照りつける日差しの中、屋台の椅子に座って、私とバングラデシュ人のコーディネーターは、取材相手を待っていた。約束の時間からすでに1時間。砂糖をたっぷり入れたミルクティーを、何杯飲んだだろう。あきらめかけたころ、ようやく彼が現れた。
「食事で遅くなりました。行きましょう」
北京駐在の私にとって、南アジアのバングラデシュは守備範囲外だ。しかし7月1日、日本人7人を含む22人が亡くなるレストラン襲撃事件が起きた。事件取材の応援のため、急きょバングラデシュの首都・ダッカに行くことになったのだ。インタビューに応じてくれたのは、レストランの男性従業員。もともと現場近くに住んでいたが、安全面も考え、今はダッカ郊外の妻の実家に身を寄せている。彼の証言は、非常に生々しいものだった。
「当日は日本人やイタリア人のグループ客の予約が入っていました。パニックが始まったのは午後7時半ごろです。突然、『アッラー・アクバル(アラーは偉大なり)』という声と、銃声が聞こえてきました」
ただならぬ気配を感じた彼は、とっさに厨房横の冷蔵室に隠れた。そして驚いたことに、冷蔵室にはすでに、日本人の男性が逃げ込んでいたという。
「我々2人はまず、携帯電話の電源を切りました。そのあとは軽い運動などをしながら、ひたすら神に祈りました」
銃声や悲鳴が聞こえる中で、息をひそめて隠れる気持ちは、想像を絶するものだろう。一時間余りで銃声はやんだが、犯人たちはレストランに立てこもり続けた。そしてしばらくしてついに、犯人たちは冷蔵室に人がいることに気づいた。2人の抵抗もむなしく、冷蔵室のドアは開けられてしまった。
「冷蔵室から出た時に見たのは、たくさんの死体です。私は犯人に『殺さないでください』と頼みました。犯人は『あっちに従業員たちがいる』と玄関の方を指さしました。信じられない気持ちでそちらに向かいましたが、その時後ろから銃声が聞こえました。一緒に隠れていた日本人が殺されたのだと思いましたが、何もできませんでした」
同じ状況なら、私も自分が生き残ることしか考えられないだろう。誰も彼を責めることはできない。2人の運命は、その時点で無情にも別れてしまった。
さらに夜が更けたころ、犯人たちは意外な行動をとる。店のコックに、料理を作らせたのだ。当時は断食月=ラマダンで、イスラム教徒は昼間に食事ができないため、深夜に食事をとる。犯人もその習慣にならったのだろう。彼らは「コラル」という魚とエビを食べ、人質に向かいこう話したという。
「あなたたちは助かったら、一生懸命コーランを覚えなさい。俺たちはこれから死体になる。何も怖くはない。素晴らしいジャンナ(イスラム教における天国)に行ける。ジャンナで会おう。」
当局の突入作戦が始まったのは、その直後だ。犯人たちの狙いは、初めから、日本も含めた欧米の「異教徒」たちだったとみられる。従業員の彼が助かったのは、同じベンガル人だったからかもしれない。ただ、生き残った彼は、そんな理屈を許してはいけないと強調した。
「どんな宗教も人を殺してはいけない。彼らはイスラムの名を語ってはいるが、イスラムではない」
「イスラム国」によるテロが多発しているが、我々はイスラム教の人=テロリストといった偏見を持たないように気を付けなければならない。中国でも、回族やウイグル族といった人たちがイスラム教を信仰しているが、もちろん、彼らはテロリストではない。そして想像だが、今回被害にあわれた方々は、その種の偏見から、最も遠い人たちだったのではないだろうか。バングラデシュのために尽力していた彼らは、イスラム教についての理解も深かったと思われる。
バングラデシュへは初めての訪問だったが、最も強く印象に残ったのが、強烈なスコールだ。バケツをひっくり返したような土砂降りが、毎日定期的にやってくる。そのたび撮影は中断され、道路は水浸しになる。暑さとあいまって、体力が奪われるのを実感する。
そして、次に印象に残っているのが、ダッカの町を彩る、カラフルなリキシャ(人力車)の大群だ。見ている分には楽しいが、はまったら最後、車は全く進まない。そして車が止まるたびに、物乞いの人たちが群がって、窓ガラスをたたき始める。かわいそうだが、一人にお金をあげるときりがなくなるので、無視せざるを得ない。そんな過酷な状況を少しでも改善しようとしていたのが、亡くなった方々のプロジェクトだ。なぜ彼らが殺されなければならなかったのか、考えれば考えるほど、無念の思いだけが募る。
取材を通じて、多くのバングラデシュの人たちが、日本の援助に感謝の気持ちを伝えてくれた。事件は確かに悲惨だが、我々がなすべきことは、援助をやめることではなく、安全を確保し、必要な援助を今後も続けることだろう。バングラデシュには、援助を必要とする人たちが、まだ山のようにいる。
特派員のひとりごと 最終回「消されたノーベル賞」
特派員のひとりごと 第27回「共和国」へ
特派員のひとりごと 第26回「ある朝鮮人男性」の死
特派員のひとりごと 第25回 オレンジ色の救世主
特派員のひとりごと 第24回 ネットとリアルをつなぐ人々
特派員のひとりごと 第23回 人民解放軍の光と影
特派員のひとりごと 第22回 威信をかけたG20
特派員のひとりごと 第20回 「中国的速度」
特派員のひとりごと 第19回 揺れる「石炭の町」
特派員のひとりごと 第18回 突然の失脚劇
特派員のひとりごと 第17回 不思議の国の美女たち
特派員のひとりごと第16回 俳優と皇帝 ー「1つの中国」、2人のリーダー ー
特派員のひとりごと第15回 天津爆発事故と、中国の安全
特派員のひとりごと第14回 沈んだ「東方の星」
特派員のひとりごと第13回 AIIB狂想曲
特派員のひとりごと第12回 “遠くて近い国”モンゴル
特派員のひとりごと第11回 中国経済の“新常態”
特派員のひとりごと第10回 反腐敗の“光”と“影”
特派員のひとりごと第9回 3年ぶりの25分
特派員のひとりごと第8回 黄色いリボンと傘の革命
特派員のひとりごと第7回 東南アジア取材記 その2
特派員のひとりごと第6回 東南アジア取材記 その1
特派員のひとりごと第5回 北と南が交わる場所で
特派員のひとりごと第4回 民主と自由
特派員のひとりごと第3回 命の重さ
特派員のひとりごと第2回 「歴史」をめぐる戦い
特派員のひとりごと 第1回 政治の季節
Noriaki Tomisaka: 1976年8月27日福井県生まれ(辰年、乙女座、B型) 1994年 京都大学法学部入学 1999年 テレビ朝日入社 朝のワイドショー(「スーパーモーニング」)夕方ニュース(「スーパーJチャンネル」)などのAD・ディレクターを担当 2007年〜 経済部にて記者職を担当 農林水産省、東京証券取引所、財務省などを取材 2011年9月〜 北京・中国伝媒大学にて留学生活を開始(〜2012年夏まで)