中国の会社で仕事をしてみると、この「企業秘密」の概念がとても軽く扱われてしまっていることに気がつく。僕が最初に上海で仕事を始めたときに驚いた例をいくつかあげてみよう。まず社員が自分の関係している仕事のこと、例えば相手の会社名とかその内容までを友人などに気軽にしゃべってしまうことだ。うちの会社はコンサルティング会社だから、特に仕事の内容は人に漏らしてはいけないのだが、例え普通の会社でも、やっている仕事の内容を外部の人にぺらぺらしゃべってはいけないのは当り前のことだろう。
また僕は仕事柄、調査会社や大学の先生にお会いすることも多い。しかしその調査会社のパンフレットに、堂々と顧客名とテーマ(何を調査したのか等)が掲載されているのを見たときには唖然とする。またある著名な大学の教授にお会いして共同研究の相談をしたことがあるが、教授が過去に日本企業と実施した共同研究の契約書(そこには研究の内容や金額も当然書いてある)を何の抵抗もなく僕に見せてくれたことにも驚いた。
調査会社からみれば、自社をアピールするために会社の業務実績を見せたいと思うのは当然だろうし、大学は公的機関なのだから情報は公開してもよいはずだと言ってしまえばそうかもしれないが、少なくとも僕は、「企業秘密」という概念のない人たちと一緒に仕事をすることはできないと思った。
話しは少しそれるが、中国では電車の中で携帯を使って話すことは特に禁止されていないし、マナー違反だともみなされていない。なぜマナーの問題となるかと言えば、近距離にいる周りの人がうるさく感じるからだが、しかし僕がもっと不思議に思うことは、中国ではビジネス上の重要な相談や指示を堂々と携帯電話で話している人が多いということだ。当然ながら周りの人はその内容が聞こえる(しかもたいてい声もデカイ!)ので、もし関係者や知り合いがいたらどうするのだろうと心配してしまう。日本だと携帯どころか、電車やエレベーターの中では仕事の話はしてはいけないことになっている。
では機密主義が厳格な中国の行政機関はどうなのだろうか?僕はここでも「企業秘密」は結構軽んじられていると思う。中国は外貨送金をする場合は、当局の許可を取らなければならない。あるとき僕の会社が海外(日本)の会社と契約し、その代金を日本に振り込もうとした。ところが外貨送金の申請時に、当局からその取引に関わる契約書と報告書を一緒に提出するように言われた。おまけにそれは中国語である必要があり、我々は契約書や報告書の概要を翻訳して添付しなければならない。そしてその手間や費用は、当たり前のように申請側が負担しなければならないのだ。中国では、行政が企業の活動より上位にあるという位置づけになっている。
このことは中国政府が民間企業の取引情報を収集している、というほどの大げさなことではない。要するに外貨送金を伴う取引が本当に行われたかをチェックするための手続きなのだろう。しかし僕ら民間人からみれば、契約書や報告書までを当局に提出しなければならないというのは、政府が「企業秘密」というものの存在を軽んじているとしか思えない。中国の当局が「提出された貴社の情報の機密は守ります」と文書で保証してくれたという記憶もない。
僕も長く中国にいるから、この国で国家が民間のビジネスやプライバシーに干渉することには慣れてしまっていて、ある程度は仕方がないと腹をくくっている。しかし「国家機密情報」と「公開情報」という“2者択一”の概念で暮らしているカイシャの中国人が、「企業秘密」というビジネスでは当たり前の概念を理解しないのはとても困るのだ。しかしこう書くと、中国にも個人情報保護などの法律もあるし、企業取引では機密保持の条項もちゃんと書かれているではないかと反論が来そうだ。
断っておくが、僕は中国人が契約を守らないとか情報が軽んじられていると言いたいわけではない。中国では“情報”がどれだけ重要な意味を持つ社会であるかも知っているつもりだ。そういう意味では、むしろ日本の方が口の軽い輩がたくさんいるかも知れない。僕はカイシャの中国人には、個人とは別の「企業活動」という概念が欠けていると思う。カイシャで行われる仕事の情報は個人や自社だけのものではない。関係するすべての主体で共有され尊重されるべき情報なのだ。
「この市場予測値は、私たちが考えているよりかなり大きいですね。どのようにして導き出されたのですか?」ある時、報告会の席で顧客が我々に質問した。僕の同僚はこう答えた。「いろいろな情報から算出しました。しかし詳細なやり方は企業秘密です!」。僕は焦った。おいおい、企業秘密とは“不都合な事実”を隠すという意味ではないんだぞ。