産学協同は当たり前であるし、得られた成果は双方が権利を持つとはいえ、実際は双方が自分たちのために自由に活用するという考え方だ。

 つまるところ、日本企業のコンプライアンスは、社員に「公正・適切な企業活動」をすることを求め、さらに「積極的に法令や規程以上の企業倫理・社会貢献を遵守する」ことまでも求める。実際には「法令遵守」という日本語訳の定義を超えているのだ。中国人社員には本当に気が遠くなる話だろう。だから日本本社の要求レベルを中国現地の企業で求めるのにはかなり無理がある。これに対して日本本社の担当者は、一見理解を示すような発言をする場合がある。それは中国人が“コンプライアンス意識が低いから”仕方がない、といった類の妥協だ。でも僕は、これは表面的な認識でしかないと思う。

 コンプライアンスのことを書き始めるといくらでも問題事例が思い浮かんでくる。それぐらい中国の日系企業では重い課題のひとつなのだ。しかし実は中国人の意識が低いからと言うより、職業倫理に対する考え方が根本的に違うことがその悩みの原点なのだと思う。会社の中国人に、日本人が持つ潔癖なまでの職業倫理感を押しつけても理解されるはずがない。おっと、会社のパソコンを使ってBillion Beatsの記事を書いている僕も、ひょっとしたらコンプライアンス違反なのかもしれない。