「金正男氏がマレーシアで殺害された」
韓国メディアが報じたのは、バレンタインデー、2月14日の夜だった。最初は半信半疑だったが、その後マレーシア政府も北朝鮮国籍の男性の死亡を発表。そこからは、怒涛の取材合戦が始まった。マレーシアは華僑が多く、中国語メディアから得られる情報も多いため、各局とも北京や上海の支局から、マレーシアに大量にスタッフを投入したのだ。
事件は謎が謎を呼ぶ展開だった。犯行現場は、衆人環視の国際空港ターミナル。実行犯とみられるのは、北朝鮮と何の関係もなさそうな、ベトナム人とインドネシア人の若い女性。犯行時間は、わずか数秒程度。センセーショナルな防犯カメラの映像は、繰り返しテレビで放送された。殺害動機もまた不可解で、女性らは「いたずらビデオの撮影」と供述しているが、にわかには信じがたい。そして、最後まで最大の謎となったのは、事件の背景に北朝鮮が、どの程度関与したかということだ。
当初、マレーシア政府は強硬に対応した。事件に関わったとされる北朝鮮男性リ・ジョンチョル氏を拘束したほか、数人の北朝鮮男性の顔写真と氏名を公表し、指名手配したのだ。また、遺体の引き渡しを求める北朝鮮に対し、あくまで遺族側への引き渡しを主張し、要求を突っぱねた。さらには、捜査を進めるマレーシア警察を批判した北朝鮮の駐マレーシア大使を「好ましからざる人物」として、国外追放した。
一方、北朝鮮も反撃に転じる。「事件が公正に解決されるまで」北朝鮮国内にいるマレーシア人の出国を禁止する措置を発表したのだ。いわゆる「人質」を取った形である。また、マレーシアを追放された北朝鮮男性リ・ジョンチョル氏は、経由地の北京の北朝鮮大使館前で、深夜にも関わらず、長々とマレーシア警察の捜査の不正を報道陣に訴えた。私は取材を担当したが、リ・ジョンチョル氏が祖国を愛する歌を、朗々と歌うなど、妙に芝居がかっていたのが印象的だった。
その間、北朝鮮政府は一貫して、死亡した男性は、「金正男」氏ではなく、パスポート名の「キム・チョル」氏であると主張した。最高指導者の金正恩氏に母親の違う兄がいることは、これまでも北朝鮮国内では報道されていない。また、北朝鮮と関係が深い中国の公式メディアも、「金正男」氏殺害といった表現を避け、「ある朝鮮人男性」の殺害という報じ方をした。中国はこれまで、マカオで金正男氏とその家族を保護してきたとされているが、そのことにも一切触れようとはしなかった。
金正男氏はかつて、ロイヤルファミリーの一員として、金正日総書記の後継者候補にも挙げられていた。しかし、弟の金正恩氏が跡継ぎに決まって以降は、政治の世界から身を引き、主にビジネス活動をしていたという。朝鮮半島情勢に詳しい日本の関係者は、金正男氏には政治的な影響力も野心もなかったと分析している。それなのになぜ、彼は殺されなければなかったのか?そして、その身元すら公表されず「ある朝鮮人男性」として、一生を終えるというのは、あまりにも不憫ではないだろうか?
そう思っていた矢先に、またも衝撃的なビデオが公開された。金正男氏の息子とされる、キム・ハンソル氏のビデオメッセージである。彼自身も命の危険がある中で、「私は金一族の一員だ」とはっきりと述べたメッセージからは、父親が生きた証を残したいという意志のようなものが感じられた。また、メッセージから数日後には、DNA鑑定で、遺体の身元が金正男氏だと正式に判明した。DNAの資料をマレーシア警察に提供したのがハンソル氏かどうかは不明だが、少なくとも親族の協力によって、「ある朝鮮人男性」は、本来の「金正男」という名前を取り戻したといえる。
それから先も、マレーシアと北朝鮮のこう着状態は続いた。そもそもマレーシア政府は北朝鮮と友好的で、事件が起こる前まではビザなし渡航を認めていた。私はスマトラ島のサラワク州を取材したが、以前は工事現場や炭鉱などに、北朝鮮の労働者がたくさんいたということだ。しかし島の一般の人たちは、北朝鮮と韓国の違いも分かっていないようだった。また、マレーシアにとっては、自国民の解放こそが第一で、事件の真相究明は二の次という判断にもなったのだろう。両国は秘密裏に協議を重ね、最終的には「人質交換」が成立する。事件に関係したとみられる北朝鮮の男性たちは、何食わぬ顔で平壌に戻り、真相は藪の中となった。ある意味、北朝鮮の作戦勝ちといえる。
ちなみに、政府どうしは関係が深い中国と北朝鮮だが、中国人一般の北朝鮮に対する感情は、必ずしもあまりよくないように感じる。かつては、朝鮮戦争をともに戦った「血の盟友」だったが、今や「何をするかわからない危険な隣人」と眉をひそめる人も多い。このような隣人とどう付き合っていくか、マレーシアのみならず、世界中の国々に突きつけられた課題だろう。
特派員のひとりごと 最終回「消されたノーベル賞」
特派員のひとりごと 第27回「共和国」へ
特派員のひとりごと 第25回 オレンジ色の救世主
特派員のひとりごと 第24回 ネットとリアルをつなぐ人々
特派員のひとりごと 第23回 人民解放軍の光と影
特派員のひとりごと 第22回 威信をかけたG20
特派員のひとりごと 第21回 「スコールとリキシャの国で」
特派員のひとりごと 第20回 「中国的速度」
特派員のひとりごと 第19回 揺れる「石炭の町」
特派員のひとりごと 第18回 突然の失脚劇
特派員のひとりごと 第17回 不思議の国の美女たち
特派員のひとりごと第16回 俳優と皇帝 ー「1つの中国」、2人のリーダー ー
特派員のひとりごと第15回 天津爆発事故と、中国の安全
特派員のひとりごと第14回 沈んだ「東方の星」
特派員のひとりごと第13回 AIIB狂想曲
特派員のひとりごと第12回 “遠くて近い国”モンゴル
特派員のひとりごと第11回 中国経済の“新常態”
特派員のひとりごと第10回 反腐敗の“光”と“影”
特派員のひとりごと第9回 3年ぶりの25分
特派員のひとりごと第8回 黄色いリボンと傘の革命
特派員のひとりごと第7回 東南アジア取材記 その2
特派員のひとりごと第6回 東南アジア取材記 その1
特派員のひとりごと第5回 北と南が交わる場所で
特派員のひとりごと第4回 民主と自由
特派員のひとりごと第3回 命の重さ
特派員のひとりごと第2回 「歴史」をめぐる戦い
特派員のひとりごと 第1回 政治の季節
Noriaki Tomisaka: 1976年8月27日福井県生まれ(辰年、乙女座、B型) 1994年 京都大学法学部入学 1999年 テレビ朝日入社 朝のワイドショー(「スーパーモーニング」)夕方ニュース(「スーパーJチャンネル」)などのAD・ディレクターを担当 2007年〜 経済部にて記者職を担当 農林水産省、東京証券取引所、財務省などを取材 2011年9月〜 北京・中国伝媒大学にて留学生活を開始(〜2012年夏まで)